1 プロローグ
その少年は、もはや虫の息であった。
見渡す限り、真白の世界であった。
吹きすさぶ風は身を切るがごとく無慈悲で残酷なまでに冷たく、空は暗く、何もかもが静寂に包まれている。
その大雪原の中、ぽつりとうずくまる少年の手足は細く、痩せこけた頬、虚ろな瞳はもはや何も映すことなく、ただ小さく震え、死を待つばかりであった。
意識は遠のき、ただサリサリと雪と氷が擦れる音ばかりが聴こえる。
少年にはもう生きる為に為せることなど何一つなかった。
そうして、かそけき白い吐息が途切れるその瞬間
チリリ…と澄んだ金属音がかすかに鳴り響いた―…
うっすらと少年は目を開く、おぼろげな影は巨大でそれは身じろぎもせず、倒れ伏した少年を見下ろしているようである。
「…そなた…生きたいか…」
吹きすさぶ、冷たい吹雪は止まっていた。
ただ、凛とどこまでも響く、その声は氷よりも冷たく、静かに、冷酷に、けれども、この上なく、美しく、あまやかで、優しい…
少年の虚ろな瞳に光が宿った、澄み渡る蒼穹の色をもつ瞳にその眼前の姿を映し出す。
その姿は、雪より白く、ただただ白く、透きとおるような女性であった。
白さを通り越して、それはもはや透明であるかのように、反射した雪の光を浴びて七色に輝く背丈ほどの長い髪は、美しく両脇で乱れることなく編まれ、たおやかなその肢体に添ってしとやかに、その頭上には白銀の精巧で繊細な王冠を頂いている。
瞳は清冽な紫と青白さ、それは理知と、強固な意志のまたたきでもってきらめき、肌はぬけるように白く陶器のようにすべやかで、より薄く血の気のない小さな唇を際立たせ、それは意図せず官能的でさえある。
歳はいまだ成年前であるかのようだが、その身にまとう厳かな佇まいは誰であろうとも侮らせない威厳に満ちみちていた。
もはや命の灯が尽きる瞬間の少年の顔がわずかに震え、身じろいだ。
恐怖で慄いているわけではない、これは歓喜であった。
その虚ろな青い空色の瞳はただひたすらに眼前のその姿をとどめようと、全身の力をふり絞るがごとく、瞳孔と共に見開いている。
そうして気づいた事は、巨大なその影は、そのたおやかでほっそりとした女性の背後に付き従う、氷の彫刻のごとき二頭の馬の姿である。
その馬上には主君を害する全ての命を奪わんばかりの、冷たく強固な氷の鎧を身にまとう巨躯の兵士であり、その深くかぶった厚い兜の隙間から覗く双眸は、感情の消え失せた人形のごとくただ眼前の主人に付き従う忠実な僕のようである。
チリリ…と再び澄んだ音が響き渡った。
たおやかな肢体からすらりと伸びる真白な手が、少年の凍えた頭をふわりと撫でる。
その身にまとうものはただただ白く何一つ華美な装飾は見当たらない。
ただすらりとした細身の体をさらにしなやかに見せるその長い裾が、動くたびに凍てついた氷を砕き、散りばめたような輝きをまたたかせながら、女性は倒れ伏した少年の前に静かにその膝をついた。
瞬間、背後の巨大な馬とその馬上に跨る巨大な影もわずかに身じろぐ。
漂う張り詰めた空気に構わずその冷たくなった少年の小さく震える体を抱き寄せ、女性は静かに問いかけた。
「そなた…私の民になるか…?」
その声は甘やかで優しく、厳然で、冷たい声音でもあった。
だが少年はただひたすらに目の前の甘美な存在の姿を焼き付けようと、その空色の落ちくぼんだ双眼を見開くばかりである。
そうしてようやくわずかに、頷いた。
それと同時に、女性のなめらかで透きとおる陶器のような顔が少年の眼前に迫る。
その薄く小さな白い唇が、ひっそりとさらに小さく脆弱な少年の唇にかすかに触れ、その冷たい息を一息、吹き込んだ。
それは、少年にとって、生涯、得難いものとなった。
手足は痺れ、頭は朦朧とする。
だが、今味わったこの唇だけは熱い。
しかしその歓びはほんの刹那であった。
少年の身体は瞬時に硬直し、そうして耐え難い激痛が襲った。
堪らずその小さな体は冷たい雪原の上をのたうち回る。
だが決して悲鳴をあげることはなかった。
これは苦しみではなく少年にとって初めて味わう、悦楽なのだ。
そうして少年の伸びきって荒れた髪は白銀へと変色し、元の淡い金色の髪はわずかに部分的に残るばかりとなり、澄み渡る蒼穹の瞳には銀色の輝きがはらむ。
肩を震わせ喘ぎながら乱れていた呼吸が次第に落ち着いていく。
そうして静かに、少年はその地にひれ伏した。
しかし既に女性のそのかんばせには表情というものは全て消え去り、長く麗しい裾を翻し、静かに、厳かに何事も無かったといわんばかりに、立ち去っていく。
既に少年にとって、その身を切るような冷たい風も、骨ばかりの裸足を針のごとく突き刺す雪原も、何一つ、障害ではなかった。
ただ、一度、もう一度だけ、あの白く柔らかな唇を得る事が出来るのならば…
そうして少年は一歩、踏み出した。
おぼつかない足取りで、一歩、また一歩踏み出した。
眼前の女性はもはや少年に興味など失ったふうに、振り返る事なく歩んでいく。
その両側には影のごとく巨大な氷の騎馬が静かに侍っている。
その後ろを少年はひたすらに付き従った。
力無き双眸は、今や暗い夜空を一筋に流れる流星のごとくまたたかせ強く、固く、心に誓った。
いずれ必ず、彼女にこの熱い胸を思い知らせてみせると―
これが、氷の女王と、冬将軍の初めての邂逅である。