中二的作品
動機から書きたい。それは、ネットで使われる中2病と言う言葉で迷惑してるからになる。これ元々揶揄から始まったので、悪口的な使い方が多い。それを自虐的に真似して分析的な言及に使うのはやめてくれ。その理由を書く。
中2病の私は居るが、中2病の作品は無い。結論から言ってしまえばこれが理由になる。すぐには意味が分からないと思う。何故なら、だから平気であほな言葉を使えるんだから。私もズット何かがおかしいと思っていた。もちろん私はおかしいのを知ってるので問題が無い。だが問題はおかしいのを知らない人の心中が分からなかったが大きい。
だが段々分かってきた。正確に使う人と、適当に使う人に分かれる。正確に使う人の特徴を抽出すると、ファンタジックで非現実的な妄想をする若い頃の自分に使ってるケースが多い。それに対して、適当に使う人は、自虐、侮蔑どっちも作品にこれは中2的として見下す傾向がある。自虐はなろうの中で自分の作品についてが多い。
だがこれ後者は成り立たないから。この元になった邪気眼を知ってる人は居るだろうか?あれは、中学生が己に宿る闇の力を持つ眼について妄想する話と分かるようになっている。これが発端になって、それまで背伸びっぽい中学生の態度に過ぎなかった中2病が広がった原因の話となる。
中2病でも恋したいと言うアニメがあるが、あれは正しい使い方になる。あれは作品に使われたのではない。そう妄想する主人公とヒロインに使われている。そこから分かるのは、妄想を妄想と理解した上で書くファンタジックな私は中2病じゃない。何が問題か?と言うと、ただのファンタジックな物語を中2病として拡大解釈する恐れがある。
これは無意味にファンタジックな物語を楽しむものは侮蔑的に扱われるとなる。それ自体は問題じゃない。もっと問題はじゃお前はファンタジックな物語=ファンタジーが嫌いなのか?なら全くそうじゃない人ばかりになる。当たり前だそんな人アニメ漫画の流れの中で中2病なんて使わないから。
何が原因でこうなってしまったのか?なら正しい使い方してる人も居るので、私から作品にまで安直に広げた誤用が問題だと思われる。明らかな矛盾を何故放置するのか?私はネットでの批判に無批判な態度は駄目だとずっと書いてるのは、まあ批判の批判ではなく、批判評価の批判になる。
ネットの多くの批判は無意味な感情論だからになる。どういう心理?一部の自分がつまらないと思うファンタジックな作品を中2病だからつまらないのだとしたいのだ。そしてその根底はこんなの中学生の妄想レベルだとしたいんだ。
じゃ中学生の妄想と明確に区分できる良いファンタジーとはなんですか?多分その答えをその人は自分の個人的好みにしか持ってない。それを感情論と言って何がおかしい?となる。しかも無自覚であるのが何の役にも立たない言及って点。私が中2病の誤用を強く嫌うのはこれがある。私は何故か?理由も分からずに馬鹿にされるんだ。意味が分からない。
もう1つある。中2病の私=作家が描く作品は中2病的か?これも作者の申告無しには全く分からない。作中でテーマとして中2な私を扱わない限り、中2的作品など存在し無い。あるのはファンタジー的と言うジャンルの問題だけだ。
中2病にやたらと拘る私の根底が見えてきたのだが、これは実はとても大きな問題で、それを安直に扱ってるからいらだつ。これらの事をまとめると、どうやら中2的作品と言う言葉を使う人は、ファンタジーの良さに明確な理由を自分の中に持っているからと分かる。それは自論でも構わないが。
問題は、多分それ個人的なものでとてもまともに共有できるものじゃない。ファンタジーを楽しんでる自分自身が腹が立つというより、間違った事で侮蔑される、この間違い自体が許せないのが大きい。この人はファンタジーの出来と言うかなり難解な問題を中2的作品という安直な言葉で軽く扱ってしまってるんだ。
これだけでもう私はこの人は思慮が足りなくて、自論もおそらくゴミだと推測できてしまう。ファンタジーの出来と言うかなり難解な問題を私ならやらないからだ。
ファンタジーの出来で一番扱いにくくて、一番簡単なものは、リアリズムになる。ファンタジー要素以外のリアリズムをどう整合性を取るか?でデスノートやコードギアスは上手く使ってある。私はコードギアス2期が好きじゃない。1期のそのバランスの良さを2期ファンタジーの部分を突っ込む事で壊してしまったからだ。
デスノートは見事に死神の世界に突っ込まずに人間の世界でさっさと閉じてしまった。ただこのあたりは好みがあると思う。2期も明らかな劣化だと客観的には全く言えない。視聴率が悪いが、深夜アニメ発ならあんなものだろう。ただ1部の2期嫌いな人にとって、2期は違いは明らかにある。問題はその違いが好きか?嫌いか?で分かれるのを当時は知らなかった。
そのため一部の2期嫌いな人に安易に同調してしまった部分があるが、今となっては、それで良かったのかもしれない。あくまで個人的な好みと、違いはあるってだけの話しになる。ほかにも多々の要素がある。衝撃展開でやっていく作品はどうしても期待値が大きすぎて飽きる。次、評価にとって最大の敵は期待だと書いた。1期と2期の空いた時間で期待値を爆発的にあげてしまった。冷静になった今だとあれだけ楽しんでみた2期はそうそうないと気がつく。
ただ私はアンチが多いラストは逆に好きだ。展開で見せる作品はラストが悪い。まどマギとコードギアスはそこが傑作だと思う。ピカレスクロマンとして典型的なラストを辿ったデスノートとコードギアスだが、ただのピカレスクロマンの典型ラストじゃなかった価値がある。それを美化だと批判する人がアンチに多いが、私は全く逆。デスノートの評価は下げないが、それでも典型的なラストは創る苦労がやはり足りないと思う。そこはギアススタッフに創る力を感じさせる。
これは一番簡単な例だ、そしてしかもこれは問題もふくんでるんだ。一部の人達以外は、コードギアスの違いはむしろ好感されている。ファンタジーにとってリアリズムは滅茶苦茶扱いづらい要素になる。
じゃありきたりな発想が駄目なのか?なら中学生の妄想はパクリやコピーが多いが、時に独創的なオリジナルを生む。当たり前だ。好き勝手な子供の妄想は常識に囚われない分それなりに独創性がある。パクリやコピーが多い事への言及か?
多分違う。結局総合的に見るとそれは中2病的作品と揶揄した言及者自身の個人的な偏った無意味なこだわりに過ぎないと分かる。そもそもまともに言語を使おうと思うものなら、こんな言葉はまず選択し無い。それはネットスラングが問題なんじゃない。これはもともとのネットスラングの拡大解釈誤用だからだ。