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17 春の国(3)


男が一人、眠っていた。


寝台は広く豪奢であるが、その敷かれたシーツは薄汚れ、悪臭に満ちている。

眠る男は盛大ないびきをかきながら、肥え太った手足をだらしなく伸ばし皺だらけの顔には、年齢特有の茶色くかさぶたのようなシミがまばらで、かつては豊かな薄紅色の髪であったのだろうか、今や見る影もなく禿げ散らかし、数本ばかりがちらちらと残るばかりで、それがまた一層卑しく、不潔な印象を醸し出している。


突然、急激に咳き込み嗚咽を漏らしながらその重たく衰えた身体を起こす。

その部屋には冷気が、漂っていた。

窓でも開いていたのか、役立たずなメイドの不手際に男は舌打ちする。


そうして苛立たしげに顔を上げた時、目の前には一人の男が立っていた。


淡く長い金髪、涼やかで切れ長の瞳は澄み渡る蒼穹の色を思わせる。

長身痩躯でありながら、銀色に輝く長いコートの下には鍛え抜かれた体躯である事が伺いしれた。


「…ちっ、父上…っ」


かすかな嗚咽のように漏れたその呟きは、長い年月による飲酒と不摂生によるものか言葉にならず、ただ濁った音だけが響く。

動揺したのは一瞬で、その鈍重な体に似つかわしくない素早さで身近においていた呼び鈴を手に取る。

途端、突然うめき声をあげて、その鈴を取った手を震わせた。

刺し貫くような痛み、鈴は冷たく凍り付いていた。

凍り付いた金属を掴んだ手の皮膚は凍傷を負ったようにただれて、痛みが容赦なく襲いかかってくる。


「兄の顔を見忘れてしまったのか…?アルフリート」


呻きながら苦しむ老人の頭上に、その端正な面立ちの男が静かに覗き込んでいる。

淡い金色の前髪がさらりと一筋男の額へ流れ落ちる時、それは銀色の輝きへと変わっていた。

声は涼やかで、低く理知的で、そしてとても穏やかで、恐ろしいほどに冷たい。


「兄?兄だと!?そんなものは…!」


ぐっ、と老人は黙り込んだ。幼い頃の記憶がおぼろげに脳裏をかすめる。

ひどく気にくわなかった異母兄が、ある日姿をくらました子供ながらに喜んだ記憶…

だが60年、それはもはや60年前の話だ。


「はっ!若造めが粋がって押し入る所を間違えたようだな!」


怠惰で性根の悪かった弟は、更なる年月を経て卑しさも増している。


伯爵の地位を得ていたエンド家は、いまや男爵位まで降格されていた。

かろうじて貴族であるのは、この辺境を守護する立場を放棄していないという理由のみである。

それも現当主みずから乗り出すのではない。

討伐はもっぱら報酬で雇った胡乱(うろん)な連中であった。

それは無頼な者ばかりで、荒れ果てた庭には酒瓶が散乱し、平民の女子をさらって連れ込むわ、討伐依頼をした貴族の屋敷に理不尽に乗り込むわ、全く始末に負えないありさまであった。

当主自らが金遣いが荒く、目的の為には手段を選ばない男である。

溺愛していた母親はとうの昔に病死したし、厳しいばかりで口うるさかった目障りな父親も自慢の後継者が失踪し意気消沈したところに、討伐で受けた傷が悪化し、この世を去った。


今更、兄などと名乗り出るとは笑える冗談だ。


「知らんようだな?貴様のような連中は嫌と見てきたわ。

 落ちぶれ貴族と舐めくさってたかってきた虫のような連中をな!」


嘲笑いながら片方の手で寝台にひそませていた剣の柄に手をかけた。


覗き込む男は身じろぎもせず、静かに薄く笑っている。


老人が剣を構えようとしたその時、激しく咳き込んだ。

胸をおさえのたうち回る。


「お…っ、おれを…っころすのか…っ、弟の…っおれを…っ」


激しく呼吸を乱し、えずきながら身をよじる。

冷気が肺へと侵入し、それはじわじわと緩やかに肺を凍らせているのだ。


「お前など、この手に掛ける価値もない」


男はもはや笑ってはいなかった。

いかなる感情の影も消え去ったままの双眸は凍てつく国の昏い空によく似ている。


そうして、静かに背を向け歩み去っていった。


苦しみ喘ぎ、悲鳴を上げる男の苦悶の声が屋敷の外へ漏れ出でても、救いはおろか駆け付ける者は誰一人としていなかった。

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