紙飛行機
ついていない日というのは、なぜこんなにとことんついていないのだろう。
いつもならしない二度寝で遅刻をして、あげくせっかく昨晩必死で仕上げた提出予定のレポートを忘れ、その結果先生に「たるんでるぞ」と絞られ、弁当を作る時間もなかったから、購買のパン争奪戦に参戦しあっけなく惨敗。今こうして売れ残ったパサパサのカボチャドーナツを食べている。
「真千、今日なんか疲れてない?」
「うん。疲れた。もんのすごっく疲れた。このドーナツに口の中の水分持ってかれて更に二割増し疲れた」
昼休み。教室の隅っこという定位置の席に向かい合って座りながら、私は夏菜子の言葉に正直な思いを吐露した。最低限の身だしなみは整えたと信じていたけど、夏菜子の「後ろ髪跳ねてるよ」の指摘にそれすら叶わなかったと今更ながら知る。
「もう帰りたい今すぐ帰りたい」
机に突っ伏しながら脳内ですぐに帰宅し始める私の頭を、夏菜子が優しい手つきで撫でる。さりげなく跳ねた寝癖を直そうとしてくれるところに、友人の愛を感じる。
「まぁまぁ。あとは五、六限の選択授業で終わりじゃん。真千の大好きな」
「ちょっと! 声がでかい!」
からかう夏菜子の口調に反応し、私は即座に起き上がった。夏菜子の声よりも大きく響いた自分の声に驚き、思わず手で口を覆う。
「誰もウチラの話なんて聞いてないって」
夏菜子が手を振りながらそう自嘲気味に笑う。夏菜子の言葉に落ち着きを取り戻し周囲を見渡すと、あちらこちらからドッと笑い声の上がる教室の中で、確かに私達はまるで背景のように静かだった。
「だね。でも……それとこれとは別。誰も聞いてなくても人目のあるところで話されたくないの」
「ごめん、次から気をつける」
私がフイと大袈裟に横に顔を振ると、夏菜子はすぐさま謝った。もちろん本気で怒ってる訳じゃない。夏菜子だってそれを十分わかっている。でもそこですぐ謝れる夏菜子を私は尊敬していた。
チラリと夏菜子を覗き見ると、そこには小柄で幼げな顔立ちの友人がすまなそうに眉を下げていた。童顔だろうと夏菜子の心は大人だ。私なんかよりずっと。家族と喧嘩をする度に、自分から謝れず気まずい空気を長引かせる身としては、本当に見習いたい。
私は目だけでぐるりと教室を眺める。
同じ学年、ただそれだけの括りの中にいて、同化しようとしながら、誰もちっとも一緒なんかじゃない。それってすごく不安だ。
一瞬、目の前にいる友人がなんだか見知らぬ人に見えて、私は小さな目を瞬いた。
「ねぇ、本当に大丈夫? 具合悪いなら保健室行く?」
視界に現れた夏菜子の心配そうな顔に、私は「大丈夫」と強がりに聞こえないよう祈りながら、笑って答えた。
朝から散々な目にあっても、どうにか持ちこたえたのは夏菜子の言うとおり午後の授業にあった。
選択授業の美術は、倍率が高い。絵を書くのが好きな人が多いというのもあるだろうけど、美術教師である山内先生の授業がかなりユルいと評判なのも高倍率の理由の一つだと私はみている。私の希望理由は前者だけれど、私の好きな人は後者だった。でも理由なんてどうでもいい。違うクラスの彼と同じ授業を運良くとれただけで幸せだから。もしかしたらこの時点で私は運を使い果たしていたのかもしれない。
加納幸紀君は騒がしい。彼とは一年の頃同じクラスだったけれど、クラスの中でも目立つタイプだった。帰宅部なのにいつも運動部とつるんでいて、地道に地味路線を歩む私とは住む世界が全然違う。
だから、一年の終わり頃隣の席になった時すらぼんやりと、卒業するまで喋ることもないんだろうな、なんて思っていた。彼が話しかけてくるまでは。
「相田ってさ、いつも姿勢いいよな」
茶化すでもなく、感心したように話しかけてきた加納君に、私はビクッと肩を震わせ「……名前知ってたんだ」と、すっかり動揺し失礼な返しをしてしまった。
「いや、さすがにクラスメイトの名前ぐらい覚えるっしょ。それともなに、相田は俺の名前知らない? 自己紹介からする?」
矢継ぎ早に繰り出される言葉に、私はぶんぶんと首を振る。
「ごめん、加納君とは、喋ったことなかったから」
「あーもービビらすなよなー! マジで俺の名前覚えられていないかと思って焦ったじゃん」
加納君はわざとらしく胸を押さえそう言いながら、私に人懐こい笑顔を向けた。
途切れ途切れな上、尻すぼみになる私の声とは対象的な加納君の明るい声が、自分に向けられていることがまるで夢のようで、その日私は一日中ほわほわとしていた。なぜか姿勢に対してだけは厳しく躾た母に、産まれて初めて感謝しながら。
それから私と加納君は隣の席にいる間、ちょくちょく話すようになった。日常会話を非日常的な彼と話す度に私の声が少し上擦る。私の姿勢がますます良くなったのは、間違いなく加納君のお陰だ。
よくよく加納君を観察すると、加納君と仲の良いメンバーは固定されていたけれど、それに縛られることなく誰にでも話しかけているようだった。誰とでも公平に接する、というよりはたぶん根っからのお喋り好きなだけな気がした。なにせ「俺、喋りすぎてウザイってよく言われるから、ウザかったらちゃんと言って」と自己申告してたぐらいだし。
でも、私は加納君とのお喋りが好きだった。大した会話のキャッチボールが出来なくても加納君はおおらかだったし、何より彼の声のトーンの明るさに惹き付けられた。
もし、彼のオーラに色があるのならきっとオレンジだろう。暖かみがあって、溌剌としたオレンジ色が彼にはよく似合う。
好きだな、と思った時にはもう遅かった。坂を転がり落ちるように私は恋におちた。いつから、なんてわからない。薄桃色の霧みたいな気持ちが鮮やかに色濃くなってはじめて、私はようやく自分の恋を自覚した。
加納君にはすでに彼女がいたから、何の可能性もなかったけれど、私は私の恋を失ったわけじゃないから、失恋だとも思わなかった。私と彼はこの先なんの進展もない。その事実に、私は安心してどっぷりとこの恋に浸ることが出来た。
夏菜子にありのままにそう話した時はドン引きされたけど、今となってはからかうことも出来るぐらいには、夏菜子は私の臆病さを知っている。
そして今日も今日とて、私はウキウキとした気持ちで美術室の中で幸せを噛み締めていた。視線は無意識に斜め右に座る加納君を追ってしまう。彼がいつも通り明るい声音で、友達と話す姿を見てほんわかと胸が暖かくなる。
チャイムが鳴り、少し遅れて段ボールを抱えた山内先生が、荷物持ちを手伝わせた生徒を引き連れて教室に入ってきた。どうやら使う材料の多い課題のようだ。
「今日は授業が終わるまでに、異なる素材を組み合わせた作品を二つ完成させるように。テーマは各々の好きなもので結構です。急な会議が入ったから僕は席を外すけど、教室の外に出たり騒いだりするなよ。授業が終わるまでには戻ります。では始めてください」
材料を教卓に広げ、ずり落ちた眼鏡を人差し指で持ち上げながら、山内先生は覇気のない声で言った。ワッと生徒の歓声が上がっても、諌めることなく先生は教室を出ていく。もちろん歓声を上げた生徒の中には加納君もいた。
教卓の前に、残された生徒達がぞろぞろと集まるのを、私は私と似たようなおとなしめな子達と一緒に座って見ていた。何となく最後、これが私達の暗黙の了解だ。
「カノー、そんなに折り紙取って何作るんだよ」
「んー。内緒?」
「なんで疑問系? しかも小首傾げてんじゃねーよ」
ぎゃははと大声で笑う、相も変わらず賑やかな加納君達が席に戻ってくるのを見届けてから、私も材料を取りに向かう。
余り物には福がある。余り物に親近感を覚える私としては妙に励まされる言葉だ。だいぶ減ってしまった材料を眺め、優柔不断を遺憾なく発揮しうんと悩んだ後、材料を抱え自分の席に戻る。席に戻る途中、意外にも真剣に課題に取り組む加納君を見て、うっかり口元が緩んでしまうのはもう仕方ないことなんだろう。
作業の遅い私は、席に着くなりひたすら作品を仕上げるのに集中した。元々好きで選択した授業だ。好きな人が一緒だったのは嬉しい偶然だったけれど、それはそれ、これはこれ。そう割りきれていると、過信していた。そんなの大人ぶったフリに過ぎなかったのに。
「マジ? カノーって今カノジョいないの?」
急に耳に飛び込んできた彼の友達の驚いたような声に、美術室の絵の具の匂いも、傷だらけの机も、ひそひそお喋り声も一瞬にして切り取られる。心臓が、ドクンと高く跳ね上がった。
(何それ、知らない!)
言葉にならない想いが一気に込み上げて、息がグッと詰まる。鼻の奥がツンと痛くなって、私は今にも泣き出しそうだった。
「いないけど……ってオマエ人の傷、抉るなよ!」
「あ、まだ引き摺ってるカンジ?」
「うるせーな! ほっとけ」
厚いガラスに仕切られたように、加納君達のやり取りが遠く感じた。
ああ、やっぱり今日はとことんついていない。もう私は安心して彼を好きでいられない。確信めいた予感に、がっくりと肩を落とす。
今までは『彼女がいるから』加納君は誰かを――私を――選ばない、だから選ばれないのは仕方ないことなんだ。そんな予防線を張っていたのに、たった今プツリとそれは切れてしまった。
そんなの、そんなのって怖い。ありえない期待なんて、したくない。
足元にこびりついた劣等感と、くさくさした自意識。加納君は私なんて好きにならない。わかってる、わかりたくない、わかってる。
茫然としていたら予定していた半分も課題をこなせないまま、いつの間にか授業が終わってしまった。宣言通りチャイムが鳴る前に戻ってきた山内先生は、私のちっとも進んでいない作品を見て、少し渋い表情を作ったあと「次の授業までに仕上げるように」とだけ言って、片付けを始めた。
どうやって教室に戻ったのかも、HRがいつ終わったかもわからないぐらい、私はすっかり放心していた。
夏菜子がしきりに呼び掛けていた気がするけれど、どんな返事をしたのかもあやふやだ。今ここにいないということは、夏菜子も諦めて部活に行ったんだろう。
吹奏楽部の金管楽器の音色が、遠くから聞こえてくる。がらんとした教室で、私は頬を机につけてだらしなく窓の外を見ていた。やわらかくて暖かなものだったはずの恋が、生々しい現実に姿を変える。それなのに簡単には降りられそうにもなくて、半ば私は途方に暮れていた。
加納君が好きだ。知らないことの方が多いのに、知ってるところは全部好き。たぶん、私の知らないところに加納君の恋や好きがあって、私がそれに触れることはないんだろうなと思うとぎゅっと胸が痛くなる。瞼の裏側だけが安全で、だから、私は何かに蓋をするように目を瞑る。そうして聞こえてくる薄い旋律に、じっと身を委ねた。
どれくらいそうしていたのだろう。すっかり陽が沈みかけているのに気付き、私はいよいよ重い腰を上げた。のろのろと戸締まりをして教室から廊下に出る。帰ろう、と階段に向かおうとした途端、踵に何かが触れた。
(紙飛行機?)
振り向いて足下を見下ろすと、散らばった色とりどりのそれは、確かに紙飛行機だった。
「お! 相田、いい所にいた!」
いつもなら舞い上がってしまう声にハッと顔を上げる。すると、案の定、加納君が教室を一つ挟んだ距離で友達と一緒に立っていた。
(やだ、見られたくない)
咄嗟に顔を隠すも、加納君は気にする様子もなく、更に声を張り上げる。
「相田ー、その紙飛行機、好きなやつ選んで開いてみ?」
私はその言葉に、まじまじと散らばった紙飛行機を眺める。
赤、青、黄色、黄緑にオレンジ。
好きな色、好きな人。私はまるで吸い込まれるようにオレンジ色の紙飛行機を手にしていた。
「ほら! 早く早く!」
子どものように急かす加納君の声を訝しみながら、先の尖った紙飛行機を恐る恐る開く。
「大……吉?」
折り目のついたそれには、見紛うことなくでかでかと『大吉』と書いてあった。
「相田、なんて書いてあった?」
「だ、大吉!」
離れた距離にいる加納君に届くよう、私は思いきって声を出した。緊張して上擦るのはいつものことなのに、今日はとても気恥ずかしい。
「やったじゃん! 相田これからめっちゃいいことあるよ! ついてるな」
加納君が親指を立てて、自信満々にニカッと笑う。「お前いつの間におみくじ仕様にしたんだよ」加納君の友達が、そう言って肘で加納君を小突くのを見ながら、私はやっぱり泣き出しそうになった。
今日は朝から全然ついてなくて。いいことなんて、一つもなくて。
紙いっぱいに書かれた『大吉』がみるみるうちに滲んでいく。
(私、ついてるのかぁ。これからめっちゃ、いいことあるのかぁ)
その響きが馬鹿馬鹿しくて、優しくて、ぶわりと湧き出した想いが、私の身体中を色付かせた。
加納君が、選ぶとか選ばないとか、そんなんじゃなくて。私が選ばれるとか、選ばれないとか、そんなものでもなくて――
もっと別の場所にある、大切な人への、大切な気持ち。私しか知らない、好きだという気持ち。
この人を好きだということが、今はただ、嬉しかった。
「私、ついてるかなぁ!」
鼻水を啜って、泣いているのがばれないように大声で聞くと
「オゥ! ついてるに決まってる。そのおみくじ当たるしな!」
加納君は夕陽を背に、本当にオレンジ色を纏いながら笑った。
それだけで、今までの悩みが一気に吹き飛ぶ。私って、なんて現金で、なんて単純なやつなんだろう。明日になれば、また同じようなことで身悶えするのが目に見えているのに。
でも、今は。今だけは。
緋色に染め上げられた廊下が、真っ直ぐに加納君へと続く。
私は、開いた紙を丁寧に折り目通りに折り、もとの姿に戻った紙飛行機を加納君めがけて飛ばした。
――届かなくてもいい。私がちゃんとそれを知っていればいい。あなたは、私の、好きな人――
紙飛行機はふわりと弧を描き、それでもゆっくりと、前へ突き進んだ。