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その恋、上書きします

作者: 多田 灯里

「お疲れ様でーす」

「あれ?竹中君?めずらしいね。お疲れ様」

山庄郵便局の局長が、竹中基樹が本局から持ってきた荷物を確認するのに、席を立つ。

「そうなんスよ。急に一人休んじゃって。あ、ここハンコお願いします。それと、ちょっと片瀬さんにお話があって」

「片瀬君に?」

自分の名前が会話に出て、片瀬渉流はゆっくりと竹中の方を見た。

「授受が終わってから、ちょっといいかな?」

その日に山庄郵便局でお客さんから引き受けた荷物や郵便物を竹中へと渡し、授受の確認用の帳簿に、双方の確認印を押すと、片瀬は竹中と一緒に十月の秋の空に広がる外へと出た。

「何か?」

片瀬は、綺麗に整った顔立ちの表情を一つ変えずに、今預かった荷物と郵便物を郵便局の赤車に詰め込んでいる竹中を見た。ポストの鍵を開け、郵便物を回収しながら、竹中が言った。

「いや、片瀬さんも結構遊んでるって聞いたからさ。男もイケるんでしょ?良かったら、今度相手してもらえないかなー、と思って。俺、絶対に損させないと思うよ?」

竹中が、片瀬を見て蔓延の笑みを浮かべる。

「その話、誰から聞いたんですか?」

「え?梶尾課長代理からだけど…」

しばらくの沈黙。

「悪いんですけど、俺は好きになった人としか、そういう事をしない主義なので。遊び相手が欲しいなら他を当たってもらえますか?」

「え?でも…」

「どうしてもって言うなら、あなたのことを好きにならせる事が出来たら、相手をしてあげてもいいですよ。絶対に無理だと思いますけど」

そして、片瀬は踵を返すと「最悪」と呟いて、局内へと戻って行ったのだった。


「片瀬渉流って、谷川郵便局の田鍋さんと同期のだろ?バカか、お前。しかも仕事中に」

本局の郵便課に戻った竹中が、同期の安永に呆れられる。

「だよなー」

竹中が片手で頭を抱え込み、その場にしゃがみ込む。

「だいたい、いくらそんな話を聞いたからって、本人に面と向かってそんな事を言いに行くなんて普通しないだろ。失礼すぎるぞ」

「すげぇ軽いノリのつもりだったんだ。課長代理が言うし、本当の事なんだろうな、と思ったのもあって。もっと、こう、軽いノリで返してくるかなーとも思ってたって言うか」

「とにかく、もう一度会って、ちゃんと顔見て謝ってこいよ」

「…ああ」

片瀬渉流。沈黙になった時に、一瞬表情が歪んで、泣くのかと思った。あんな悲しい顔をする奴がいるんだ…。とても悪い事を言ってしまったんだと、本当にそう思って胸が痛くなり、全く言葉が出なくなった。

「片瀬渉流って、田鍋ちゃんと仲良いの?」

「え?ああ。結構、仕事のことで電話したり、たまに一緒に飲みに行ったりしてるみたいだけど」

竹中の同期の安永は、片瀬の同期の田鍋と恋人関係にあった。

「そっか…。あいつ、笑ったりすんのかな…」

片瀬の淡々とした授受の業務をこなす態度や、竹中に対して一切の表情を変えないクールな振る舞い。竹中は、つい小さなため息を漏らしたのだった。


「お先に失礼します」

仕事を終え、ガチャリと職員出入口のドアを開けて片瀬が出てくる。車へと向かおうとする片瀬の目の前に、突然現れた人影。ビクリと一瞬驚いて、立ち止まる。

「何ですか、突然。こんな暗い中、ビックリするじゃないですか」

片瀬が、淡々とした口調で話す。

「ごめん。今日のこと、どうしても謝りたくて。本当に悪かった」

竹中が言うと、

「…へぇ。竹中さんて、普段はおちゃらけてるって聞いてますけど、そういう面もあるんですね。まぁ、確かに今日は急にあんなことを言われて、一日中気分は悪かったですけど」

片瀬は足早に歩くと、車の鍵をリモコンで開けた。

「本当に、マジでごめん。無神経すぎた」

「もういいです。別に」

そう言って車に乗り込むと、片瀬はすぐに車のエンジンをかけ、暖気運転することもなく車を発進させ、あっという間に見えなくなった。

「絶対、まだ怒ってるよな…」

竹中はその場にしばらく佇み、そしてため息を吐くと、郵便局の赤車に乗り込んで配達業務へと戻ったのだった。


「らしくないな」

翌日、赤車に配達分の荷物を載せようと、台車で運んでいる竹中に、安永が声を掛けてきた。

「何が?」

「いや。お前が悩んでるところ、あんまり見たことないから。今回はやけに悩んでるな、と思って」

「…俺さ、今まで真剣に恋愛ってしたことないから、何か、あいつの言葉が胸に刺さったって言うか。まぁ、あんな風に人に冷たくあしらわれたっていうのも初めてだったし。このまま気まずいままで、いたくないんだよな。傷付けてしまったのは事実だし、もう許してもらえないかもしれないけど…。最悪って言われたし」

「最悪なのは、今に始まったことじゃないだろ?手癖が悪すぎるんだよ。俺の彼女、何人に手を出したと思って。挙げ句の果てに、田鍋さんが俺のこと好きなの知ってて、口説くし、手を出そうとするし」

「本当だよなー。でも、もうお前と田鍋ちゃんの邪魔する気はないぜ?お前を純粋に愛する田鍋ちゃんに、心打たれちゃったから。田鍋ちゃんにちょっかいかけると、お前、本気で怒ったし。あんなお前見たの、初めてだったからな」

「あの人だけは、本当に誰にも渡したくないって思ったんだよ」

「ラブラブで羨ましいよ。でも、ノーマルのお前が男の田鍋ちゃんと付き合うと思わなかったなぁ」

「純粋に俺を愛する気持ちに、心打たれたんだよ、マジで」

「ふざけんなよ。俺が今言ったこと真似しただけじゃねーか。だいだい、ノロケすぎなんだよ。俺が真剣に悩んでんのに」

安永が笑う。

「恋愛について真剣に考える、いい機会なんじゃないか?何か、態度は冷たいのかもしれないけど、貞操観念は田鍋さんに似てるな。好きな人としかしたくないっていう、一途なところとか」

「それだよ!」

「え?」

「俺が田鍋ちゃんに惹かれたのは、その純粋さなんだよな。絶対に手に入れたい!って思った」

「恋人を前にして、そんなこと良く言うな。お前は一生悩んでろ」

そう言って、安永は赤車に乗り込み、そして少しだけ笑みをこぼした。

「もしかして、片瀬渉流のこと、本気で好きになりかけてるのかもな…」

と、呟きながら。


それから何日間か、竹中は山庄郵便局に行くことが続いた。山庄郵便局の局長は、以前、郵便課にいたこともあり、竹中が荷物を取りに行くと、話をしたいのか自らが率先して前に出てしまう。

竹中は、片瀬のことがどうしても気になり、局長と話しながらも視線を片瀬へと向ける毎日だったが、片瀬は全く竹中の方を見ようともせず、パソコンに向かって何か業務をしているか、窓口で接客をしているかの、どちらかだった。


「ヤバい。めっちゃ緊張する」

竹中が赤車の中で呟く。最近、毎日こうだ。

対応は局長がすると分かっていても、片瀬がいると思うだけで呼吸がうまくできなくなるのだ。

竹中は、深く深呼吸して、そして山庄郵便局の荷物を確認しながら、車から下ろした。

「お疲れ様でーす」

普段通りにと心がけながら、竹中が山庄郵便局宛の荷物と郵便を持って局内に足を踏み入れる。

「お疲れ様です」

片瀬がハンコを持って席を立ち、竹中へと歩み寄る。突然のいつもと違う状況に、竹中はひどく動揺した。

「あ…、えと、局長は?」

竹中の鼓動が明らかに早くなった。

「いますよ。後ろの倉庫に。呼びますか?」

「いや、いい。いいよ。片瀬さんと話したかったし…」

「何を?」

「何って…。何か、いろいろと…。その、この前のこと、まだ怒ってる?」

竹中が尋ねたが、片瀬は返事をしなかった。気まずくなって、すぐに、

「あ、これ、山庄郵便局宛の書留が一通と、ゆうパックが二つあるから、ハンコお願いします」

と、話を仕事のことに戻した。

片瀬は無言で書留とゆうパックの分の受領のハンコを押した。そして、

「はい」

と、三枚の受領証を竹中に渡すと、

「今日はゆうパックが六個と、速達が二通と、あとは普通郵便です」

そう言って、授受の帳簿にハンコを押すと、片瀬は素っ気なく自分の席へとすぐに戻った。

竹中は黙って受領証を書留用のカバンにしまうと、授受の帳簿に自分のハンコを押し、

「また夕方の授受に来るんで、お願いします」

と言って、荷物と郵便を預かって、山庄郵便局をあとにした。


「あんな態度を取られると、マジでキツイ」

食堂でコンビニ弁当をガッつきながら、竹中が安永にぼやく。

「自分で撒いた種だろ」

「どうしたら許してもらえると思う?」

「さぁ…」

「お前、聞いてみてくれよ」

「何で俺が」

「お前のその超イケメンスマイルで、そして、そのスタイルの良い体中から溢れ出す温厚な優しいオーラで、片瀬渉流は絶対に気を許す!」

「バカ言ってないで、自分で努力しろ」

「じゃあ、片瀬渉流と仲の良い田鍋ちゃんに相談するから、会わせて」

「全力で断る」

そこに、

「竹中」

と、郵便課の梶尾課長代理がやって来た。

「何スか?俺、梶尾課代のせいで、今、ひどい目に遭ってるんスからね」

と、竹中は軽く梶尾を睨んだ。

「何かあったのか?」

「片瀬渉流に、遊んでるって聞いたから、俺の相手もしてほしいって言ったら、最悪って言われて、無視されるようになっちゃって」

梶尾の顔色が、少し変わる。

「本人に言いに行ったのか!?」

「はい」

竹中の言葉を聞き、梶尾がしばらく黙り込むと、

「分かった。もう山庄郵便局には行かなくていいようにするから…。勤務表、変更しとく」

と、静かに呟いた。

「いや、いいっスよ。個人的な意見で集荷先を変更してもらうの悪いんで。それに、片瀬さんに普通に接してもらえるまで、頑張りたいし」

「いや!もう行かなくていいから!」

いつもは穏やかな梶尾が声を荒げたことに、竹中はひどく驚いたのだった。


「お疲れ様です」

「あれ?安永君?確か、夕方の集荷も竹中君が来るって片瀬君から聞いてたんだけど」

「梶尾課長代理が急に変更してしまって…」

安永の言葉に、片瀬の体が、一瞬硬直する。

「いやぁ、安永君、相変わらず男前だねー。周りの女子がほっとかないでしょ」

「そんなことないです。荷物と郵便、これだけですか?ありがとうございます」

授受簿にハンコを押し、郵便と荷物を預かって山庄郵便局をあとにする安永の背後から、声が掛かった。

「安永さん!」

振り返ると、片瀬が立っていた。

「大丈夫?局長怪しまない?」

赤車に荷物を詰め込みながら、優しく尋ねる。

「引渡し用の書類、渡し忘れたって言ってきたんで」

「大丈夫だよ。渉流君が心配するようなことにはなってないから。辛い時は、いつでも翔汰のこと頼って」

「でも、あんまり会う時間がないって聞いてるし、本当は二人でいたいんじゃ…」

「俺は友達を大事にする翔汰のことも好きだから、心配なさらずに…」

安永が微笑むと、片瀬も綻んだ笑顔を見せた。

「翔汰君の恋人が安永さんで、本当に良かったです」

「あんまり深く悩まずにね」

安永の優しい言葉が、傷付いている片瀬の心に、深く沁みた。

その日、仕事が終わり、片瀬が職員用玄関を出ると、薄暗い中、竹中が佇んでいた。

「仕事、大丈夫なんですか?」

言いながら、片瀬が足早に竹中の横を通り過ぎる。

「あの、俺、もうここの局に来れなくなっちゃって。それで、連絡先を教えてもらえないかな…と思って」

竹中が、片瀬の背中に向かって、必死に声を掛けた。

「俺、今度の日曜日に、新しい携帯に変えるんで」

そう言って、片瀬は車に乗り込むと、すぐに車を走らせた。

「何も、そんなウソまでつかなくたって…」

竹中は、肩を落とした。そして、ズボンのポケットに用意してあった、自分の連絡先を書いてあるメモを取り出し、深くため息を吐いた。

いつもみたく、軽いノリで連絡先を渡せばいいのに、あいつの前だとなぜかうまく話せなくなる…。

こんな感覚は本当に初めてで、竹中はらしくもない自分の感情にひどく戸惑っていた。


そして、月曜日の仕事終わりのことだった。

片瀬が帰ろうと外に出ると、雨の降る中、また竹中が立って待っていた。

「今日も来たんですか?局長に見つかったら怪しまれますよ」

片瀬は竹中を自分の傘の中へと入れた。

「ごめん。これで本当に最後にするから」

心臓が激しく鼓動を打つ。緊張からか、雨に濡れた寒さからか分からないが、手が微かに震えていた。

本当に、何なんだ。片瀬渉流がそばにいるだけで、言いたいことも言えなくなって、当たり前に出来ていたことも出来なくなるような、こんな感覚…。

竹中が手に持っていたメモを渡そうとした時、片瀬から「傘、持ってもらっていいですか?」と傘を手渡された。片瀬はカバンから手帳を出すと、一枚のページを破り、胸ポケットに差してあるボールペンで何やら書き出した。そしてその紙を竹中の胸へと押し付けた。

「これ、俺の連絡先です」

「え!?いいの?」

「いらないなら捨てて下さい。毎日のようにここに来られても迷惑なんで、教えるだけです」

「いらないワケないだろ!俺、絶対に教えてもらえないと思ってたから…」

「新しい携帯に変えるのに、前の連絡先を教えても二度手間ですから」

「これ、俺の連絡先…」

指先が震えて仕方なかった。胸を打つ鼓動が、片瀬に聞こえてしまうんじゃないかと思うくらいだった。

「どうも」

片瀬はそれを受け取ると、コートのポケットに仕舞い込んだ。

「ありがとう」

竹中は、その言葉を言うのが精一杯だった。

その夜、電話番号でメールをしようとするが、何度も何度も打ち直す。

「どうしたらいいんだ?」

変なことを送って嫌われたくない。

週末、食事にでも誘いたいけど、急に誘って引かれたりしないだろうか…。

そんなことを考えているうちに、一時間以上が過ぎていた。

「とりあえず、お礼のメールとLINEの招待だけしておこう…」

今日は連絡先を教えてくれて、ありがとう…と。

しかし、その日、片瀬からの返信はなかった。夜中に何度も何度もスマホを見ていた。そして、返信のないまま朝を迎えた竹中は、こんなにも落ち込むものなのか、と自分でも驚くぐらいだった。


「昨日の夜、メールしたんだけど、返信来なくて」

竹中が覇気のない声で安永にぼやく。

「昨日の夜、窓口勤務職員対象の研修があって、かなり長引いたとかで、帰り遅くなったみたいだな」

「え?」

「田鍋さんから、朝、LINEがあった」

「そっか…」

竹中が少し安堵する。

「俺は、お前からLINEの返信もらったことないけどな。いつも既読スルーだろ?」

「え?そうだっけ?」

「勝手な奴」

安永が呆れたように呟いた。

「週末、誘ってもいいかな?」

「俺に聞くなよ。嫌なら断るだろ」

「そうだよな…。嫌なら断るよな。でも、断られたらどうしよう。俺、立ち直れないかも…」

「知るか。早く配達に行けよ。今日、そっちの区の郵便、かなり多いんだろ?」

安永が竹中の背中を押す。

「だいたい、本当に嫌なら連絡先なんか教えないだろ、普通」

竹中が、安永の言葉にハッとする。

「そうだよな。うん、よし!誘おう!」

単純な竹中は、それだけで元気が出たのだった。


そして、その週の土曜日の夜のことだった。

「こんばんは」

一人暮らしをする竹中のアパートに、安永と田鍋がやって来た。

「あ、どうぞ」

「お邪魔します」

「田鍋ちゃん、久しぶりだね。安永が絶対に会わせようとしてくれなくて」

「当たり前だろ」

安永がムッとする。

「今日はありがとね。何か、いきなり二人でって言うのも抵抗あるかな、と思ってさ。安永に協力頼んじゃって。とりあえず、適当に座って」

「僕はいいんですけど、めずらしく慎重なんじゃないですか?僕のこと誘った時は、この店に何時に!って、一方的に、返事も聞かず強引に誘ってきたのに…」

「いや、本当に、マジで自分でも分かんないんだよね。何でこんなに慎重になっちゃうのかさ」

「好きになったんだろ?」

安永が呟いた。

「え?」

竹中と田鍋が、同時に安永の方を向いた。

「片瀬渉流に、本気で恋したんだろ、って話だよ」

「そうなんですか?」

田鍋が、竹中のことを興味津々と言った目で見る。

そこに、インターホンが鳴った。

「あ、はい!」

竹中が慌てて玄関へと向かう。扉を開くと、片瀬が立っていた。

「こんばんは」

綺麗な顔立ち。黒くて澄んだ瞳が、少し潤んでいた。

うわっ!ヤバい。安永が変なこと言うから、めっちゃ意識しちゃって、目が合わせられない…。

「渉流君!」

田鍋が奥から覗き込む。

「あ、翔汰君」

片瀬が笑顔になる。

初めて見るその笑顔に、竹中の心臓が跳ね上がった。

「あ、どうぞ。上がって」

「お邪魔します」

部屋へと向かう片瀬の後ろを竹中が歩いて付いて行く。郵便局の制服の時とは全く違う印象の片瀬の後ろ姿から、竹中は目が離せずにいた。

「あ、安永さん、こんばんは」

「こんばんは」

安永が優しい笑顔で応え、チラリと竹中を見ると、

「竹中、顔が赤いぞ」

と、からかい交じりに言う。

「本当だ。すごい赤い。大丈夫ですか?」

田鍋が心配する。

「もう飲んでるんですか?」

片瀬がコートを脱ぎながら尋ねた。その、思った以上に華奢な体付きに、竹中はドキッとした。

「いや、まだ飲んでないよ。今、鍋の準備するから、座ってて」

竹中がキッチンへと向かう。

「手伝います」

片瀬が声をかけ、一緒にキッチンへと歩き出す。

「渉流君、調理師の免許持ってるんですよ」

田鍋が言うと、

「へぇ!すごいじゃん」

と、竹中が片瀬の方を見た。

その瞬間に目が合う。

うわあっ!

竹中は思わずフイッと目を背け、俯いたまま流しで手を洗い始めた。まともに目が見られない。何だ、俺。何でこんなに意識してしまうんだろう。

「あ、すごい。もう材料切ってあるんですね。これ、あっちのテーブルに運べばいいですか?」

「うん。テーブルの上に、簡易コンロと鍋用意してあるから、材料入れて火にかけてくれる?」

流れる水を見たまま、目を合わせずに返事をする。

「了解です」

了解です…だって。超カワイイじゃねぇかよ!

竹中は、誰にも分からないように、一人でニヤけていたのだった。

それから、片瀬の顔をまともに見られず、横顔を眺めながら、竹中はチビチビと酒を飲んでいた。

「ちょっと酔ったかも…」

田鍋が、安永の肩にもたれかかる。

「大丈夫?少し横になる?」

安永が田鍋の肩に手をやり、その顔をそっと覗き込む。

「良かったら、こっちの部屋使えよ。安永、布団の場所分かるだろ?」

竹中が言うと、

「悪いな」

と、言いながら、安永は田鍋を連れて別の部屋へと移動した。

「いいなぁ…」

片瀬が呟く。

「何が…?」

「あんな素敵な人が彼氏で、翔汰君、本当に幸せだな…って思います。お似合いだし」

「確かに…。ちなみに、片瀬さんは、付き合ってる人とかいないの?」

竹中がさりげなく聞くと、しばらく黙って、そして

「今はいません」

と、静かに答えた。

「好きな人も…?」

「そうですね…。今は、まだいいかな、って思ってます」

「そっか。じゃあ…」

竹中が、床に置いてあった片瀬の手をギュッと握る。

「俺っ、こんなこと初めてで、戸惑ってるんだけど、片瀬さんに毎日でも会いたいって、すげぇ思ってて。LINE一つするのにも、こんなこと送って嫌われないかな、とか一時間以上考えたり、めちゃくちゃ慎重になってしまって。遊び相手とか、もう本当にそんなのどうでも良くて。ただ純粋に…」

フウッ、と一度息を吐く。そして、勢い良く空気を吸い込むと、

「俺は、片瀬さんを好きになったんだと思う。できれば、ずっと側にいさせてほしい。俺のこと好きじゃなくてもいいから。でも、もし、今度誰かのことを好きになろうと思う時が来たら、俺のことを好きになる努力をしてもらえたら嬉しい…んだけど。絶対に大事にするから」

ドッドッと、激しく心臓が鼓動を打つ。

片瀬は、返事をせずにいた。しばらくの沈黙。竹中は分が悪くなり、

「ごめん。マジで何言ってんだろうな、俺。超ハズい。こんなこと今まで誰にも言ったことなかったから、何か顔とかめちゃくちゃ熱いし、ちょっと外に出て涼んでくるわ」

竹中が、慌てて外へと出て行った。片瀬は、その場から動けなかった。

そこに、

「どうするの?」

と、安永が後ろから声を掛けてきた。

ビクリ、と、片瀬の体が一瞬、硬直する。

「あ、翔汰君は寝たんですか?」

「ああ…。俺が言うのも変だけど、竹中は悪い奴じゃないよ」

「…はい。分かってます。ただ、今はまだそういうことを考えられる余裕がなくて。それに、竹中さんは相当な遊び人なんですよね?俺、もう傷付く恋愛はしたくないんです」

安永が、片瀬の横に、ゆっくりと座る。

「今はまだ深刻に考えなくていいよ。竹中も戸惑ってるところだろうし。それに少しは恋愛で悩んで辛い思するといい」

「安永さん、竹中さんに厳しいんですね。まあ、今までの話を聞いてたら、仕方ないのかもしれないけど…」

片瀬がクスクスと笑う。

「渉流君も、竹中に冷たくしてたんだろ?」

「そうですね。最初の出会いも最悪だったし、俺、極度の人見知りなんで…」

片瀬が安永のグラスにビールを注ぐ。

「ごめんなさい。何かいろいろあって、気持ちが追い付いていかなくて」

「大丈夫だよ」

安永が、ポンポンと、片瀬の頭を軽く叩く。安永の優しさが心に響き、片瀬の瞳から涙が零れた。

「すみません」

片瀬は、安永から顔を逸らすと、

「俺、今日はこれで失礼します。片付けもせず、すみません」

と、立ち上がった。

「いいよ。竹中にはうまく言っておくから。気を付けてね」

「はい。ありがとうございます」

そして、片瀬は竹中のアパートをあとにした。


「あれ?片瀬さんは?」

竹中が戻ってくる。

「何か明日早いからって、先に帰った。片付けもせず、すみません、てさ」

「そっか…」

竹中が少し残念そうに俯くと、そのまま安永の横に腰を落とし、あぐらをかく。

「さっきの、もしかして聞こえてた?」

「ああ。思いっきり」

「片瀬さん、何か言ってた?」

「別に何も。渉流君が考えることであって、俺が口出しすることじゃないしな」

「確かに、そうなんだけど…」

竹中が黙り込む。

「俺たちもそろそろ帰るよ。片付け手伝うから、これ、流しに運べばいい?」

「いや、いいよ。明日休みだし、ボチボチやるから。今日はマジでサンキュな」

「いや。それより、渉流君のことだけど。本気で好きなら、ちゃんと誠意を見せろよ」

「え?ああ。それはもちろん」

「渉流君、真面目なんだから、傷付けるような真似したら、俺と翔汰が許さない」

「わ、分かってるよ」

そう釘をさし、安永は田鍋を連れて帰って行ったのだった。


そして、週明けの月曜日の夕方のことだった。

竹中から、仕事終わりの片瀬へと電話がかかってきた。

「健康診断ですか?」

「そう。明日、職場の健康診断に来るだろ?何時頃にこっちの本局に来る予定なのかな、と思って」

「局長からは、十時頃にって言われてますけど」

「あ、じゃあ、俺もその時間に合わせることにする」

「そんなこと、可能なんですか?」

「可能にするんだよ。じゃあ、明日…」

そして、電話が切れた。

翌日の健康診断、当日のことだった。一緒に検診を受けようと、片瀬の姿を探していた竹中は、片瀬が梶尾課長代理に手を引かれて、どこかへ連れて行かれる姿を目にし、慌てて後を追いかけた。

「何ですか?」

屋上へと向かう階段の踊り場から、片瀬の声が聞こえて、思わず身を隠した。

「納得いく理由を聞かせて欲しい。急に別れると一方的に言われても、俺は承知した覚えもないのに、携帯の番号も替えて、一体どういうつもりだ?」

「そっちこそ、俺と付き合ってる間に、奥さんが妊娠したじゃないですか」

「不倫と理解してて、付き合っていたんだろう?」

「違います。俺は、梶尾さんが奥さんとうまくいってなくて離婚するって言ってたから。一緒に住もうって言ってくれたから、心も体も許したんです」

真実を知った竹中は、足元から崩れてしまいそうだった。

「もう一度やり直したいんだ」

「無理です。もうすぐお子さんも産まれるんでしょ?それに、これ以上、奥さんのことも傷付けたくありません」

「渉流。俺はまだ渉流のことが好きなんだ」

片瀬の腰を引き寄せて、梶尾は片瀬の顎に手をかけると、自分の唇を片瀬の唇へと寄せて行く。

ダン、ダン、と、わざと大きな音を立てて階段を上り、竹中が二人の前に立ちはだかった。

「そういうことだったんですか…。俺、全然知らなくて…」

「竹中さん!」

「何も知らず、告白までして、一人で浮かれて、すげぇバカみてぇ…」

竹中は静かに呟くと、ゆっくりと歩き出し、力ない足取りで階段を降りて行った。

「待って下さい」

竹中を追いかけようとする片瀬の腕を梶尾が勢い良く握る。

「渉流!」

「離して下さい!もう梶尾さんとは、よりを戻す気はありませんから!」

そう言うと、片瀬は梶尾の腕を思いっ切り振り払って、急いで竹中の後を追った。

「竹中さん」

階段を降りて行く竹中に追い付いて、腕を引く。片瀬は、その竹中の顔を見て、ひどく驚いた。

頬をいくつも伝う涙。唇をきつく噛み締めていた。

「かっこ悪いな、俺…」

そう言って、制服の袖口で涙を拭う。

片瀬は、ブンブンと激しく首を横に振った。

「…悪い。一人にして」

スルリと腕を抜くと、竹中は、長く続く局社の廊下を一人で歩き出した。片瀬は、そんな竹中に何も声を掛けられなかった。

そこに、不意にポン、と肩を叩かれて振り向くと、安永が立っていた。

「どうしたの?こんなところで。健康診断、もう終わったの?」

片瀬は思わず安永の腕にしがみついた。

「安永さん…。どうしよう…」

「どうした?」

「梶尾さんとの会話、竹中さんに聞かれて…」

「バレたのか?」

片瀬がコクン、と頷く。

「竹中は?」

「一人にしてって言って…」

「…大丈夫。心配ないよ」

「泣いてたんです」

「え?」

「竹中さん、泣いてたんです。でも、俺、竹中さんと付き合ってるわけじゃないし、弁解するのも変だと思って、何も声を掛けられなかったんです」

あの竹中が泣くなんて、マジで渉流君に惚れ込んでるんだな…と、安永は心の中で呑気に感心していたのだった。


竹中の携帯に着信音が鳴り響く。安永からだった。

「はい」

「どこにいるんだよ?こっちはお前の配達の分まで回ってきてるんだぞ」

「安永…。お前は知ってたのか?片瀬さんと、課長代理のこと」

「はあ?何だよ、仕事中に」

「いいから答えろよ!」

「…付き合ってる時のことは知らない。別れたあとに、翔汰と渉流君から、一緒に飲みに行った時に聞いた」

「何で教えてくれなかった?」

「何で、って、渉流君の過去の恋愛のことをいちいちお前に言うのか?その方が変だろ」

安永が、小さくため息を吐いた。

「…悪い。頭の整理がうまく出来てない。許せないんだ。あいつが片瀬さんのこと抱いてたかと思うと、すげぇムカついて。今日だって、俺が出て行かなかったら、あの二人、絶対にキスしてた…。俺、正直、ここまで片瀬さんに本気になってると思ってなかった」

話す竹中の声は、今にも泣き出しそうで、震えていた。

「お前にだって過去はあるだろ?しかも、まともな過去じゃない。それを責められたらどうするつもりなんだ?とにかく、早く戻ってこい」

そして、プツリと電話が切れた。


竹中が重い足取りで業務場所に戻ると、梶尾と安永が午後からの配達の段取りをしていた。

梶尾が竹中に気付き、近寄る。

「お前が渉流のことを好きだったなんて知らなかったよ。渉流は表面はクールで澄ましてるけど、ベッドの中ではかなり乱れるんだ。肌は白いくせに、後ろの大事なところは綺麗なピンクで、俺をくわえ込んだら、キツく締め付けてなかなか離してくれないんだぞ?」

竹中は、梶尾の胸ぐらを両手で掴むと、そのまま勢い良くロッカーへと梶尾の背中を叩き付けた。

ガシャン!!と激しい音が局内に響き渡る。

「竹中!やめとけ!」

安永がすぐさま止めに入る。そして、竹中の耳元で

「こんなことで将来を無駄にするな。手を出したらクビだぞ?何よりも、渉流君が傷付く。落ち着け」

キツい口調でたしなめる。

竹中は、胸ぐらを掴んでいた手を素早く離すと、その手で横の壁を思いっきり殴った。

「…人として、今の大人げない発言はどうかと思いますよ。梶尾課長代理」

そう言い残して、その場を去った。辺りは、しばらく静まり返り、騒然としていたのだった。


「もう、すごかったんスよ。竹中さんが課長代理の胸ぐら掴んじゃって。あれ、安永さんが止めに入らなかったら、マジでヤバかったっスよ」

山庄郵便局へたまに集荷に来る、若いアルバイトの子が、興奮気味に話す。

「へぇ…。で、ケンカの原因は何だったの?」

局長が尋ねる。

「さぁ…。そこには安永さんしかいなかったし、聞いても詳しく教えてくれなくて。何か、仕事のことで揉めたって言ってましたけど。しかも、竹中さん、三週間お休みするんですよ?この年末の忙しい時期に」

「え?謹慎?」

「ケガしたんですよ。壁を殴った時に右手の甲にヒビが入ったとかでギプスすることになって。バイクも乗れないし、運転も出来ないんで」

「うわーっ。ツイてないねぇ。まあ、若いうちはいろいろあっていいのかもね。僕も昔はよく上司と揉めたなぁ」

局長が呑気に昔を懐かしむ横で、片瀬は表情を強張らせていた。そこに局の電話が鳴った。片瀬が出ると、安永からだった。

「あ、渉流君?安永だけど。竹中がちょっとケガしちゃって。悪いんだけど、仕事終わってから広長整形外科に寄って、竹中のこと迎えに行ってくれないかな?俺が行こうと思ってたんだけど、あいつの配達分の郵便が回ってきて、残業になりそうなんだ。他に頼める人もいなくて」

「分かりました。大丈夫です。行きます」

「ごめんな。よろしく。竹中にも、渉流君が行くこと伝えておくから」

そして、電話が切れた。


仕事が終わり、片瀬はすぐに病院に駆けつけた。そこで椅子に腰かけて俯いている竹中を見つけ、静かに近寄った。

「大丈夫ですか?」

ギプスが痛々しい。

「全治三週間だって」

竹中が、弱々しい笑顔を見せる。

「何があったんですか?」

「別に、大したことじゃないから…」

「集荷の人から聞きました。梶尾さんの胸ぐらを掴んだって。安永さんが止めに入らなかったら、ヤバかったって…」

「俺が寛容じゃなかったんだ。課長代理が片瀬さんのこといろいろ言うから、ついカッとなって…」

「いろいろって…?」

「まあ、いいじゃん。会計済んでるし、もう行こう。悪いけど、アパートまで送ってくれる?安永に連れてきてもらったから、車ないし。ま、この手じゃ、運転も出来ないんだけど」

「教えてくれないなら、直接、梶尾さんに聞きに行きます」

片瀬のキツい言い方に、竹中は一瞬、表情を曇らせた。そして、重い口を開く。

「片瀬さんのベッドの中での様子をいろいろ聞かされたんだよ。だから、つい頭にきて…。やっぱ、好きな奴のそういう話、聞きたくないじゃん。俺、片瀬さんのことに関しては、感情が抑えられないっつーか。二人が付き合ってたって知っただけでも、ショックだったのにさ…」

そこまで言うと、竹中がキュッと唇を硬く閉じた。

「ごめんなさい」

片瀬が、竹中のあまりにもの辛そうな表情を見て、思わず謝った。

「片瀬さんは何も悪くないよ…」

「そんな程度の低い人と付き合ってた自分が情けなくなります」

「いいじゃん。向こうも俺を挑発したいくらい、片瀬さんのこと好きだったってことだろ?」

悲しそうな笑顔だった。本当は言いたいことがたくさんあるはずなのに、それを抑えて必死に耐えているように見えて、片瀬の心が少し痛んだ。


「本当に大丈夫ですか?」

竹中をアパートまで送ってきた片瀬が、心配そうに声を掛ける。

「何とかなるだろ」

「右手だし、食事とかお風呂とか、何かと都合悪いんじゃないんですか?ご実家の方も、飲食店経営してて、お昼も夜も来られないんですよね?」

「何かあったら安永に連絡して来てもらうよ」

竹中が言うと、片瀬がしばらく考え込むように黙る。

「あの…」

「ん…?」

「俺、しばらく来ます。やっぱり少しは責任あるし…」

「いいよ。無理しなくて」

「してません。俺が来ると迷惑ですか?」

「そんなこと…」あるわけがない。竹中が心の中で呟く。

「じゃあ、一回家に帰って、準備したらまた来ます」

それから片瀬は、仕事が終わってから毎日竹中のアパートに寄り、夕飯作りのついでに、翌日の朝食と昼食の準備をし、何とか片手で頭と体は洗えたものの、お風呂上がりにドライヤーを使えない竹中の髪を乾かしてくれたりもした。洗濯や掃除など、献身的に竹中の世話をしてくれたのだった。


ある日、早く研修が終わり、買い物をして竹中のアパートに着いた時のことだった。片瀬は、もらっていた合鍵で鍵を開け、玄関のドアを開くと、珍しく室内が暗く、そして奥の部屋から男女のクスクス笑う声が聞こえてきた。

「もう帰れよ」

「やだ。もう一回してから。久しぶりのH、気持ち良かったんだもん」

「ダメだって。もうすぐお客さん来るから。ほら、早く服着ろよ」

「意地悪。私とお客さん、どっちが大切なの?」

「仕方ないだろ。また今度誘うから…。この部屋、片付けなきゃだし。早く帰れって」

片瀬は耳を疑った。まさか、いくら付き合っていないとはいえ、自分を好きだと言ってくれた竹中が、女を連れ込んでいるとは思わなかったのだ。ましてや、自分が竹中の世話をしている最中に…。

「バカみたい…」

買ってきた夕飯の食材を下駄箱の棚の上に置いて、玄関を出ようとした片瀬の前に、

「渉流?どうした?今日は早いんだな。今、歩いてレンタル屋に行ってきたとこ」

竹中が嬉しそうに笑顔を見せる。

「竹中さん?」

片瀬が、しばらくジッと竹中を見る。

「ん?何…?」

竹中が、照れたように、少し目を背ける。

「中にいたのかと。声がしたから…」

「あ、弟が彼女を連れて遊びに来てて。帰れって言っといたんだけど、まだいた?」

片瀬は、部屋に入ろうとする竹中のダウンジャケットを引っ張った。

「どうした?」

竹中が振り返る。

「良かった…」

片瀬が小さな声で呟いた。

「何が?」

「いえ。何でもないです」

片瀬は、ダウンジャケットからすぐに手を離した。

「おい!お前らもう帰れよ!お客さんが来るって言ってあっただろうが!」

竹中が叫ぶと、

「ヤバっ!早く服着ろって!」

ドタバタと物音がして、慌てて男女二人が別部屋から出てきた。

「ごめん、兄貴。また!」

「お邪魔しましたー」

二人は、そそくさとアパートを出て行った。

「あいつら、また…。ごめん。びっくりしたよな。ここではそういうことするな、って言ってあるんだけど…その…」

「最初、竹中さんが女を連れ込んでるのかと思いました。声も似てたし…」

「え?マジで?うわー。信用ないんだな、俺…」

ブツブツ言いながら、借りてきたDVDを棚に置く。

片瀬がクスクスと笑う。

「明日の土曜、ギプスが取れたら、俺、もう来なくていいですよね」

「え?…ああ」

竹中が大きく息を吐く。課長代理との過去を知って、挑発されて、ケガまでして落ち込んでいたところに、渉流が仕事帰りに毎日寄ってくれることになって…。平日だけじゃなく、土日も一緒にいてくれて、下の名前で呼ぶこともできるようになって…。悪いことばかりじゃないと、本当に幸せな時間を過ごせていた竹中は、ショックのあまり、肩を落とした。

「月曜日から、仕事も復帰するんですよね?回復が予定より一週間以上も早くて良かったですね」

片瀬が夕飯の準備をしながら嬉しそうに話かける。

「これからも来てほしいって言ったらどうする?」

竹中が、低い声で呟いた。

「え?すみません。水の音で良く聞こえなくて…」

「ギプスが取れても、これからも来てほしいって言ったら、迷惑?」

片瀬が、キュッと水道の蛇口をひねり、水を止める。

「好きだから、これからもこうやって渉流と過ごしたいって思うのは、俺だけ…?」

竹中が、俯く。

「忘れてました」

「何が?」

顔を上げて、片瀬の整った顔を見る。

「竹中さんが、俺のことを好きだっていうことを…です。こういうことしちゃいけなかったんだ、って、今気付きました」

「俺が誤解するから、ってこと?せめて勘違いくらいさせてくれよ。渉流が来てくれてた一週間とちょっと、本当に幸せだったんだ」

「すみませんけど、もうここには来られません」

片瀬の口から、竹中を打ちのめすような残酷な言葉が出た。

「…分かった。ごめん。今の忘れてくれていいから。俺、あっちの部屋片付けてくるから、準備できたら呼んで」

胸が苦しくて、喉の奥が苦い。結局、渉流は、本当にただ責任を感じて俺の世話をしてくれていただけだったんだということが、身に沁みて分かったから…。


それから、片瀬から竹中に何の音沙汰もなく、年も越し、二ヶ月が過ぎた頃だった。会いたいと強く願うのに、ハッキリ振られてしまった以上、自分から連絡する気にもなれなかった。それでも竹中は、毎日毎日片瀬のことを考えていた。苦しくて切なくて胸が痛い。失恋て、こんなにも辛いものなんだと思い知らされる。

その日も、肩を落としながら歩いていると、アパートの玄関の前で待っている人影があった。

「あ…。良かった」

竹中に気付いて声を掛けてきたのは、片瀬だった。竹中はものすごく驚いて、急いで走り寄った。

「渉流?どうした?寒いだろ?中に入れよ」

「いえ。今からお客さんのところに行かなきゃいけなくて。本当は前もって連絡しようと思ってたんですけど、今日に限って、休憩も入れないくらい窓口が忙しくて」

「そっか…」

「今日、竹中さんが携帯を見てはため息を吐いてたって、夕方の集荷に来た時に安永さんが言ってました。誰かからの連絡を待ってたんですか?」

「…分かってて聞くなよ。もう振られてんのに、未練がましいとか思ってる?」

竹中の言葉に、片瀬がフワリと微笑む。

「これ」

片瀬が、小さな紙袋を差し出す。

「え?」

「今日、バレンタインデーなんで、チョコレートです。いろいろ迷惑かけたし…」

「あ、ありがとう。マジで嬉しい。迷惑かけてたの、俺の方なのに。ありがとな」

竹中は、その紙袋を両手で丁寧に受け取った。

「じゃあ…」

と、片瀬は踵を返す。そして竹中の方を振り返ると、

「それ、一応、本命チョコなんで」

と言って、足早にその場を去ったのだった。

竹中は、まるで夢の中にいるような気分になり、寒空の中、しばらくそこに呆然と立ち尽くしていたのだった。


そして、その日の週末の夜、片瀬が竹中のアパートにやって来た。

「こんばんは」

「ど、どうぞ」

どうしよう。マジで照れる。竹中は動揺が隠しきれなかった。

「あ…、えと…、何か、荷物多い?」

「お泊まりセットです」

「え?」

竹中は、カアッと自分の顔が赤くなるのが分かった。口に拳を当て、わざとらしく咳払いをする。

「冗談ですよ?」

片瀬にからかわれ、より顔が赤くなる。そんな顔を見られたくなくて、少し距離を置いた。

近くにいるとヤバい。欲望が抑えられなくなりそうで…。大事にしたいんだ。せっかく許された彼氏の座を壊したくない。ゆっくり愛を育てて行きたい…。

竹中は、心からそう思っていた。

「前に、もうここには来られない、って言ってたから…」

「あれは、付き合ってもないのに、アパートに出入りするのは良くないんじゃないかな、と思って。曖昧な関係になっていくのが怖くて。あの時はまだ、自分の気持ちにも整理が付いてなくて」

「課長代理のこと?」

「違います。あの人のことは、もう本当に何とも思ってなくて、竹中さんのことを好きになってる自分を認めたくなかったんです」

「…どうして?」

「竹中さんのこと、信じきれてなくて。手癖悪いって聞いてたし、かなり遊んでるって聞いてたので…。もう傷付く恋愛はしたくないって、ずっと思ってたし。でも、信じようって思ったんです。俺のことを好きだと言ってくれてから、五ヶ月くらい過ぎて、その間、竹中さんのこと見てて、信じよう…って」

「うん」

一瞬、見つめ合うが、竹中がすぐに瞳を逸らす。

「ごめん。あんまり見ないで。俺なりに一生懸命我慢してるから」

「我慢?」

「何か、付き合ってすぐとかって、がっついてるみたいじゃん?そういうのじゃなくて、渉流のこと大事にしたい気持ち、強いから…」

「分かりました。じゃあ、今日は帰ります」

片瀬が立ち上がり、掛けてあったコートを手に持つ。

「え?」

「せっかく付き合えることになったのに、何だか無意味ですね。近寄ると距離を置かれたり、見ないでって言われたり…。俺に告白してくれてから、俺が竹中さんを受け入れるまで、ずっと我慢してたんじゃないんですか?」

「ごめん。俺…」

「心配しなくても、俺は竹中さんのこと信じてますよ?竹中さんの方こそ、俺のこと信じてないんじゃないんですか?」

片瀬が玄関のドアノブに手をかける。竹中がその手を慌てて止めた。

「ごめん。無神経なこと言って悪かった。頼むから、帰るなんて言うなよ」

「大切に想ってくれるのは嬉しいけど、そんなこと言われると悲しいです」

「本当にごめん。俺、今まで真面目に付き合うとかなかったから、どうしていいか分かんなくて。ここに恋人呼ぶのも初めてで、緊張しちゃって…」

「俺は、もっと竹中さんと触れ合ったりしたいです」

「うん。俺も。渉流とめちゃくちゃイチャイチャしたい」

愛おしくて、背後から片瀬を思いっきり抱きしめる。

「本当にお泊まりセット持ってきたんです。いつもは家に帰ってたけど、恋人なら朝までゆっくりして行ってもいいのかな…と思って」

「うん。まさか、渉流から誘ってくれるなんて思ってなかった」

「ち、違います!誘ってるワケじゃありません」

「うん。誘ってないんだとしても、俺がもう限界だから…抱くよ?」

片瀬の頬に手をやり、自分の方へと向けると、竹中はその愛らしい唇に自分の唇をそっと重ねた。

ズクン、と全身が疼く。

「もう無理。渉流…」

勢い良く手を引き、寝室へと向かう。パチン、と部屋の電気を消すと、竹中は片瀬をベッドに押し倒して、自分の上着を全部脱いだ。ベッドの枕元のオレンジの柔らかい光の中、片瀬の上着を胸までたくし上げると、その白く綺麗な肌に、竹中は容赦なく吸い付いた。

「ん…」

渉流から洩れたその声を吸い込むように、竹中は強く唇を奪う。

「好きだ、渉流。どうしようもないくらいに」

キスの合間に零れる、竹中の想い。

「本気なんだ。ダメだって思うのに、こうしたくてたまらなかった」

もう一度唇が重なり、舌が絡み合う。そして、

「時間をかけてゆっくりしたいのに、俺が持ちそうにない…」

竹中が片瀬の耳元で囁くと、二人の影が激しく重なり合った。


「俺、すんげぇ幸せ。もうあんな色っぽい顔、誰にも見せるなよ」

腕枕をしながら、頭を撫でる。竹中を見つめる愛らしい瞳。渉流が自分のものになったことが、こんなにも嬉しくて、心から離したくないと思った。

普段は真面目な顔で仕事をして、無表情で澄ましているくせに、ベッドの中では、恥じらいながらも妖艶で、そこに色っぽさが増す。竹中は、そのギャップにも、もう確実に溺れてしまっていた。

まどろむベッドの中、竹中が不意に片瀬に聞いた。

「どうして課長代理は、俺に渉流のありもしない話を聞かせたんだろうな」

「たぶん、噂を流したかったんじゃないんですか?俺が遊び人だって悪い噂が流れれば、あまり人が近付かなくなって、自分の元に戻ってくると思ったのかもしれないですね」

「そっか…。課長代理の意に反して、俺は渉流を誘いに行ってしまったワケだ」

「とんだ誤算だったでしょうね」

片瀬が、クスクスと笑う。

「でも、そのおかげで、渉流とこうやって出会えたから、逆に感謝だな」

「俺も…です」

二人は笑い合って、そしてキスをし、お互いをギュッと力強く抱き締めた。


「竹中、ちょっと」

ある日の朝、竹中が梶尾に呼び出された。

「え?新人の研修ですか?」

「ああ。来週から新しい非常勤が入って来るんだ。お前が担当して仕事を教えてやって欲しい」

「何で俺が。同じ班長なら、別に安永でもいいでしょ」

「安永の班の奴が先週から一人入院してて、人手不足なんだ。だから、頼んだぞ」

竹中は、しぶしぶ、

「分かりました」

と返事をした。

その時、竹中は梶尾の策略と、新人を指導するということの重要さに、あまり気付いていなかったのだった。


「おはようございまーす。今日からお世話になります、友田結です。よろしくお願いしまーす」

高い、猫なで声が局内に響き渡る。

「ああ、君が今日から入社した子?」

「はい!よろしくお願いします」

小柄で華奢な、愛想の良いカワイイ女の子だった。

「いいね、竹中君。こんなカワイイ子と一緒に行動できて」

局長が、仕事を教えるために横に立っていた竹中に声を掛けた。

「いや、仕事なんで」

竹中が片瀬を気遣ってか、冷静に答えた。

「やだー。竹中さんステキだから、私の方が嬉しいんです。ね?」

友田の手が、さりげなく竹中の肩に触れる。

「じゃあ、ここにハンコお願いします」

友田が言うと、局長が嬉しそうにハンコを押す。

「局長の手、大きくて男らしいですね。私、こういう手、大好きなんです」

と、友田が言ってのける。

「ありがとう」

局長の鼻の下が伸びているのを片瀬はしらけた目で見ていた。

「じゃあ、行こうか」

竹中が促す。

「あ、はーい。やだ、待って下さいよー。竹中さん、足早すぎー」

キャッキャとした声が遠ざかる。

何だ、あれ。ここは飲み屋じゃないんだぞ。片瀬は少し不機嫌になった。

友田か竹中と一緒に集荷に来るようになってから、片瀬は意味もなく、いつもの冷静さを欠いていた。あの甲高い声に、仕事中とは思えない態度や言動。それがとても鼻について仕方なかった。


「ごめん。仕事が忙しくて、しばらく会えそうにない。落ち着いたら連絡する」

と、ある日、竹中からLINEが届いた。

片瀬は、

「分かりました。お仕事頑張って下さい」

とだけ返信した。

局で会えたとしても、局長と竹中、そして友田の三人で話して、本局へ帰って行く日がほとんどだった。そのうち、友田が一人で山庄郵便局に来るようになった。

「仕事、慣れた?」

局長がニコニコと話かける。

「はい!竹中さんがとても優しく教えてくれたおかげで、すごく助かりました。竹中さん、カッコいいし、仕事も出来るし、今でも分からないことがあったらすぐに電話しちゃいます」

「そっかぁ。竹中君も嬉しいだろうね」

「やだー。だといいんですけど。私、実は狙おうかな、って思ってて。でも、局長もステキです」

相変わらず友田はテンションも高く、キャッキャしていた。

「実は今度、竹中さんと飲みに行くんです。超楽しみなんです!じゃあ、失礼しまーす」

友田の言葉に、片瀬は一瞬、動けなくなった。

俺と会う時間はないのに、友田さんと飲みに行く時間はあるんだ…。そう思うと、心がやるせなくなった。


そして翌日、局長が席を外している時に、友田が山庄郵便局の荷物と書留を持って来た。片瀬が「お疲れ様です」と声を掛けて、受領印を押すと、突然「局長呼んで下さい!」と言われ、仕事でトラブルでもあったのかと思い、慌てて呼びに行くと「局長の顔が見たかったんです!」と言い放った。

友田が帰ったあと、片瀬の口から思わず、

「何なんですか、あの子!もう二度手間なので、これからは局長がずっとあの人の受領のハンコ押して下さいよ!」

と、めずらしく感情的な言葉が出た。

「あんなことぐらいで腹を立てて、片瀬君は心が狭いよ。仕事として割り切って、ちゃんと自分の立場をわきまえて下さい」

局長が片瀬に注意を促した。

さすがの片瀬も、その言葉に納得がいかず、

「立場をわきまえていないのは、友田さんの方じゃないんですか?何で注意しないんですか?」

と、言い返した。

「部署も違うし、僕たちに配達の方に口を出す権利はないから」

局長が言うと、片瀬は唇を噛み締めた。

「分かりました…。非常識な行動を取る友田さんに問題があるんじゃなくて、それに腹を立ててる心の狭い僕が悪いってことなんですね」

「あ、いや、そうじゃなくて…」

「もういいです。よく分かりました」

納得がいかなかった。自分が悪いとは思えない。なぜ、そこまで言われなくてはいけないのかと、本当に悔しい思いが心の底から溢れてくる。

それから片瀬は、仕事以外のことでは局長と口を聞くことをやめたのだった。


それから一週間が過ぎた。片瀬と局長との仲は険悪なままだった。誰かに相談したくても、出来ずにいた。一人、部屋で落ち込むところに、インターホンが鳴った。

「はい…」

玄関の扉を開けずに、返事だけをする

「あ、片瀬渉流さんにお届け物です」

「はい。今開けます…」

静かに扉を開けると、郵便配達の人が立っていた。

「竹中さん…」

「同じアパートの人に配達があって。仕事中なんだけど、渉流に会いたくて、つい寄ってしまった」

竹中が嬉しそうに笑うが、そこからすぐに笑顔が消えた。

「どうした…?おい、渉流」

片瀬は黙って首を横に振った。

「ごめん。大丈夫…。仕事に戻って」

「でも、お前、泣いて…」

「何でもない」

バッと玄関の扉が大きく開き、そして勢い良く閉じた。竹中が片瀬を強く抱き締める。

「何があった?」

「…俺が悪いんだ。友田さんの、目に余る行動に一人で腹を立てて。局長に、これから友田さんの時は局長がハンコを押して下さいって言ったら、心が狭いって言われて。仕事としての立場をわきまえるように、って注意されて。俺、納得いかなくて、非常識な友田さんより、心の狭い僕が悪いんですね、って言ってしまって…」

「…いいじゃん」

「え…?」

「自分の気持ち、言えたならいい」

「でも、局長と話せなくなって…」

「ちゃんと挨拶してる?」

「…うん」

「向こうもしてくれる?」

「うん」

「だったら、少しずつ話かけて…。様子見ながらさ。大丈夫。あの人、郵便課にいた頃から優しい人だから、ちゃんと分かってくれるよ。仕事が辛いとか、他のことで泣くならいいけど、友田さんのことなんかで悩むな」

「…うん」

「局内でも、みんな振り回されてて。でも、今は本当に人が足りなくて、ああいう人でも雇うしかないんだよ。女性だから、キツく言えないのもあるし」

「でも、ああいう人、配達の男の人たちはみんな喜ぶと思う。竹中さんも、友田さんの非常識な行動なんて分からないでしょ?」

「人によるだろうな。喜んでる人もいるけど、安永とか、かなり冷たくしてる。俺も、もう担当外れたし、基本、配達に出る時はみんな一人になるし、あんまり関わってない感じかな。また人が増えれば、状況も変わるだろうから、心配しなくていい」

「うん」

「泣くな。渉流は悪くないんだから」

「…ん…」

涙が溢れて、言葉にならなかった。

竹中に抱き締められるだけで、こんなにも気持ちが落ち着くだなんて、自分でも思ってなかったのだ。

「…友田さんと飲みに行くって、本当?」

そんなこと、本当は聞きたくなかった。それでも、自分の中に仕舞い込んでおく方が辛くて仕方なかった。

「え?」

「友田さんが、今度竹中さんと飲みに行くって言ってたから…」

「ああ。今度、定年退職する人の送別会があるんだ。たぶん、その事だろ?俺はその日夜勤だから行かないけど」

「そっか…」

「何?心配してたの?」

「うん。少しだけ。ごめん、仕事中なのに、長く話してしまって…」

「俺が渉流を裏切るワケないだろ?もっと信用しろよ」

片瀬の顎を持ち、顔を上げさせると、竹中は容赦なく唇をふさいだ。激しく口付けを交わすと、

「早くゆっくり会いたい。渉流といっぱい触れ合いたい」

竹中が、もう一度、片瀬を強く胸に抱く。

「うん。俺も」

「めっちゃ好き」

「うん」

そして、もう一度、唇が重なった。


竹中が配達に戻ったあと、自分の心がとても穏やかになったような気がして、翌日、片瀬は朝一番で局長に謝った。

「局長。先日はすみませんでした。局長と気まずいまま仕事をして行くのは嫌なので、僕はもう普通に話したいと思っています」と。

「いや、僕のほうこそ悪かったよ…。もっと違う言い方があったと思うし…。友田さんのことは、僕も非常識な子だと思ってるから、片瀬君の言うこともちゃんと理解してるよ。本当にごめん」

と、局長も謝ってくれたのだった。


「ごめん。急な仕事が入って、今日も会うの無理かもしれない」

竹中からのLINEを読んで、片瀬の胸がキュッと痛み、ものすごく寂しい気持ちになった。

一人で食事をする気にもなれず、とりあえず、今晩一緒に食べようと準備してあった食材を冷蔵庫に仕舞う。そしてシャワーを浴びると、片瀬はそのまま布団に潜り込んだ。しばらくして、知らずのうちに涙が零れた。

ヤバい、俺。いつの間に、こんなに竹中さんのこと…。会えないかも、って連絡をもらっただけで、何て返信していいのか分からなくなるくらいショックで…。「いつ会えるの?」と聞くことすら出来ないくせに、こんなにも会いたいって思う。ワガママを言いたくなくて我慢してきた日々を思って、より辛くなる。

そこに、コンコンと玄関の扉をノックする音が響き、鍵の開く音がしたかと思うと、扉が開いて、竹中が部屋へと上がり込んできた。

「ど、どうしたの?」

片瀬は布団から顔だけを出して、竹中を驚いた表情で見ていた。

「俺たちが二ヶ月以上会えてないって知った安永が、仕事変わってやるから、って。明日も休んでいいって…。渉流…」

布団ごと、ギュッと抱き締めてくれる。

「たけ…なか、さ…」

「なかなか会えなくてごめんな」

「う~っ…」

涙が布団へと染み込んで行く。

「泣くほど会いたかったなんて、知らなかったよ。そんなに俺のこと好きだったんだな。すげぇ嬉しい」

「ち、違うから…」

「違わないよ」

「何…その笑顔…」

「だって、今の渉流の泣き顔、めっちゃカワイイから」

「最悪…。俺がどんな思いで…」

言葉がキスでふさがれた。

「渉流、一緒にお風呂入ろう。職場からそのまま来たから、汗とかかいてるし」

「俺、もうシャワー浴びちゃったよ」

「分かった。じゃあ、俺もすぐにシャワー浴びて戻ってくる。服着ないまま来るから、渉流も脱いどけよ」

そう言って、竹中は浴室へと向かった。

脱いどけって、何だよ、それ。

「それしか、頭にないの…?」

渉流は何だかおかしくなって、ついクスクスと笑ってしまった。

「おまたせ!」

竹中が、本当に素っ裸で戻ってきた。

「ちょっ…、前ぐらい隠してよ」

「いいじゃん。どうせ見るんだから」

「べ、別に、好きで見るんじゃないよ」

「っていうか、何で脱いでないんだよ」

布団を一気にはぐる。

「やだっ!」

「やだじゃない。渉流、会いたかった」

熱く熱く唇が重なった。そのまま容赦なく服を脱がされた片瀬は、迷うことなく竹中に身を委ねたのだった。


「え?うそ。じゃあ、友田さん辞めたんだ」

まどろむベッドの中、腕枕をしてもらいながら、渉流は思わず声を上げた。

「ああ。まあ、仕事に対しても考えが浅はかすぎたっていうか。みんな最初は甘い顔してたけど、だいぶワガママも度を超してきて。しかも、お客さんにかなり迷惑かけて、謝罪しに行くように言ったら、逆ギレして、自分は悪くないの一点張りで。こんな会社、最低だから辞めます、って」

「そうなんだ。また人が減って、忙しくなるね」

そうは言ったものの、片瀬はひどく安堵していた。

これで、あの子の行動や言動に振り回されなくても済むんだ、と思ったら何だか本当に安心したのだ。

「忙しくはなるけど、まあ、ミスも多かったし、ハラハラしなくて良い分、気分的にはラクになったかな」

「うん…。でも本当は少し寂しかったりして。友田さん、結構可愛かったから…」

「またそういうこと言う。他の女見てるヒマがあったら、渉流に会いに来るに決まってるだろ。俺には渉流しか見えてないんだからな」

再び唇が重なった。長く熱いキスのあと、

「そうだ。梶尾課長代理に、渉流のこと、俺が思いっきり上書きしてますから、って言っといた」

竹中が偉そうに言い放った。

「そんなこと言ったの!?」

「当たり前だろ。誰の物なのか、分からせておかないと。また言い寄られたりしたら困るし」

「子供じゃないんだから…」

片瀬が呆れたように呟く。

「でも、そのせいで遅番の勤務も増えたし、急な仕事入れられたり、ほとんど土日祝の勤務になったけどな。課長代理が勤務表作ってるから、わざと渉流に会わせないようにしてるの、バレバレだっつーの。俺を友田さんの担当にしたのも、渉流に嫉妬させて、関係をこじらせて別れさせようとしてたんだろ、って安永に言われて」

言いながら、竹中が片瀬の頭を何度も何度も優しく撫でる。

「そうだったんだ。知らなくてごめん。俺のせいで竹中さんに迷惑かけてるんだね…」

「渉流のせいじゃない。課長代理の器が小さすぎるんだよ。人の恋愛の邪魔して何が楽しいんだか…。でも、障害がある方が余計に燃えるし、会えない時間があればあるほど、渉流に会えた時の嬉しさが半端ないから、耐えようって思うようにしてる。本当は毎日でも会いたいけど」

「うん。ありがとう。すごく嬉しい。俺、竹中さんのこと、本当に好き。大好き」

そう言いながら、竹中の首に両手を回し、抱き付く。

「初めて言ってくれたな。その言葉だけで、マジで頑張れるよ」

竹中が、片瀬の髪に鼻を埋める。

「久しぶりの渉流の匂い。このすげぇいい匂いに、いつもめっちゃ癒やされる」

竹中が、片瀬の小さな体を両手で包み込んだ。

「竹中さん、土日祝が仕事だと、平日が休みになるんだよね?」

「ああ。一応、週休二日制だからな」

「俺、年休を取るように職場からキツく言われてて。二週間に一日のペースで平日に有給取らないと、消化しきれないんだって。あと、夏期休暇と冬期休暇も一日ずつもらえるし。これから竹中さんの休みに合わせて、休み取ろうかな」

「マジで?いいの?」

「前もって竹中さんの休み教えてもらえたら、俺もその日に休みの申請さえすれば、非常勤さんに来てもらえるように局長からお願いしてもらえるから」

「じゃあ、勤務表が出たら、すぐに連絡する」

「うん。俺、実はデートとかほとんどしたことなくて。竹中さんと一緒に、いろんな所に出かけたい」

「そうだな。俺も、あんまりデートってしたことないかも。これから、いろんな場所に出かけたり旅行に行ったりして、渉流との思い出をたくさん作って行きたい」

「うん」

「もう、何もかも上書きして、俺でいっぱいにしてやるから、覚悟しとけよ」

「それは、俺のセリフだよ。遊びまくってた記憶、全部上書きするから、覚悟しといてよ」

片瀬が、微笑む。

「マジでかわいすぎるだろ。俺、渉流のこと好き過ぎて、ヤバい」

竹中が片瀬を強く強く抱き締める。そして片瀬もこれからの二人の思い出作りに思いをはせ、とても幸せな気持ちに包まれながら、久しぶりの竹中の胸の中で、ゆったりと眠りについたのだった。(完)

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