天下人の苦悩 天王寺の戦い 時空警察編
天正4年(1576年)1月、信長に誼を通じていた丹波国の波多野秀治が叛旗を翻した。さらに石山本願寺も再挙兵するなど、再び反信長の動きが強まり始める。
4月、信長は塙直政・荒木村重・明智光秀・細川藤孝を指揮官とする軍勢を大坂に派遣し、本願寺を攻撃させた。しかし、紀州雑賀衆が本願寺勢方に味方しており、5月3日に塙が本願寺勢の反撃に遭って、塙を含む多数の兵が戦死した。織田軍は窮して天王寺砦に立て籠もるが、勢いに乗る本願寺勢は織田軍を包囲した。
5月5日、救援要請を受けた信長は動員令を出し、若江城に入ったが、急な事であったため集まったのは3,000人ほどであった。
信長は軍勢の到着を待ったが、突然の出陣だったためあまり兵力が集まらなかった。天王寺砦からは「あと3、5日さえ持ちこたえるのは難しい」とたびたび知らせてきたため、信長はこのまま眼前で味方を攻め殺させて面目を失っては無念と考え、わずかな手勢で本願寺勢を強襲することを決定、翌日の7日、信長は3000ほどの兵で本願寺勢1万5千に突撃した。
なおこの時、信長は荒木村重に先陣を任せようとしたが、村重は木津方面の守備を引き受けるといって断った。後に荒木村重が裏切った時、信長は「荒木に先陣をさせなくてよかった」と回想したという。
『イクゾ皆の衆!これより修羅の道!ついてこれるものだけついてこい!ほうびはおもうがままよ!立身出世したい軍人のみついてこい!ゆくぞー!!』
信長がそういうと足軽をつれて本願寺のせいりょくにきりこんだ。
数は圧倒的に多かったが練兵を重ねた屈強な馬廻りたちはつよかった。
かずのさをもろともせずおしすすんでいく信長たち。
ウツロと深井も影法師からもらった装備で弾丸をうけながしながらあいての防壁を打ち破った。
砦を黒衣衆が解体して鉄砲兵をころしていく。
きれあじのすさまじいいっぷうかわった武器たちは戦場で活躍しかがやいていた。
『とのお!まえにですぎですぞ!』
『わしにつづけい!もののふどもよぉ!!』
そのときである、信長のあしに一玉の弾丸がながれてきたのだ。
『くっ!ひるむな!おせおせ!!』
『との!お下がりください傷をみねば!かっても感染症で死んではいみがありませぬ!』
『ええぃしかたあるまい。ウツロ!あとのしきはまかせたぞ!深井!わしの傷を手当てしろすぐに戦場に戻る!』
『はっ!御意!』
ポーションをきれいな布にたらすと熱湯で殺菌した細い鉄のさきで傷口をいじり弾丸を取り出す。
影法師につくらせたピンセットで糸をはりにくくりつけ傷口同士をぬっていく。
『さいわいけっかんをかすめておりますれば、すぐにうごけるかと!』
『作用か!そなたが軍医のけいけんをもっていてたすかった!値千金ぞ!』
あとは傷口にガーゼをはりポーションを染み込ませて包帯で巻いた。
合流されたとはいえ、本願寺勢は退却せず、陣形を立て直しつつあった。信長はそこへ再度攻撃をかける事を決める。家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与えた好機である)」と言い放ち、陣形を2段に立て直して突撃。本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、2700余りの敵を討ち取った。こうして織田軍の勝利で天王寺砦の戦いは終結した。




