2 第一部 冬の国
(クソッ、こんな所でくたばってたまるか…っ!)
凍える冬の大海になすすべもなく帆船は沈みゆく。
浅黒い肌を持つ荒れた黒髪と髭の男は、ただ船の残骸にしがみ付き歯の音が合わないまま震えていた。
視線の先には、眼前に切り立つ断崖の頂き、巨大な氷の馬にまたがりその手には恐ろしく切っ先の鋭い氷の馬上槍がさえざえと輝く。
馬上の男は長身で、その身にまとう白銀の鎧は一部も隙がない。
長くたなびく髪は銀色に輝き、厚く被った兜から垣間見えるその双眼は見る者全てを凍て殺すが如く、静かに、冷酷に眼下に広がる惨状を見下ろしている。
かつて帆船であった残骸にしがみ付く男は、夏の国の人間であった。
かの国は砂漠と海に囲まれた、この世界において2番目の国力を備えている。
年中気温は高く火山を有するがゆえに、その民にとって貴重なものがこの冬の国にあった。
それが氷結石である。
それは冷却作用をもたらし暑さを和らげるが、希少であるがゆえに、高値で売りさばかれた。
氷結石は冬の国においても重要な資源である。
取扱いには冬の国を統べる女王自らの許可が必要なのだが、それゆえに貴重な資源を常に掠め取ろうとする密猟者が後をたたない。
いま、そうして冷たい水底に沈まんとする輩こそが、そうであった。
夏の国の人間にとって、冬の国への密航、密漁は命がけであった。
いや、むしろ無事に祖国へ帰還した者を数える方が早い。
特にここ数十年においては限りなくゼロであるといえる。
その噂は密漁を生業とする人間であれば当然耳にしていた。
冬の国における武力は一切合切、この眼前の男に委ねられているのだと
「冬将軍…っ!!」
畏怖に染まる悲鳴にも近い男の声はしかし程なくして冷たい水底へと沈んでいった。
強固であったはずの夏の国の帆船は、ただ一騎の将軍の貫く、無慈悲な一撃でもってあっけなく、もはや紙屑のように、あとかたもなく吹雪が吹きすさぶ、凍える大海のチリとなったのだ。
しかしそれは将軍にとっては、取るに足りない事であった。
絶えず、密漁、密航、奴隷の斡旋、凶暴な害畜の駆除、あらゆる障害を掃討しているのだ。
その圧倒的武力は全てが
(我が女王陛下、御為に…)
固く鍛え抜かれた長い手足、精悍な肉体と厚い兜から垣間見える唇は薄く引き締まり、その眼は冷たく冴えざえとして感情を知らないかのようである。
齢は30の手前だろうか。
落ち着いた所作からは長い長い、想像を絶するような過酷な鍛錬の行きついた結果を思わせる。
かつて大雪原で冷たく震え、かぼそく息を漏らしていたあの小さな少年の面影は、もはや微塵も残ってなどいなかった。