信長の天下布武
印文「天下布武」の朱印を信長は使用しはじめている。この印判の「天下」の意味は、日本全国を指すものではなく、五畿内を意味すると考えられており、室町幕府再興の意志を込めたものであった。11月9日には、正親町天皇が信長を「古今無双の名将」と褒めつつ、御料所の回復・誠仁親王の元服費用の拠出を求めたが[注釈 42]、信長は丁重に「まずもって心得存じ候(考えておきます)」と返答している。
一方、すでに述べたとおり、三好氏による襲撃の危険が生じたことから、義昭は近江国を脱出して、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた。しかし、本願寺との敵対という状況下では義景は上洛できず、永禄11年(1568年)7月には信長は義昭を上洛させるために、和田惟政に村井貞勝や不破光治・島田秀満らを付けて越前国に派遣している。義昭は同月13日に一乗谷を出て美濃国に向かい、25日に岐阜城下の立政寺にて信長と会見した。
永禄11年(1568年)9月7日、信長は足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。すでに三好義継や松永久秀らは義昭の上洛に協力し、反義昭勢力の牽制に動いていた一方、義昭・信長に対して抵抗した南近江の六角義賢・義治父子は織田軍の攻撃を受け、12日に本拠地の観音寺城を放棄せざるを得なくなった(観音寺城の戦い)。六角父子は甲賀郡に後退、以降はゲリラ戦を展開した。
永禄11年10月18日、足利義昭は将軍に就任した。信長は、畿内の成敗を終えた後、同月26日、岐阜に戻った。義昭は信長に副将軍か管領を授けようとしたが、足利家の桐紋と斯波家並の礼遇だけを賜り、遠慮したとされる(ただし、朝廷や幕府は、文書や礼式上、信長を管領に準じて扱っていた。また、草津と大津、堺の土地を貰った。




