はちみつ漬けした独占欲
「あちあち」
ぺろりと出された舌を見ながら、マグカップを傾ける。
舌を出している本人は、いつもながら薄い表情で、ほんの少し眉間に皺を寄せた状態で、マグカップを両手で握り締めた。
黒地に白熊の絵柄が描かれたそれは、いつの間にか俺の家に置いてあった、ソイツの私物だ。
「もうちょっと温い方が飲みやすい」
マグカップの中のホットミルクは、白い湯気を絶えず立ち上らせている。
突き出されたままの舌は、確かに、心做しか赤いような気もした。
しかし、なみなみ注がれたそれを、どうやって冷ませば良いのかと問われれば、時間が解決する、としか言いようがないのだ。
「……猫舌って舌と言うより、当人の飲み方が問題なんだよな」
俺のマグカップは白地に黒猫で、これもまた、目の前の舌を突き出したソイツの私物だ。
「これ、オミくんのね」なんて言った日には、何言ってんだコイツと思った、当たり前だろう。
中身は無糖珈琲で、ホットミルクと同じように湯気を立てているが、俺はそのまま喉へ胃へと流している。
首を捻るソイツを見ながら、先日見たテレビの内容を思い出す。
豆知識のような、祖母の知恵袋のような番組だ。
その中の一つに、猫舌は舌が問題というよりも、本人の飲み方で、熱い食べ物飲み物に、舌から付けにいくことが問題だとあった。
つまり、熱い物に対して、舌を前歯で隠すようにして、食べたり飲んだりしてみればいいのだ。
「ほぅ。意識しないと出来ないね」
僅かに目を見開いたソイツは、物は試しと言うように再度マグカップに口を付ける。
ふーっ、と流されていく白い湯気を眺めていると、次にはズズッと液体を啜る音がした。
「あぁ、確かに、飲めた」
感慨深そうな声がして、俺は目を細める。
うんうんと頷くソイツは、こくこくとホットミルクを飲み続けていた。
小さく上下する白い喉を見ていれば、ソイツがマグカップを話して、その口を開く。
「それで、今日は何があったのかな」
疑問符が付かないレベルの抑揚のない声。
ゆるりと傾けられた首に、傾けた方向へと流れる黒髪を見て、目を逸らしてしまう。
まぁ、そう言われるだけの心当たりはある。
マグカップを傾け、珈琲を啜り、口に出すべき言葉を探し、選ぶ。
「三日前は蜂蜜たっぷりのホットケーキに一週間前は蜂蜜入りのクッキーに十日前は蜂蜜漬けの果物に二週間前はハニープリン……」
「もう良い、止めろ」
息もせずにつらつらと並べられる甘味に頭が痛くなった。
それを用意したのは俺だが、いざ並べられると頭が痛くなるのだ。
そんなに食わせていたのか、と。
しかし、それだけ食べている当の本人は、大して気にした様子もなく、全てを平らげる。
現に、今日の蜂蜜入りのホットミルクですら、こくこくと飲んでいるのだ。
「まぁ、何はともあれ。オミくんが蜂蜜入りの何かを出す時は、大抵何かあった時だ。厄日?」
口の端に付いた白い泡を舐めとるソイツの言葉は、大体当たっているが、答える気にはなれない。
厄日とまではいかないが、まぁまぁ、そんなところでもある。
二週間前は、クラスメイトに告白され、目の前のソイツよりも、自分が可愛いという言葉を聞いた日。
十日前は、ソイツが見知らぬ後輩に呼び出され、告白をされながらも即答で断った日。
一週間前は、ソイツにラブレターを渡してくれと、俺が頼まれた日。
三日前は、ソイツが俺に、ラブレターを渡してくれと頼まれた日。
関連付けることが出来ないのか、はてはて、と言いながら、首を左右に傾けるソイツ。
首の動きに合わせて、大きく波打つ黒髪が揺れた。
ソイツは知らないし、分かっていないのだ。
自然な柔らかそうな黒い癖毛に、大きく丸い黒目に、相反する白い肌。
華奢な体付きのくせに、出るところは出て、締めるところは締めた、女の体。
言動はともかく、容姿だけなら好意を寄せられて当たり前のものだ。
「砂糖より蜂蜜の方がカロリーは低い」
「え?デブって言ってる??後、ホットケーキとか蜂蜜の掛け過ぎで黄金に光ってたけど」
ふはっ、と態とらしい笑い声を漏らしたソイツは、マグカップの中身を揺らす。
出したホットケーキについては、これでもかと言うくらい蜂蜜を掛けていたので否定はしない。
しかし、どれだけ蜂蜜を掛けたそれを食べたところで、目の前のソイツが体型を変えたようにも見えないのだ。
「お前は何も知らないよな」
温くなりつつある珈琲を流し込めば、更に訳が分からないと言いたげに首が傾けられる。
小さく骨の鳴る音がした。
ソイツは何も知らない、何も分からない。
俺が何も教えないし、何も言わないから。
ソイツよりも自分の方が可愛いと言ったクラスメイトには、どこが?と首を捻ってやった。
ソイツが後輩に告白をされている時には、離れた所からその様子を眺めていた。
ソイツに渡してくれと言われたラブレターは、ソイツに渡して捨てられるところまで、後日断るところまで見ていた。
ソイツから受け取ったラブレターを見ることなく破棄し、後日声を掛けられた時にはしっかりと断った。
「……何も知らなくて良いなら、知らないままでいたって良いんじゃないかな」
ごくごく、と細く白い喉が上下する。
空っぽになったマグカップを指先に引っ掛けたソイツは、のんびりと立ち上がり、俺を見下ろした。
長い前髪の隙間から見える黒目は、薄らと弧を描いている。
「……お前」
見上げていれば、にんまりと口元も弧を描く。
「何も知らなくて分からなくても、ちゃんとオミくんのこと好きだもん」
マグカップを絡めていない指先が伸びてきて、人差し指の腹が俺の唇を撫でる。
小首を傾げて笑うソイツは質が悪い。
やっぱり知ってるんじゃねぇか、分かってるんじゃねぇか、と叫ばなかっただけ良い方だ。
固まった俺を見下ろすソイツは、楽しそうにうはっ、と変な笑い声を上げる。
そのまま身を翻し、マグカップをキッチンのシンクに置いて、水に漬けたと思ったら、こちらを振り返り「お部屋で本を読んできまーす」と手を振った。
マイペースにも程がある。
「……あぁっ、くそっ」
遠ざかっていく足音を聞いて、頭を抱える。
今日のホットミルクに入れた蜂蜜の量は、普通に入れるよりも多く、ミルクよりも蜂蜜の味の方がしたんじゃないかと思う。
そんなものをいつだってソイツは、口に入れ、胃の中に収めていくのだ。
何も聞かず、知りなくたっていいというスタイルを思い返し、息を吐く。
すっかり冷めた珈琲を口に含むが、まぁ、不味い。
今日は他校の女子に告白された。
その中に俺がソイツと付き合ってるのか、という質問が投げられて、首を振った日だ。
あの何も知らない奴と付き合いたいなんて思ったことは無い。
ただ、何も知らずに側にいればいいと思うのだ。
「良いよ、お前は何も知らなくて。俺は、ちゃんと知ってるから」
飲み干して空っぽになったマグカップに落とす言葉は、部屋で本を開いているであろうソイツには聞こえない。
マグカップを水に漬けた俺は、戸棚の中の蜂蜜がもう少ないことを確認して、また、買い足さなくてはと思うのだ。