009 深夜の来訪者
夜分遅く。
部屋の明かりを落とそうとしていたところに、部屋をノックする音が聞こえてくる。
普段この部屋をノックしてくる人間など、マリアたちしかいない。
しかし彼女たちは今しがた下がったばかりであり、戻って来るとも思えないのに。
誰かしら。でも寝たフリをするわけにもいかないし。仕方ないわね。
「どうぞ」
私は若干体に力を入れながら、ベッドの縁から立ち上がった。
そして何があってもいいように身構える。
「遅くにごめんなさいね、奥サマ?」
「あなたは……」
部屋の前に立っていたのは、薄いドレスを身に纏ったあの愛人だった。
赤く形の良い唇に、やや青みがかった大きな瞳。
真っ直ぐに手入れされたハニーブロンドの髪が、とても輝いている。
豊満な胸と、くびれた腰。
同性の私から見ても、彼女が美しいのは分かった。
「確か、アンヌ様でしたか?」
「それはあの方が呼ぶ名よ。アタシはマリアンヌ。これでも子爵家令嬢なのよ」
「子爵家令嬢……。それは失礼いたしました」
私がさも当たり前のように頭を下げると、マリアンヌは心底嫌そうな表情を向けた。
嫌味なつもりはなかったんだけど、貴族式に言うと、こういうのも嫌味になるのかしら。
「まったく……貴女も貴女の父親も最悪ね。嫌いだわ」
感情をあらわにする辺り、あまり貴族っぽくはない気がする。
でも、嫌いという言葉は、私にも言えることなのだけど。
ただ夫を愛してなどいないし、興味すらないから嫌うまでもいかないのが現実ね。
大きくため息をついたかと思うと、マリアンヌはずかずかと私の部屋に入ってくる。
そして勧められたワケでもないのに、そのままソファーへと腰かけた。
「と、言いますと?」
「アタシのモノになるはずだったのに」
「この男爵家が、ですか?」
こんな没落寸前の家が欲しかったなんて、意外ね。
彼女みたいな美人なら、別にココに固執しなくても良さそうなものなのに。
「馬鹿なの?」
「は?」
「……話にならないわ。貴女もあの父親と同じ人種なのね」
「父を知っているのですか?」
っていうか、あの父と同じ人種とか言われるのは、いくら私でも不愉快だわ。
今の私の発言、彼女を怒らせるほど、どこかおかしかったかしら。
「ええ。貴女との結婚の話が出た時に、辞めてもらうように交渉に行ったのよ!」
「へー。それはまた、すごいですね」
「何で他人事なの?」
「いえ、そういうわけでは? ただ、アレに抗議しに行くなど無謀かと思いまして……」
抗議なんかで、父は動くような人間ではない。
同情や情け、それに感傷といったものにも動かされることはない。
その体に赤い血が流れていないと言われても、私は決して驚きもしないわ。
あの人が自分の意見を曲げることなんて、絶対にないから。
例え貴族に何か言われたとしても、裏から手を回すに決まっている。
私はそんな光景を何度も見てきた。
「貴女、アタシを馬鹿にしてるの?」
「いえ。むしろその逆で、すごいなぁと感心していたところです」
「そういうのを馬鹿にしてるって言うのよ!」
「そうなのですか? 貴族になってから、まだ日が浅いものでどうぞご容赦下さい」
貴族って難しいわねぇ。
これから貴族として生きて行かなきゃいけないのに、困ったものだわ。
「貴族とか、そういうコトじゃなくて……。あー、もういいわ。貴女と話してると論点がずれていく」
「そうですか? そんなつもりはなかったんですけど」
「貴女、変わってるって言われない?」
「どうでしょうか……。そういうコトを言い合うような友だちもいないので」
マリアたちは仲間で同志のような存在だけど、友だちというのは少し違うのよね。
どこまでいっても、私たちの間には少し隔たりがある。
それはあくまでも、使用人としての心遣いなのだろうけど。
考えたら、友だちすら作れないほどの時間を私は生きてきたのね。
「……ホント、貴女も大概ね」
「はぁ、すみません?」
でも今までの話からすると、彼女は私とダミアンとの結婚を阻止しようとしていた。
あの父に抗議するほどに。
かといって、それはこの男爵家が欲しかったからの行動ではない。
「マリアンヌ様はあの人……ダミアン様を愛しているのですね」
「そうよ!」
マリアンヌは真っすぐに私を見据えた。
その瞳に嘘はない。
ああ、そうか。だったら許せるはずなどないわね。
「すみません」
「どうして貴女が謝るの? 辞めてよ。惨めになるから」
「でも、すみません」
「だから!」
「全てうちの父のせいです」
「……知ってるわよ。貴女のせいではないことぐらい」
知ってたんだ。
私がこの結婚に賛成などしていないことを。
でもだったらどうして、今日ここへ来たのかしら。
「知っているのなら、マリアンヌ様は何を?」
「交渉よ」
「交渉? それは一体、どういう意味ですか?」
「これ。貴女が一番欲しいものじゃなくて?」
マリアンヌはそう言うと、持っていた黒い背表紙の重厚な本を私に掲げて見せる。
「それは?」
「この男爵家の帳簿よ。探してたんじゃないの?」
「……」
「隠さなくてもいいわ。こっちだって、見返りを求めてのコトだから」
さて、どうしたものかしら。
確かにあの帳簿は、私たちの今後にどうしても必要となるもの。
でも果たして彼女が求めるものをこちらが出せるのか。
そこが何とも言えないのよね……。




