長篠の戦いへの経路
天正3年5月21日(当時のユリウス暦で1575年6月29日。現在のグレゴリオ暦に換算すると1575年7月9日)、三河国長篠城(現・愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼の軍勢が戦った。
甲斐国・信濃国を領する武田氏は、永禄年間に駿河の今川氏の領国を併合し(駿河侵攻)、元亀年間には遠江国・三河国方面へ侵攻していた。その間、美濃国を掌握した尾張国の織田信長は足利義昭を擁して上洛しており、当初は武田氏との友好的関係を築いていた。しかし、将軍義昭との関係が険悪になると、元亀3年に反信長勢力を糾合した義昭が挙兵する。そこで義昭に応じた武田信玄が、信長の同盟国である徳川家康の領国三河へ侵攻したため、織田氏と武田氏は手切れとなった。
しかし、信玄の急死によって西上作戦は頓挫し、武田勢は本国へ撤兵を余儀なくされた。一方の信長は、朝倉氏・浅井氏ら反信長勢力を滅ぼして、将軍義昭を京都から追放。自身が「天下人」としての地位を引き継いで台頭した。
武田氏の撤兵に伴い三河の徳川家康は武田領国に対して反攻を開始し、三河・遠江の失地回復に努めた。天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆である奥平貞昌(後の奥平信昌)が、武田信玄の急死は秘匿されてはいたものの、その生存を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属すると、家康からは武田家より奪還したばかりの長篠城に配された(つまり対武田の前線に置かれた)




