第一章 謎の住人玄さん②
この玄さん、いつもここで店開きをしているわけではない。
気が向けば何日も、何時間でもここに座って、頼ってくる人たちと楽しげに会話をしている。
とにかく、玄さんの話は面白い。
前歯がないおかげで、人相はあまりよろしくはないが、スカスカ抜ける滑舌の悪さや、笑うと子供のような顔になってしまう無邪気さが、ほっとさせられてしまう。
腕も悪くないようだ。
まだ仕事の依頼をしたことがない奈緒は、行きつけの美容室で、ひょんなことから玄さんの話になった。
「あのおじさん、結構いい腕、しているんだよ」
店長が奈緒の髪を切りながら、顔をほころばせる。
玄さんの話になると、みんなこんな笑顔になってしまうのが、不思議。
よく会うおばあさんも、玄さんのファンの一人。
亡くなった亭主の話を聞いてもらっている、と言っていた。
「あのおじさん、昔は大きな会社で旋盤技師として働いていたらしいよ」
店長が切り終わった髪を払いながら言うと、奈緒にはさみを見せる。
「このはさみも、あのおじさんに研いでもらっているんだ。一台二万円も取られるけど、文句なしなんだ。商売道具だからね。切れ味が悪いと、やっぱ問題だし。いろんなところに頼んでやってもらったけど、あのおじさんにやってもらったのが一番良かったから、今じゃ月一くらいで頼むようにしているんですよ」
「へぇ」
「ああウチも頼んだことがある」
隣に座っていた、女性客が話に参加してきた。
そしてこの笑顔だ。
玄さんの話題で仲良くなったその女性は、近くのファミリーレストランで働いているらしい。
彼女が帰って行った後、店長がこっそり教えてくれた。
とてもきれいな人だな、と奈緒は思った。
帰り道、玄さんの姿がなくがっかりした奈緒。
この数日、玄さんの姿を見ていない。
こんなのは、珍しくはないそうだが、やっぱり心配になってしまう。
犬を散歩させに来たおばあさんが、奈緒の視線に気が付き、話しかけてくる。
「今日も来ていないのね。名古屋辺りにでも行っているのかしら?」
「名古屋ですか?」
「あの人、腕はいいからね。あちこちから声がかかるらしいわよ」
「そうなんですか」
「人の口は、すごいわよね」
ニコニコしながらそう言うと、おばあさんは犬に引っ張って行かれてしまった。
美容室でも同じことを聞いてきた奈緒は、玄さん凄い。と心内で感嘆してしまう。
今度会ったら、絶対に褒めちぎってやろう、と奈緒はホクホクしながら足を速め、危うく擦れ違う人とぶつかりそうになり、謝る。
その人は、おっとっととよろめきはしたものの、すぐにバランスを取り直し、走って行ってしまう。
新聞配達も大変だな。
道の脇に止めてあったバイクであっという間に行ってしまった、その人をしばらく目で追っていた奈緒は、再び夕暮れの公園を急ぎ足で通り抜けて行く。
仕事にもうようやく慣れ、奈緒の生活にも少しだけ余裕ができてきた。
月一回のおしゃれタイムは、二回に増やされ、原宿をひとりで練り歩く。時々、望やかなでが付き合ってくれることもあるが、一人で出かけることが多い。それは別にいやではなかった。むしろそのほうが気楽で良いのだ。映画だって、自分が好きなものを遠慮なくみられる。
さすがに人の目線が数秒止まっていくのには、慣れられないが、好きな物には代えられない。
「いっそのこと、バレリーナを目指せば」
「ここがおとぎの世界なら、私は誰からも批判されずに済むのに」
そうぼやく奈緒を前にして、かなでが言い放った言葉だった。
「どうしてそういう発想になるのよ」
「昨日、彼とバレエ見に行ったんだけどさ、同じような格好をして踊っていたわよ」
「かなで、相変わらずバカ」
「バカとは何よ。バカとは」
「だって私は踊りたいわけじゃないんだよ。このファッションが好きなだけで」
「まぁ可愛いのは認めるけど、実用性がなさすぎでしょう。それに、会社の人には、内緒にしているんでしょ」
「当然」
「人に言えないことするくらいなら、辞めれば」
「辞めない」
――またやってしまった。




