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厠の華子さん―ネオ江戸魔導学園怪異録―  作者: 秋月キアラ
第1話 ― 三番目の個室に華は咲く
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序章 ― 日本は、あの世に対して鎖国した

 二〇XX年、日本は二度目の鎖国をした。


 閉ざしたのは、海ではない。


 港には今も外国船が着き、空港からは旅客機が飛び立つ。異国の言葉も、音楽も、商品も、通信網を通じて国境を越えている。


 日本が門を閉ざした相手は、人間の国ではなかった。


 死者。

 六道魔導学園の召喚実習室は、教室というより、小さな神社と研究室を無理やり一つに押し込めたような場所だった。


 床は黒く磨かれた板張りで、中央には白い円環が刻まれている。円環の外周には、東洋の梵字、西洋の魔術記号、古い祝詞の断片、霊籍番号を読み取るための細い金属線が複雑に組み込まれていた。


 壁際には護符を納めた棚。


 天井には、暴走した召喚体を一時的に封じるための逆さ鈴。


 四隅には結界柱。


 窓には外の景色が映っているはずなのに、硝子の向こうに見える空はどこか薄く、現実から一枚隔てられているようだった。


 高等部一年、召喚術・契約術基礎実習。


 入学して間もない生徒たちにとって、最初に実感する「魔導学園らしい授業」である。


 生徒たちは円環の外側に半円を描くように並び、順番に小型の守護式神を召喚していた。


 式神といっても、実戦用ではない。


 紙片や木札、霊糸、魔導インクで作られた、ごく初歩的な補助存在だ。


 成功すれば、兎ほどの大きさの狐や鼠、雀、あるいは小さな灯火のような形を取る。術者の周囲を数分ほど巡回し、異常な霊気へ反応する。


 失敗しても、せいぜい紙が燃えるか、煙が出るか、術者の髪が少し逆立つ程度。


 そう説明されていたから、生徒たちの空気は緊張半分、興味半分だった。


「では次。稲葉」


 担当教師の声が響いた。


 その瞬間、実習室の空気が少しだけ変わった。


 ざわめきではない。


 期待とも違う。


 それは、誰かが失敗するところを見たいときの、湿った沈黙だった。


 稲葉茜は、その空気に気づかないふりをして一歩前へ出た。


 白い千早風の上衣に、暗い紅の切袴。


 肩口まで揺れる赤みがかった髪は、きちんと結い上げられているようで、よく見ると少しだけ崩れている。規則違反ではない。ただ、規則どおりに見せながら、きっちり枠の中へ収まることを嫌っているような着こなしだった。


 腰には、短い錫杖を兼ねた召喚杖が差してある。


 先端には、三束の稲穂を赤い縄で結んだ家紋。


 稲葉藩主家の紋である。


 茜が円環の中央へ立つと、周囲の生徒たちの視線が一斉にそこへ集まった。


「稲葉さんなら、一発だろ」


「藩主家だもんね」


「契約術の名家でしょ?」


 小さな声。


 聞こえないふりをするには、少しだけ大きい声。


 茜は唇の端を上げた。


「見物料、取ればよかったわね」


 近くにいた女子生徒が、慌てて口を閉じる。


 茜は振り返らない。


 怖がっていると思われるのが嫌だった。


 実際、怖いわけではない。


 そう自分に言い聞かせた。


 たかが基礎実習だ。小型の守護式神を一体呼ぶだけ。家で何度も手順は習っている。母の志乃からも、家庭教師からも、耳にタコができるほど叩き込まれている。


 召喚とは、名を呼び、座を示し、条件を告げ、従わせること。


 呼ぶだけでは不十分。


 契約術者は、最後に必ず命じなければならない。


 おまえは、わたしに従え、と。


 茜は召喚杖を抜いた。


 小さな錫の音が鳴る。


 教師が手元の記録板へ目を落とした。


「召喚対象は、初級守護式神。媒体は指定の白紙札。補助呪具の使用は不可。制限時間は三分」


「分かってます」


「稲葉」


 教師が、わずかに眉を上げる。


「分かっています、先生」


 言い直すと、背後で数人が笑いを噛み殺した。


 茜は笑顔のまま、召喚杖の先で床の円環を軽く叩いた。


 こんなことで腹を立てるな。


 怒ったら負けだ。


 怖がったらもっと負けだ。


 稲葉家の娘が、基礎実習ごときで失敗するはずがない。


 稲葉藩は古くから土地を守ってきた家だ。霊水路を管理し、豊穣を守り、災厄を退けてきた。その一人娘である自分が、こんな初歩でつまずくわけにはいかない。


 茜は息を吸った。


 円環の中央に置かれた白紙札へ、自分の霊力を流し込む。


 札の四隅が浮き上がった。


 細い赤い光が、紙の縁を走る。


 周囲の生徒たちが、わずかに身を乗り出す。


 出力は十分。


 むしろ強すぎるくらいだった。


 教師もそのことに気づいたらしく、記録板へ視線を走らせる。


「出力過多。落ち着け」


「落ち着いてます」


 茜は即答した。


 実際には、手のひらに汗が滲んでいる。


 召喚杖の柄が滑りそうだった。


 札の中央に、淡い輪郭が現れる。


 細い耳。


 丸い背。


 小さな狐のような影。


 できる。


 茜は胸の奥で呟いた。


 ほら、できる。


 誰にも笑わせない。


 父上にも、ちゃんと報告できる。


 今日の実習、成功したよって。


 体調が少しでもよくなったら、また庭で見てねって。


 その瞬間、札の上に現れかけていた狐の影が、茜を見上げた。


 目が合った。


 影にすぎないはずなのに、茜にはそれが生きているもののように見えた。


 まだ名前もない、小さなもの。


 呼ばれたから来ただけのもの。


 自分の意思でここへ来たわけではないもの。


 茜の喉が詰まった。


 手順では、ここで命じなければならない。


 稲葉家の召喚術において、最後の命令は術式の錠である。


 呼び出したものが術者へ逆らわないようにする。


 現世へ固定する。


 暴走を防ぐ。


 すべて分かっている。


 合理的な手順だ。


 必要な安全措置だ。


 教師も、母も、家庭教師も、そう言った。


 茜自身も、そう思おうとしてきた。


 けれど。


 喉の奥から、言葉が出てこない。


 召喚杖の先が、わずかに震える。


「稲葉。最後まで唱えろ」


 教師の声が硬くなる。


 茜は唇を開いた。


「我が名は、稲葉茜。稲葉の血と名において、汝へ命ずる」


 そこまでは言えた。


 何度も練習した言葉だった。


 しかし、その先が出ない。


 従え。


 命に服せ。


 逆らうな。


 ただ、それだけの言葉。


 小さな狐の影は、札の上で茜を見ている。


 茜には、その影が怯えているように見えた。


「……あたしの」


 声が掠れた。


「そばに、いて」


 命令ではなく、お願いになった。


 術式が揺らいだ。


 赤い光が一瞬だけ強まり、次の瞬間、狐の影は薄い煙になって崩れた。


 白紙札が、ぱさりと床へ落ちる。


 実習室に沈黙が広がった。


 茜は召喚杖を握ったまま、動けなかった。


「失敗」


 教師が記録板へ淡々と入力する。


 かちり、と硬い音がした。


「出力は高い。座標指定も悪くない。だが、契約文の最後が成立していない。召喚対象への拘束意思が弱すぎる」


「……はい」


「稲葉家の術式は、契約の強度を要とする。そこが崩れれば、どれほど魔力があっても使いものにならない」


 言葉に悪意はない。


 だからこそ余計に刺さった。


 使いものにならない。


 茜は笑おうとした。


 笑えばいい。


 いつものように、肩をすくめて、軽口を叩けばいい。


 自分が傷ついたことを、誰にも悟らせなければいい。


「いやー、ちょっと優しすぎたかも。あたし、未来の名君だから」


 そう言うと、数人が小さく笑った。


 笑わせたのか、笑われたのか。


 茜には分からなかった。


「名君はまず、基礎式神くらい呼べるようになってから名乗れ」


 教師はそう言って、次の生徒の名を呼んだ。


 茜は円環から出た。


 足元が少しだけ浮いているような感覚がした。


 自分の席へ戻る途中、囁き声が聞こえた。


「藩主家なのに?」


「稲葉家って契約術の名門じゃないの?」


「魔力だけ強くてもね」


「跡取り、大丈夫なのかな」


 聞こえていない。


 聞こえていないことにする。


 茜は笑顔を崩さなかった。


 ただ、召喚杖を腰へ戻す手が、少しだけ乱暴になった。


 席に戻ると、隣でアサミがこちらを見ていた。


「なに」


「失敗の原因」


「今それ言う?」


「言わないほうがいい?」


 アサミは本気で尋ねている。


 悪気はない。


 茜は深く息を吐き、前を向いた。


「言わないほうがいい」


「そう」


 アサミは短く答え、手元のノートへ何かを書き込んだ。


 茜は横目でそれを見る。


「ちょっと。今、何書いたの」


「言わないほうがいい内容」


「それはそれで気になるじゃない」


「なら言う。稲葉家式の命令構文と、茜の発話意志が一致していない」


「……日本語で言って」


「茜は、従わせるのが嫌なんだと思う」


 茜は言い返そうとして、言葉を失った。


 違う。


 嫌なわけではない。


 必要なことだ。


 契約術には命令が必要で、召喚には拘束が必要で、そうしなければ危険で――。


 頭の中では、いくらでも反論が浮かぶ。


 けれど、さっき自分は言えなかった。


 従え、と。


 たった三文字が。


「……うるさい」


 茜は小さく呟いた。


 アサミは責められたとは受け取らなかったらしく、平然と頷く。


「分かった。今は黙る」


「今だけじゃなくて、しばらく黙って」


「それは難しい。次の失敗例も見たい」


「あんた、ほんと友達なくすわよ」


「茜がいる」


「そういう真顔で言うのやめて。怒りにくいから」


 アサミは、わずかに首を傾げた。


「怒っていたの?」


「怒ってたわよ」


「そう。なら、記録しておく」


「するな」


 茜は思わず吹き出しそうになり、慌てて唇を噛んだ。


 周囲の陰口はまだ聞こえる。


 教師の指導も、他の生徒の成功も、胸の奥に小さな棘のように残っている。


 それでも、アサミの淡々とした横顔を見ると、少しだけ息がしやすくなった。


 この子はたぶん、慰めているつもりなどない。


 ただ見たものを言っている。


 だから腹が立つ。


 けれど、だからこそ、同情されるよりはずっとましだった。


     ◇


 実習が終わる頃には、茜の笑顔はほとんどいつもの形へ戻っていた。


 式神を呼べなかったことなど、たいした問題ではない。


 そう見えるように、教室を出る前に髪を整え、口元へ余裕のある笑みを乗せた。


「基礎実習って退屈ね」


 廊下へ出るなり、茜はわざと大きめの声で言った。


「失敗した人が言うと、負け惜しみに聞こえる」


「アサミ」


「なに」


「そういうの、思っても言わないのが友情」


「友情は事実の訂正を禁止する概念ではない」


「屁理屈!」


 茜はアサミの肩を軽く小突いた。


 アサミは小柄な身体を少し揺らし、手にしていた本を胸へ抱き直す。


 廊下の窓から、春の光が差し込んでいた。


 六道魔導学園の本校舎は、木造風の外観に反して内部には現代的な設備が整っている。壁には授業連絡を表示する魔導掲示板が埋め込まれ、天井の隅では紙の式神と小型監視機が並んで巡回していた。


 だが、廊下の奥へ目を向けると、渡り廊下の先に古い北校舎が見える。


 黒ずんだ木の壁。


 ゆがんだ硝子窓。


 そこだけ時間が止まっているような建物。


 茜は、なんとなく目を逸らした。


 あの校舎は苦手だ。


 特に三階の女子厠。


 きちんと掃除されているはずなのに、いつもどこか花のような、お香のような匂いがする。


 誰もいないはずなのに、人の気配がする。


 もっとも、この学園でそんなことを言い出したらきりがない。


 魔導学園とは、そもそもそういう場所なのだから。


「茜」


 アサミの声で我に返る。


「なに?」


「端末」


「え?」


 腰に提げた魔導端末が震えていた。


 家からの通知だ。


 稲葉家の家紋が、小さな画面の隅に表示されている。


 茜は一瞬だけ表情を消した。


 すぐに笑顔を戻す。


「母上かな。また家庭教師の時間変更とかでしょ」


 何でもないように言いながら、端末を開く。


 表示された文面を見た瞬間、指先が冷えた。


 ――父上、本日午後より発熱。右手の感覚低下あり。夕刻、主治医再診予定。御息女には授業終了後、直帰されたし。


 文章は丁寧だった。


 事務的で、無駄がない。


 だからこそ、悪い知らせだとすぐに分かった。


 父の病状について、家の者は茜へ必要以上に詳しく伝えない。


 軽い不調なら、そもそも連絡など来ない。


 右手の感覚低下。


 茜は、その文字を何度も読み返した。


 父は、右利きだった。


 書状を書くのも、稲葉家の契約印を押すのも、いつも右手だった。


 幼い頃、茜の手を引いて庭を歩いたのも。


 召喚杖の握り方を、最初に教えてくれたのも。


 右手だった。


「茜」


 アサミの声が、少しだけ近くなる。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 反射的に答えた。


 大丈夫ではないときほど、この言葉は早く出る。


 茜は端末を閉じた。


「ちょっと厠」


「ついていく?」


「来なくていい」


「顔色が悪い」


「実習で失敗したから、ふてくされてるだけ」


「それは事実。でも、今の顔色の原因とは別」


「アサミ」


 茜は笑った。


 笑ったつもりだった。


「来ないで」


 その声が思ったより硬くなった。


 アサミは足を止める。


 茜はそれ以上何も言わず、廊下を早足で歩き出した。


     ◇


 北校舎三階の女子厠は、昼間でも少し薄暗い。


 廊下側の小窓から入る光は、古い硝子を通るせいか、どこか青みを帯びていた。


 入口の木札には、筆文字で「女子厠」と書かれている。


 現代の校舎なら「トイレ」と表示するところだが、北校舎だけは昔からこの表記のまま変わらない。


 中へ入ると、石鹸の匂いと、消毒液と、かすかな花の香りがした。


 椿だろうか。


 いや、桜にも似ている。


 茜は洗面台の前で足を止めた。


 鏡の中の自分は、いつもどおりに見えた。


 少し気の強そうな目。


 崩れかけた髪。


 唇に残った、作り損ねた笑み。


 藩主家の娘。


 稲葉の姫様。


 次期当主候補。


 召喚実習で失敗したくせに、平気な顔をしている女。


 茜は蛇口をひねり、水を出した。


 冷たい水を手に受け、顔へ押し当てる。


 春の水は、思ったより冷たかった。


 頬が痛い。


 目の奥が熱い。


 泣くな。


 ここで泣いたら駄目だ。


 そう思うほど、喉の奥が詰まった。


 誰もいない。


 それを確かめるように、茜は個室を一つずつ見た。


 一番目。


 空。


 二番目。


 空。


 三番目。


 扉は閉まっていた。


 使用中の札は出ていない。


 なぜか、そこだけ見てはいけない気がした。


 茜は三番目を避け、二番目の個室へ入った。


 鍵をかける。


 狭い空間へ一人になると、急に膝の力が抜けた。


 便座の蓋を閉じ、その上へ腰を下ろす。


 背中を壁へ預ける。


 古い木の匂いがした。


 外では、どこか遠くで生徒たちの声が聞こえる。


 ここだけが、別の場所みたいだった。


 茜は端末をもう一度開いた。


 同じ文面が表示される。


 右手の感覚低下。


 発熱。


 主治医再診。


 直帰。


「……なんで」


 声が漏れた。


 言った瞬間、もう止められなかった。


「なんで、また悪くなるのよ」


 父は、少し前まで普通に歩いていた。


 完治はしなくても、悪化は止まっていると聞かされていた。


 最近は調子がいいから、次の休みには庭へ出ようと言っていた。


 茜の実習の話を聞きたいと笑っていた。


 なのに。


 今日、失敗した。


 何もできなかった。


 小さな式神一体、呼べなかった。


 父に話せることが何もない。


 稲葉家の娘なのに。


 次の当主になるかもしれないのに。


 父の代わりに家を支えなければならないのに。


 自分は、最後の一言さえ言えなかった。


「あたしがちゃんとできれば、父上だって……」


 声が震えた。


 そこで初めて、涙がこぼれた。


 茜は慌てて袖で拭う。


 だが一度落ちた涙は、次々と頬を伝った。


「なんでよ。なんで、あたしなのよ」


 誰にも言えなかった言葉だった。


 母には言えない。


 父にはもっと言えない。


 家臣たちにも、教師にも、友人たちにも。


 藩主家の娘が、そんなことを言ってはいけない。


 家は領民のためにあり、当主は家のためにある。


 幼い頃から何度も聞かされてきた家訓。


 立派な言葉だ。


 茜もそう思ってきた。


 けれど、その言葉の中に、自分自身がどこにいるのか分からなかった。


「父上を助けたいのに」


 茜は両手で顔を覆った。


「何をしたらいいのか、分かんない……」


 その声は、狭い個室の中で消えた。


 いいや。


 消えたように見えただけだった。


 壁の向こう。


 三番目の個室の内側で、黒い着物の裾がわずかに揺れた。


 誰もいないはずの空間に、女が座っている。


 濡羽色の長い髪。


 眉の上で真っ直ぐに切り揃えられた前髪。


 磁器のように白い肌。


 濃い朱の唇には、人をからかうような笑みが浮かんでいる。


 だがその瞳だけは、笑っていなかった。


 女は、古い友人の愚痴でも聞くように、静かに耳を傾けていた。


「あら」


 誰にも聞こえないほど小さく、女は呟いた。


「稲葉の娘が、そんなところで泣くのね」


 水滴が落ちる。


 ぴちょん。


 茜は顔を上げた。


 今、誰かの声がした気がした。


「……誰?」


 返事はない。


 ただ、花の香りが少し濃くなった。


 茜はしばらく息を潜めていたが、やがて自分の勘違いだと思うことにした。


 涙を拭き、立ち上がる。


 顔を洗わなければ。


 アサミのところへ戻る前に、いつもの顔へ戻さなければ。


 茜が個室を出たあと、三番目の個室の内側で、女は退屈そうに頬杖をついた。


「家を背負った子は、どうして皆、厠で泣くのかしらね」


 誰にともなく言う。


 返事はない。


 女は微笑む。


「嫌になるわ。聞いてしまったら、気になるじゃない」


     ◇


 放課後の図書塔は、昼間の教室とはまるで違う空気を持っている。


 六道魔導学園の図書塔は、本校舎の東側に建てられた七階建ての塔だ。


 一階から三階までは一般書架。


 四階以上は許可制の専門書架。


 さらに地下には、教師と特別許可を得た研究生だけが入れる封印資料庫がある。


 もちろん、高等部一年の生徒が入れる場所ではない。


 少なくとも、正式には。


 茜が図書塔の閲覧席へ向かうと、アサミはすでにそこにいた。


 窓際の席。


 机の上には、数冊の医学書と、古い藩政記録の写しと、異文化召喚術式の比較表が並んでいる。


 その中央に、布で包まれた一冊の古い写本が置かれていた。


「遅かった」


 アサミは顔を上げずに言った。


「女子にはいろいろあるの」


「泣いていた?」


「泣いてない」


「目が赤い」


「水で顔洗ったから」


「泣いたあとに水で顔を洗うと、そういう赤さになる」


「経験者みたいに言わないで」


「観察結果」


 茜は椅子へ乱暴に腰を下ろした。


「で、何。急に図書塔に呼び出して。慰め会なら、甘いものが足りないわよ」


「慰めではない」


「知ってた。アサミが慰めとかできたら、逆に怖いし」


「できる」


「じゃあやってみて」


 アサミは少し考えた。


「召喚実習の失敗は、茜の才能不足ではない。術式思想との不一致が原因と考えられる。したがって、過度に落ち込む必要はない」


「うん。想像以上に慰めが下手」


「改善する」


「その前に、用件」


 茜は机の上の布包みへ目を向けた。


「それ、何?」


 アサミは周囲を確認した。


 閲覧席には他にも数人の生徒がいるが、距離はある。


 図書塔では大声を出す者はいない。


 魔導書架の近くで不用意な言葉を発すると、本が返事をすることがあるからだ。


 アサミは布包みをそっと開いた。


 中から現れたのは、古い和綴じの写本だった。


 表紙は黒ずみ、角はすり減っている。


 題字はかすれていて読みにくい。


 ただ、中央に描かれた赤い縄の紋だけは、はっきりと残っていた。


 茜は息を止めた。


 稲葉家の紋。


 三束の稲穂を、赤い縄で結んだ紋。


「……これ、どこで」


「学園の資料庫」


「普通に借りられる本じゃないでしょ」


「普通には借りていない」


「それを世間では無断持ち出しって言うのよ」


「正確には、閲覧許可の範囲外資料を、一時的に研究目的で移動させた」


「世間では無断持ち出しって言うのよ」


 茜は声を潜めながら、机の下でアサミの足を軽く蹴った。


 アサミは少しだけ眉を動かす。


「痛い」


「痛くしたの」


「暴力は議論を進めない」


「禁制っぽい本を勝手に持ってくるのは、人生を後退させるわよ」


「必要だった」


 その一言で、茜は黙った。


 アサミは写本を開く。


 古い紙から、乾いた草と鉄のような匂いがした。


 本文は崩れた筆文字で書かれている。


 ところどころに、後世の写し手が加えた注釈が朱で入っていた。


 茜には読めない箇所も多い。


 けれど、自分の家の名前だけは分かった。


 稲葉。


 鬼。


 契り。


 その三つの文字が、何度も出てくる。


「なに、これ」


「稲葉家の古い契約記録の写し」


「うちの?」


「正確には、稲葉家が代々管理してきた鬼契りに関する写本」


 鬼契り。


 茜はその言葉を聞いたことがあった。


 家の古い蔵。


 母と家臣たちの小声。


 父が病に倒れてから増えた、深夜の話し合い。


 その中で、何度か耳にした言葉。


 だが、茜が尋ねても、誰も詳しく教えてくれなかった。


 まだ知らなくていい。


 いずれ話す。


 おまえは学業に集中しなさい。


 大人たちは、皆そう言った。


「なんで、アサミがそれを調べてるの」


 茜の声は、自分でも驚くほど低かった。


 アサミは目を伏せる。


「茜が泣いていたから」


「……は?」


「以前、厠で。父親の病気のことを話していた。誰かに話していたわけではなく、独り言だったと思う」


 茜の顔から血の気が引いた。


 あのとき。


 誰にも聞かれていないと思っていた。


 個室の中で、父の病気が怖いと、後継者になりたくないわけではないのに逃げたいと思ってしまう自分が嫌だと、泣きながらこぼしたことがある。


 まさか、聞かれていたとは思わなかった。


「聞いてたの?」


「偶然」


「声、かけなさいよ」


「かけようとした。でも、何と言えばいいか分からなかった」


 アサミの声は、いつもと同じように平坦だった。


 だが、指先が机の上で三度、速く叩かれた。


「ワタシは、慰めるのが得意ではない」


「知ってる」


「だから調べた」


「だからって、うちの禁制っぽい資料まで?」


「病の原因が通常医学にない可能性が高かった。稲葉家の歴代当主には、若年での衰弱、記憶欠落、感情鈍麻、右半身から始まる麻痺の記録が複数ある。景継様の症状と一致している」


 茜は息を呑んだ。


 父の名が、アサミの口から淡々と出た。


 景継様。


 稲葉景継。


 茜の父。


 いつも穏やかに笑い、茜が幼い頃に転んだだけで誰よりも慌て、藩主としての顔を家では少しだけ外してくれた人。


「やめて」


 茜は反射的に言った。


「父上を、資料みたいに言わないで」


 アサミは口を閉じた。


 しばらく沈黙する。


 図書塔のどこかで、本のページがひとりでにめくれる音がした。


「ごめん」


 アサミが言った。


 茜は怒りの置き場所を失った。


 アサミが謝るとは思っていなかった。


「……別に」


「続けてもいい?」


「聞きたくないって言ったら?」


「それでも、知っておいたほうがいいと思う」


「そういうところ、本当に嫌い」


「うん」


「でも、言って」


 アサミは頷いた。


 写本の一部を指差す。


「この記録では、稲葉家の病は単なる病ではない。契約の反動とされている」


「契約?」


「鬼との契約。稲葉家はかつて、土地を守るために鬼を使役していた」


 茜は笑おうとした。


 笑って、馬鹿馬鹿しいと言いたかった。


 鬼なんて、怪談や古い絵巻の中の話だ。


 稲葉家が鬼を使役していた?


 そんな話、聞いたことがない。


 けれど、自分は知らないことばかりだ。


 母は何も教えてくれない。


 父は病について話さない。


 家臣たちは茜が近づくと口を閉じる。


 自分だけが、稲葉家の中心にいるようで、いつも外側に置かれている。


「その鬼を呼べば、父上の病が治るっていうの?」


「治るとは書いていない」


「じゃあ何」


「契約に由来する病の原因と、反動を止める方法を知るには、鬼の名を問え、とある」


「名を問う……」


「鬼そのものを完全に現世へ呼ぶ必要はない。意識の一部を接続し、質問だけ行う方法がある」


 茜は写本を睨んだ。


 文字は古く、ところどころ読めない。


 それでも、そこに父を救う可能性があるのかもしれないと思った瞬間、胸の奥が強く掴まれた。


 危ない。


 そう思った。


 こんな都合のいい話があるわけがない。


 教師に相談すべきだ。


 母に話すべきだ。


 そもそもアサミが勝手に持ち出した資料だ。信用していいのかも分からない。


 なのに。


 今日の父の連絡が頭から離れない。


 右手の感覚低下。


 発熱。


 主治医再診。


 このまま何もしなければ、父はもっと悪くなる。


 明日には、茜の名前を忘れるかもしれない。


 来月には、もう歩けないかもしれない。


 来年には。


 茜は奥歯を噛んだ。


「教師に言ったら?」


「資料の持ち出しが発覚する。ワタシは処分される」


「それだけ?」


「この写本は封印資料庫に戻される。茜には見せられなくなる。稲葉家へ連絡が行く。大人たちは、茜を遠ざける可能性が高い」


「……でしょうね」


「それから、もう一つ」


 アサミは声を落とした。


「この写本、最後の部分に不自然な改竄の痕跡がある」


「改竄?」


「文字の霊圧が違う。古い紙に後から書き込まれたというより、もともとあった文字の意味だけをずらされている感じ」


「それ、危ないんじゃないの」


「危ない」


「即答しないでよ」


「でも、逆に言えば、改竄箇所を特定できれば修正できる可能性がある」


 茜は机へ両手をついた。


「アサミ。あんた、自分ならできるって思ってるでしょ」


「思っている」


「そこは少し濁しなさいよ」


「濁しても危険度は下がらない」


 アサミは真っ直ぐに茜を見た。


 感情の薄い瞳。


 けれど、その奥にあるものを、茜は知っていた。


 好奇心だけではない。


 研究欲だけでもない。


 この子は、茜のために調べていた。


 慰め方が分からないから。


 泣いている友人の隣に座る方法が分からないから。


 代わりに、医学書を開き、契約記録を読み、禁じられた資料へ手を伸ばした。


 間違っている。


 危険だ。


 相談すべき相手を間違えている。


 けれど、その不器用さを、茜は拒めなかった。


「……完全に呼ぶわけじゃないのね」


 茜が言うと、アサミは頷いた。


「呼ばない。鬼の意識の表層だけを接続する。西洋式魔法陣で座標を固定し、東洋式の名問いで応答させる。現世への実体化はさせない」


「西洋式で鬼を呼ぶの?」


「呼ぶというより、接続する。鬼だから東洋式でなければならないという考えは、文化的な分類に引きずられている。召喚の本質は、座標指定、通路形成、対象識別、固定の四つ」


「はい出た、難しい話」


「簡単に言うと、扉へ届けばいい」


「最初からそう言って」


「鬼を部屋に入れるのではなく、扉越しに話を聞く」


「それでも、扉は開けるんでしょ」


 アサミは少しだけ黙った。


「少しだけ」


「その少しが怖いんだけど」


「怖くないわけではない」


 茜は目を瞬かせた。


 アサミが、そんなことを言うとは思わなかった。


「怖いの?」


「怖がる前に、調べたいだけ」


「それ、怖いって言わない?」


「たぶん言う」


 茜は深く息を吐いた。


 笑いそうになった。


 笑っていい場面ではないのに。


 それでも、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。


「今日やるの?」


 アサミは頷いた。


「夕暮れが最も接続しやすい。召喚実習室は授業後に封鎖される。北校舎の普通教室なら、霊的磁場が強く、監視も薄い」


「監視が薄いって、悪いことする人の発想よ」


「悪いことではない」


「禁制資料持ち出して、教師に黙って鬼に接続するのは、かなり悪いこと寄りだと思うけど」


「目的は治療法の確認」


「目的が正しければ手順は多少問題あってもいい、みたいな顔してる」


「そう見える?」


「すごく見える」


 アサミは視線を落とした。


「……気をつける」


 その小さな一言で、茜はまた迷った。


 止めるべきだ。


 今からでも写本を閉じて、教師へ話せばいい。


 アサミは怒られるかもしれない。


 茜も事情を聞かれるだろう。


 稲葉家にも連絡がいく。


 母は厳しい顔をする。


 父は、きっと悲しそうに笑う。


 茜、おまえが背負うことではないよ。


 そう言うに決まっている。


 では、誰が背負うのか。


 父はもう背負えない。


 母は限界まで背負っている。


 家臣たちは茜を子ども扱いしながら、いずれ背負わせる準備だけはしている。


 なら、自分が何かしなければならない。


「分かった」


 茜は言った。


 自分の声が、思ったより落ち着いていた。


「やる」


「本当に?」


「言い出したのアサミでしょ」


「危険はある」


「今さら」


「失敗したら、ワタシが責任を取る」


「馬鹿」


 茜は即座に言った。


 アサミが瞬きをする。


「あんた一人の責任にするわけないでしょ。父上を助けたいのは、あたしなんだから」


「でも、資料を持ち出したのはワタシ」


「それはあとで一緒に怒られる」


「一緒に?」


「友達でしょ」


 アサミは、ほんのわずかに目を見開いた。


 それから、いつもと同じ無表情に戻る。


「そう。なら、手順を説明する」


「今の流れで照れたりしないわけ?」


「照れている」


「どこが?」


「心拍数が少し上がった」


「分かりにくい!」


 茜は呆れたように笑った。


 笑いながら、胸の奥では別のものが冷たく沈んでいる。


 父を救えるかもしれない。


 その希望は、あまりに甘く、危険だった。


 でも、もう手放せなかった。


     ◇


 夕暮れが、北校舎の窓を赤く染めていた。


 放課後の普通教室には、昼間の騒がしさが残り香のように漂っている。


 机は後ろへ寄せられ、床の中央に空間が作られていた。


 木の床板には、赤い朱蝋で魔法陣が描かれている。


 円。


 三角。


 四方位を示す文字。


 その周囲に、アサミが細かな注釈を書き込んでいく。


 西洋式の線の間に、日本の鬼門方位を示す符号が挟まれていた。


 茜には、複雑すぎて何が何だか分からない。


 ただ、その魔法陣が美しいとは思った。


 危険なものほど美しく見えることがある。


 そんなことを考えて、茜は自分の腕をさすった。


「寒い?」


 床に膝をついたまま、アサミが尋ねる。


「ちょっとね」


「霊的温度が下がっている。正常」


「正常なら寒くないようにしてほしい」


「それは別問題」


 アサミは魔導鞄から小瓶を取り出し、陣の四隅へ透明な液体を垂らした。


 水のように見えたが、床へ触れると薄い煙が立ち上る。


「それ何?」


「清めた水銀の代替液。実物の水銀は危険だから使わない」


「鬼より水銀の心配?」


「健康被害は避けるべき」


「今からやること、健康にいいとは思えないんだけど」


「短時間で終わらせる」


 アサミは淡々と答える。


 それがかえって茜を不安にさせた。


 教室の外は静かだった。


 遠くの部活動の声も、ここまでは届かない。


 北校舎は本校舎と違い、放課後に残る生徒が少ない。古い校舎特有の軋みだけが、ときおり壁や天井から聞こえた。


 廊下の向こうでは、掃除用の紙式神が一体、からからと音を立てて通り過ぎていく。


 それが遠ざかると、本当に二人きりになった。


 茜は黒板の前に立ち、腕を組んだ。


「ねえ、やっぱり召喚実習室のほうが安全だったんじゃない?」


「安全設備がある。でも使用記録が残る」


「記録、大事よね」


「大事」


「その割には、無断持ち出しとかするのね」


「必要な記録と、邪魔な記録がある」


「それ、悪役の台詞っぽい」


 アサミは一瞬だけ手を止めた。


「悪役ではない」


「分かってるわよ」


「でも、間違える可能性はある」


 茜はアサミを見る。


 アサミは床の魔法陣から目を離さない。


「ワタシは、自分なら制御できると思っている。そう思うこと自体が危ないのも分かっている」


「……じゃあ、やめる?」


「やめたほうが安全」


 アサミは静かに言った。


「でも、何もしないほうがいいとは思えない」


 その言葉に、茜は何も返せなかった。


 同じだった。


 自分もそう思っている。


 危ないからやめる。


 それは正しい。


 でも、父の病状が悪化していくのを、ただ見ていることもできない。


 正しいことと、耐えられることは違う。


「茜」


「なに?」


「最終確認。やめるなら、今」


 アサミは顔を上げた。


「ワタシは、茜に無理をさせたいわけではない」


 その言葉は、いつもの説明口調ではなかった。


 少しだけ、不器用な本音が混ざっていた。


 茜は召喚杖を握った。


 昼間の失敗を思い出す。


 狐の影。


 言えなかった命令。


 従え、と言えなかった自分。


 それは本当に弱さなのだろうか。


 それとも。


 茜は首を振った。


 今は考えない。


 父を助ける手がかりを得る。


 それだけだ。


「やる」


 茜は言った。


「ただし、危なくなったらすぐ止める。アサミがまだいけるって言っても、あたしが止める。いい?」


「いい」


「それと、何かあったら一緒に怒られる」


「それも、いい」


「あと、父上のことを資料扱いしない」


「努力する」


「努力じゃなくて、約束」


 アサミは少し考えた。


「約束する」


 茜は頷いた。


 それで十分だと思った。


 アサミは写本を開き、魔法陣の北東に置いた。


 鬼門の方角。


 窓の外では、太陽が校舎の屋根へ沈みかけている。


 教室の朱色が、ゆっくりと濃くなった。


 光と影の境目が曖昧になる。


 昼でも夜でもない時間。


 現世と《向こう側》の境界が、少しだけ薄くなる時間。


 アサミは蝋燭へ火を灯した。


 火は赤ではなく、青白く燃えた。


 茜は思わず息を呑む。


「大丈夫?」


「その質問、今日何回目?」


「必要なら何回でも」


「大丈夫」


 今度は、少しだけ本当にそう思えた。


 アサミが目を閉じる。


 小さな声で、術式を読み上げ始めた。


 それは茜が知っている祝詞ではなかった。


 西洋の言葉とも、日本語ともつかない。


 音そのものが、教室の空気へ細い針を通していくようだった。


 床の魔法陣が淡く光る。


 赤い線が、一つずつ目を覚ます。


 茜は召喚杖を構えた。


 出力を抑える。


 命令ではなく、支える。


 自分へそう言い聞かせる。


 アサミの声が、少し低くなる。


 窓の外で、風が止まった。


 廊下の音も消えた。


 教室全体が、誰かに息を潜めて見つめられているようだった。


 アサミの左手の指先が、床を三回叩く。


 一度。


 二度。


 三度。


 彼女は目を開けた。


 灰紫色の瞳が、蝋燭の光を映して揺れている。


「接続を開始する」


 茜は頷いた。


 喉が渇く。


 胸が苦しい。


 怖い。


 けれど、逃げなかった。


 アサミが写本の末尾へ指を置いた。


 そこには、他の文字よりもわずかに黒い一文があった。


 古い紙の上で、その文字だけが、まるで今も乾ききっていない墨のように鈍く光っていた。


 アサミは一瞬だけ眉を寄せる。


 何かに気づいたようだった。


「アサミ?」


「……少し、変」


「何が?」


「最後の固定式。意味が、ずれている」


「ずれてるって」


 アサミは黙った。


 教室の空気が、さらに冷たくなる。


 茜は一歩踏み出しかけた。


「やめる?」


 アサミは写本から目を離さない。


 ほんの短い沈黙。


 それから、彼女は言った。


「修正できる範囲」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんは嫌」


「正確には、危険はある。でも、ここまで陣を起動した状態で中断すると、残留霊圧が逆流する可能性がある。制御しながら進めたほうが安全」


 茜には、その説明が正しいのか分からなかった。


 分からないまま、信じるしかなかった。


 アサミの声は落ち着いている。


 手も震えていない。


 それでも、茜は気づいた。


 アサミの左手の指先が、机ではなく床をまた三回叩いている。


 考え事をするときの癖。


 迷っているときの癖。


「アサミ」


「大丈夫。ワタシが制御する」


 その言葉は、茜へ向けられているようで、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。


 魔法陣の光が強くなる。


 教室の床板が、かすかに軋んだ。


 どこか遠くから、低い音が聞こえる。


 風の音。


 いや、門が開く音。


 茜は召喚杖を握り直した。


 アサミが、最後の一節を唱え始める。


 その声に重なるように、誰かの気配が教室の外を通った。


 廊下の向こう。


 まだ姿は見えない。


 だが、夕暮れの北校舎へ、ひどく間の悪い足音が近づいてきていた。


 怪異。


 神。


 悪霊。


 そして、人間が理解できないものを、ひとまとめにしてそう呼ぶようになった領域――《向こう側》。


 生者の国と《向こう側》をつなぐ門を閉じるため、日本は鎖国した。


 その始まりとなった日は、後に《黄昏災》と呼ばれた。


     ◇


 十八年前。


 その年の秋は、例年よりも日暮れが早かった。


 午後五時を過ぎたばかりだというのに、空は夕焼けとも曇天ともつかない濁った赤に覆われていた。


 赤いのに、暖かさがない。


 まるで空一面に古い血が薄く広がっているようだと、誰かが言った。


 最初の異変が記録されたのは、地方都市にあるごく普通の中学校だった。


 部活動を終えた生徒たちが、昇降口へ向かって階段を下りていた。


 三階。


 二階。


 一階。


 そこで終わるはずだった。


「……ねえ」


 先頭を歩いていた少女が足を止めた。


 階段は、その先にも続いていた。


 校舎に地下階など存在しない。


 しかし一階の踊り場から、さらに下へ向かう階段が伸びている。


 非常灯の緑色だけが、どこまでも等間隔に浮かんでいた。


 下から、誰かが名前を呼んだ。


「美咲」


 少女の肩が震えた。


 それは、三年前に亡くなった母親の声だった。


「美咲。迎えに来たよ」


 懐かしくて、優しい声。


 夢の中で何度も聞きたいと願った声。


 少女は手すりへ指をかけた。


「お母さん……?」


 隣にいた友人が、慌ててその腕を掴んだ。


「行っちゃ駄目」


「でも、お母さんが」


「違うよ。だって――」


 友人は言いかけ、凍りついた。


 少女の胸元に縫いつけられた名札から、文字が消えていた。


 白い布だけが残っている。


「……あなた、誰?」


 少女の腕を握ったまま、友人は本気で怯えていた。


 さっきまで一緒に笑っていた相手の名前が、思い出せなかった。


 顔を見ても、誰なのか分からない。


 それでも腕を放してはいけないという感覚だけが残っていた。


 暗い階段の底から、母親の声が笑った。


「早くおいで」


 その瞬間、全国七十を超える地点で、同時に門が開いた。


     ◇


 ある病院では、集中治療室の時計が止まった。


 秒針は午後五時十七分を示したまま動かず、患者の心電図だけが規則正しく波を描き続けた。


 看護師が廊下へ出ると、病室の扉がすべて同じ番号になっていた。


 四〇四号室。


 四〇四号室。


 四〇四号室。


 どの扉を開けても、同じ患者が眠っている。


 しかし、顔が違う。


 男。


 女。


 老人。


 子ども。


 まだ生まれていないはずの胎児。


 死者名簿を確認しようとした事務員は、開いた画面を見て悲鳴を上げた。


 死亡者の名前が、一文字ずつ消えていた。


 名前が消えた欄から、白い指が伸びてきた。


     ◇


 首都圏の駅では、存在しない列車がホームへ入ってきた。


 行き先表示は空白。


 車内灯はついている。


 窓の向こうには大勢の乗客が座っていた。


 列車を待っていた人々は、はじめ、それを回送車両だと思った。


 だが、扉が開いても、中の乗客は誰一人として降りようとしなかった。


 全員が同じ方向を向いている。


 ホームに立つ人々を、無言で見つめている。


 やがて一人の男が、車内にいる妻を見つけた。


 半年前、事故で亡くした妻だった。


 男が泣きながら車両へ乗り込む。


 扉が閉まる。


 列車は音もなく暗闇へ走り去った。


 翌朝、その男の戸籍も、職場の記録も、自宅に残されていた写真も消えていた。


 ただ一枚。


 駅の監視映像にだけ、顔のない人間が列車へ乗り込む姿が残っていた。


     ◇


 地下街では、同じ五分間が何度も繰り返された。


 交差点では、信号が存在しない色に変わった。


 海岸には、どの国の神話にも完全には一致しない巨大な遺骸が打ち上げられた。


 学校の廊下が、別の学校へつながった。


 古い井戸の底から外国語の聖歌が聞こえた。


 切断された電話線から、死者の声が流れた。


 家族の携帯電話へ、亡くなった者から一斉に着信があった。


 鏡、水面、窓硝子、消えたテレビ画面。


 光を映すものすべてに、白い制服を着た人影が現れた。


 少年にも見えた。


 少女にも見えた。


 年老いているようにも、幼いようにも見えた。


 ただ、顔だけがなかった。


 鼻も、目も、口もない。


 何もないはずの顔が、画面の向こうから人々を見つめていた。


 そして、どの記録にも同じ声が残った。


『あなたのお名前を、教えてください』


 答えた者の多くは、戻らなかった。


 身体が消えた者。


 記憶から消えた者。


 記録の上で、最初から存在しなかったことになった者。


 死者の数は、最後まで確定しなかった。


 死者として数えるための名前そのものが、失われていたからである。


     ◇


 災害発生から七日後。


 政府は、それまで別々に扱われていた事象を、初めて一つの災害として認定した。


 全国同時多発開門災害。


 通称、《黄昏災》。


 原因は一つではなかった。


 急速な都市開発によって失われた土地の名。


 途絶えた祭祀。


 忘れられた井戸や墓地。


 通信網によって爆発的に広がった怪談。


 海外から持ち込まれた、土地の文法に合わない魔術。


 隠蔽され、正しく弔われなかった死者たち。


 そして、多くの人間が同時に抱いた恐怖。


 噂が形を作った。


 名前が存在を固定した。


 契約が道を開いた。


 恐怖が、その向こうにいるものを呼び寄せた。


 日本は、怪異を迷信として処理することをやめた。


 死者をいないものとして扱うことも。


 土地に残された古い約束を、過去の遺物として捨てることもできなくなった。


 黄昏災から一年後。


 国会議事堂前に、黒塗りの巨大な結界柱が立てられた。


 神職、僧侶、魔術師、学者、官僚、海外魔術院の代表者が並ぶ中、霊的鎖国宣言が読み上げられた。


 それは、外国人の入国を拒む宣言ではない。


 海外との貿易を止めるものでもない。


 日本列島と《向こう側》をつなぐ霊道、召喚経路、異界門を国家の管理下へ置き、無許可での往来を禁じる宣言だった。


 怪異に対応する中央機構は《公儀》と呼ばれた。


 土地の結界を管理する地方組織には《藩》の名が復活した。


 街道、河川、寺社、学校、病院、鉄道、旧家、教会、海外魔術院。


 現代の都市設備と、古くから土地へ根づいていた祭祀が接続された。


 全国封門網。


 日本列島を覆う、無数の小さな門と錠前の集合体。


 高層ビルの谷間に朱塗りの結界門が建ち、自動改札に霊籍照合機が設置された。


 警備用ドローンの隣を、紙の式神が飛ぶようになった。


 コンビニエンスストアの自動扉には護符が貼られ、地下鉄の構内放送は、事故情報とともに境界警報を告げるようになった。


 科学は捨てられなかった。


 魔導だけに戻ることもなかった。


 新しいものと古いものは、互いに理解しきれないまま、一つの国を支えることになった。


 人々はそれを、ネオ江戸と呼んだ。


     ◇


 全国封門網には、いくつもの重要拠点が存在した。


 その一つが、六道魔導学園である。


 表向きは、祓魔師、召喚師、結界術師、魔導技師を育てる由緒ある教育機関。


 しかし学園が建つ土地は、古くから《六道ヶ辻》と呼ばれていた。


 死者の声。


 捨てられた名前。


 語られなかった恨み。


 忘れられた記憶。


 生者の世界からこぼれ落ちたものが、六つの霊道を通じて流れ込む場所。


 学園の地下には、国家級の異界門が存在する。


 門は、完全には閉じられていない。


 閉じれば、内部へ溜まった霊的圧力が別の場所を破壊する。


 開けば、学園も周辺の街も《向こう側》へ呑み込まれる。


 だから六道魔導学園は、門を閉じるためではなく、わずかに開いたまま保つために作られた。


 七つの怪談。


 古い契約。


 そこへ通う生徒たちの名前と魔力。


 大勢の人間が知らないところで、学園は国を守る錠前の一つとなった。


 その錠前が、内側から少しずつ錆びていることを、まだ誰も知らなかった。


     ◇


 十八年後。


 春。


 六道魔導学園の正門には、朝から新入生とその家族が列を作っていた。


 巨大な木造門の両脇には朱塗りの結界柱が立ち、その上を警備式神と小型監視機が巡回している。


 門の向こうには、瓦屋根を持つ本校舎と、硝子張りの魔導研究棟が並んでいた。


 遠くには、古い木造の北校舎が見える。


 現代的な耐震補強を施されているはずなのに、そこだけは何百年も前から同じ姿で建っているように見えた。


 入学式を終えた高等部一年生たちは、講堂に残されていた。


 真新しい制服の布が擦れる音。


 抑えきれない囁き声。


 魔導端末の通知音。


 保護者が退席したあとも、講堂には浮き足立った空気が残っている。


 女生徒の制服は、白い千早風の上衣と切袴を基調としていた。


 男子生徒は、和装の襟と現代的な法衣を組み合わせた制服を身につけている。


 同じ制服でも、着る者の性格は隠しきれない。


 前列近くでは、一人の少女が椅子の背へ腕をかけ、隣の生徒へ何事か話していた。


 赤みがかった長い髪。


 暗い紅色の切袴。


 背筋を伸ばし、周囲の視線をまるで気にしていない。


「入学初日から長すぎない? 式だけで二時間よ。訓示って、まだ続くわけ?」


 稲葉茜。


 稲葉藩主家の一人娘。


 周囲から向けられる好奇の視線も、家名を囁く声も、本人は聞こえていないように振る舞っていた。


 隣に座る小柄な少女は、茜の愚痴へ答えず、入学案内へ目を落としている。


 黒に近い濃紺の髪。


 灰紫色の瞳。


 制服は規則どおり、一つの乱れもなく着込んでいる。


「聞いてる、アサミ?」


「聞いている」


「じゃあ、何か言ってよ」


「訓示が長いという意見には同意する。でも、開始からまだ十一分四十二秒」


「十分超えたら長いのよ」


「基準が主観的」


 新垣アサミは、表情を変えずに答えた。


 左手の指先が、入学案内の表紙を三度叩く。


 その視線は、印刷された学園見取り図の一点――一般生徒立入禁止と記された北校舎の一角へ向けられていた。


 講堂の最後列。


 出入口に最も近い席には、銀白色の髪をした少年が座っている。


 姿勢は悪く、腕を組み、いかにも退屈そうに目を閉じていた。


 新入生というには制服が着慣れている。


 実際、彼はこの学園へ初めて足を踏み入れたわけではない。


 六道雅琥。


 高等部一年。


 ただし、二度目の一年生である。


 昨年度の長期停学と進級取り消しによって、再び同じ学年の席へ座らされていた。


 周囲の新入生は、誰も雅琥へ近づこうとしない。


 六道学園の白虎。


 喧嘩で上級生を何人も倒した問題児。


 教師を半殺しにしたことがある。


 入学前から噂だけが一人歩きしている。


 雅琥は噂など気にしていない顔をしていた。


 ただ、講堂正面に掲げられた大きな鏡だけは、決して見ようとしなかった。


 その数列前。


 人の少ない端の席で、一人の少年が腹を押さえていた。


 蓮田風彦(はすたかぜひこ)は、なるべく目立たないように背を丸めている。


 青白い顔。


 長い前髪。


 細い黒縁眼鏡。


 周囲の賑やかさから、身体ごと逃げるような座り方だった。


「……まずいでござるな」


 小さく呟き、制服の内側へ手を入れる。


 下痢止めの薬包はある。


 水もある。


 朝から何も食べていない。


 それでも腹の奥では、冷たいものがゆっくりと蠢いていた。


 単なる緊張による腹痛ではない。


 風彦はそれを知っている。


 正門を通ったときから、ずっと痛んでいる。


 門前に設置された霊籍照合機へ名前を登録した瞬間には、焼けた針で腹の内側を刺されたような痛みが走った。


 入学時の簡易霊籍登録。


 名前と顔、魔力波形を校内結界へ記録するだけの、ごく一般的な安全手続き。


 案内役の教師はそう説明していた。


 だが風彦には、紙へ名前を書くこととは違う感触があった。


 何かに名前を覚えられた。


 もっと正確に言えば――。


 何かに、見つけられた。


 風彦は、考えすぎだと自分へ言い聞かせた。


 今日から普通の生徒として振る舞う。


 それが表向きの役割だった。


 公儀から与えられた本当の任務については、誰にも知られてはならない。


 学園地下の異界門を監視する。


 結界異常を調べる。


 必要であれば、報告する。


 それだけだ。


 友人を作れとは命じられていない。


 学園生活を楽しめとも。


 目立たず、余計な関係を持たず、任務を果たす。


 それなら自分にもできる。


 風彦はそう考えながら、腹を押さえる手へ力を込めた。


 そのとき。


 講堂のざわめきが、波を引くように消えた。


 壇上へ、六道玄斎が歩み出ていた。


 長身の男だった。


 濃紺の和装に、黒に近い長羽織。


 灰色を帯びた髪を、首の後ろで低く束ねている。


 左目を覆う煙色の封印眼鏡が、講堂の灯を鈍く反射した。


 玄斎は演台の前へ立ち、生徒たちを見渡した。


 威圧するような仕草はない。


 声を張り上げてもいない。


 それでも、自然と誰もが口を閉じる。


「入学を許可された諸君へ、まず祝いを申し上げる」


 低く、よく通る声だった。


「六道魔導学園は、魔導を学ぶ場所である。祓魔、召喚、契約、結界、魔導工学。諸君はこれから、自らが選んだ分野を学ぶことになる」


 茜は正面を向きながら、わずかに肩をすくめた。


 アサミは玄斎の話を聞きつつ、入学案内の余白へ何かを書き込んでいる。


 雅琥は目を閉じたまま動かない。


 風彦だけは、玄斎の左目を覆う封印眼鏡を見つめていた。


 その奥から、こちらを見返されているような気がした。


「魔導とは、望みを叶えるための便利な力ではない」


 玄斎の声が講堂へ広がる。


「名を呼ぶこと。何かを信じること。恐れること。約束を結ぶこと。そのすべてが、世界へ影響を与える」


 講堂の片隅で、風彦の腹が小さく鳴った。


 隣の生徒がちらりと見る。


 風彦は申し訳なさそうに頭を下げた。


「怪異の多くは、人間の外側から突然現れるのではない。我々が呼び、我々が形を与え、我々が関係を結んだ結果として現れる」


 玄斎は演台へ片手を置いた。


「ゆえに、ここでは名前を軽んじてはならない」


 講堂の空気が、わずかに冷えた。


「知らない声に名を呼ばれても、安易に返事をしないこと。契約文を読まずに署名しないこと。怪異へ名を尋ねるときは、自らも名乗る覚悟を持つこと」


 新入生たちの中から、小さな笑いが起きた。


 子どもの頃から何度も聞かされてきた怪異避難訓練の標語と、大きくは変わらない。


 名前を呼ばれても返事をしない。


 鏡の中の自分と会話をしない。


 存在しない階段を下りない。


 危険な怪談を試さない。


 霊的鎖国後に生まれた彼らにとって、それは火の用心や交通安全と同じ、ありふれた注意事項だった。


 だが玄斎は笑わなかった。


 右目だけで、生徒一人ひとりを見つめている。


「諸君の名は、家の所有物ではない」


 茜の指が、膝の上でわずかに動いた。


「国家の所有物でも、学園の所有物でもない」


 風彦は顔を上げた。


 玄斎と視線が合ったように感じた。


「名は、諸君自身が、この世界に存在するための証しである」


 最後列で、雅琥が目を開ける。


 その視線は壇上の玄斎へ向けられていた。


 父を見る目ではない。


 学園長へ向ける、冷えた視線だった。


 玄斎はほんのわずかに言葉を止めた。


 しかし、表情を変えることなく続けた。


「ここで学ぶ者は、自らの名に責任を持たねばならない」


 その言葉が講堂へ落ちた。


 鐘を鳴らしたわけでもない。


 術式を使ったわけでもない。


 それでも講堂の床下深くで、何かが応えた。


 ごう、と。


 地の底を風が走るような音。


 ほとんどの生徒は、古い建物の軋みだと思った。


 茜は天井を見上げた。


 アサミは指先で入学案内を三度叩いた。


 雅琥は扉のほうへ一瞬だけ視線を走らせた。


 風彦は腹を押さえ、息を呑んだ。


 痛みが、急に強くなった。


 冷たい。


 深い井戸の底から、氷水を流し込まれたような痛み。


「……いる」


 声に出したつもりはなかった。


 誰にも聞かれていない。


 風彦は眼鏡の奥で目を細めた。


 壇上の玄斎も、講堂の床へわずかに視線を落としていた。


 何かを感じている。


 だが玄斎は、生徒たちへ何も告げなかった。


「以上をもって、学園長訓示とする」


 頭を下げる。


 講堂に拍手が起こった。


 張りつめていた空気が緩み、生徒たちは再び囁き始める。


 新しい教室。


 新しい教師。


 部活動。


 友人。


 これから始まる学園生活。


 誰もが、自分の未来について話していた。


 その足元で、彼らの名前を記した古い名簿が開かれているとも知らずに。


     ◇


 講堂の地下。


 さらにその下。


 学園の建築図面にも記されていない場所に、一つの教室があった。


 黒板。


 教壇。


 並べられた机。


 すべてが古く、長い間使われていない。


 だが埃は積もっていなかった。


 机の数は、見るたびに違う。


 窓の外には校庭ではなく、どこまでも続く白い廊下が見えている。


 壁には、歴代卒業生の写真が飾られていた。


 どの写真にも、端のほうへ一人だけ多く生徒が写っている。


 白い旧式制服。


 黒い頭巾。


 顔のない卒業生。


 教壇の上には、分厚い名簿が置かれていた。


 入学者名簿。


 卒業者名簿。


 退学者名簿。


 死亡者名簿。


 どの名簿にも収まらなかった名前を記す、もう一冊の帳面。


 誰もいないはずの教室で、紙がひとりでにめくられた。


 一枚。


 また一枚。


 新入生の名前が、整然と並んでいる。


 白い指が、紙の上へ現れた。


 指先は細く、少女のものにも、少年のものにも見えた。


 最初の名前をなぞる。


 蓮田風彦。


 文字の周囲に、黄色い風のような染みが広がった。


 名簿の紙が小さく震える。


 指は次の名前へ移る。


 稲葉茜(いなばあかね)


 赤い糸のような線が、名前の周囲へ絡みつく。


 強く結ばれた糸。


 誰かを縛り、自分をも縛る契約の色。


 新垣アサミ。


 書かれた文字の一部が、別の言語へ変わる。


 戻る。


 また書き換わる。


 一つの意味へ定まることを拒む名前。


 六道雅琥(りくどうがく)


 指が触れた瞬間、机が低く軋んだ。


 紙の下へ、重い杭を打ち込まれたように。


 四つの名前に、薄い印がついた。


 だが指は止まらない。


 名簿の最後まで進む。


 最後のページは白紙だった。


 そこには、もう新入生の名前はない。


 指が迷うように、紙の上をさまよう。


 やがて、どこからともなく水滴が落ちた。


 一滴。


 白い紙の中央へ、丸い染みが広がる。


 古い香の匂い。


 椿。


 夜桜。


 そして、鉄錆にも似た血の匂い。


 白紙の上へ、黒い文字が浮かび上がった。


 三番目の華子。


 その名前の上だけ、誰も触れていないのに、小さな花弁が一枚落ちた。


 白い指が止まる。


 顔のない卒業生の影が、名簿の上へ伸びていた。


 影には口がない。


 それでも、教室のどこかで、穏やかな声がした。


「ようやく、揃った」


 名簿が閉じる。


 同時に、北校舎三階の女子厠で、水滴が落ちた。


 ぴちょん。


 三番目の個室の内側から、女の笑う声がした。


「……うふふ」


 春の風が、六道魔導学園の桜を揺らしていた。


 誰もまだ知らない。


 自分たちがこの学園へ入学したのではなく。


 学園のほうから、名前を呼ばれたのだということを。

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