第四章 星は何でも知っている④
「ねえちゃん」
怖い声で玄さんに呼び止められた奈緒は、びくっと肩を揺らす。
「なんでぇい、おいらを避ける」
「避けているわけじゃ……」
「理由、言ってみん」
玄さん、今はまだ勘弁して欲しい。
「そんなつやのない顔をしやがって、ねえちゃんの良さは、お姫様みてーにキラキラしているところだろうが。亭主になる男は、そう言ってくれないのかい」
その言葉は、奈緒の胸に突き刺さった。
「……おじちゃん、私、引っ越しするの止めたの」
「またどうして」
「フラれちゃった」
玄さんには珍しく難しい顔になり、胸ポケットからタバコを取り出した。
そのタバコを銜えるのかと思いきや、それをまた元に戻した玄さん、ニカッと笑って見せる。
奈緒は何事かと思い、首を傾げ、しげしげと顔を見てしまう。
理由はこうだった。
「そんじゃあねえちゃんの顔、もうしばらく見れんだな。おいら、嬉しいな」
本当に嬉しそうに笑う玄さん。
複雑な思いで、奈緒は玄さんの顔をまじまじと見てしまう。
「おじちゃん、そんなに人の不幸を喜ばないでよ」
「なんでぃ。いいじゃねーか。おいら、ねえちゃんと会えなくなると考えただけで、胸のここいら辺が痛くて痛くて」
「またー、ウソばっか言って」
「ウソじゃねーって」
「本当?」
「ホントホント」
「その言い方が、軽いんだよね」
「バカ言ってら」
ケラケラと笑いだす玄さんに釣られ、奈緒も思わず笑みを溢す。
「じゃあ行くね」
「おう」
少しだけ心が軽くなった奈緒は、数メートル進んでからまた振り返り、玄さんに手を振る。
玄さん、しっかりそれに応えてくれるよう、笑みで奈緒を見送っていた。
綻んだ顔のまま、奈緒は少しだけ玄さんが言うことに、一理あるなぁと思う。
生まれえて来るタイミングさえ合えば、きっと奈緒は玄さんのことを今とは違う感情を、間違いなく抱くと、ニヤリとしてしまう。
我ながら、ファザコンだなと、再びタバコを美味しそうに吹かしている玄さんを、振り返り見る。
背が低く、顔だって整っているとは言えないけど、伝わって来るんだよな、優しさが。
一緒にいるだけで、心が軽くなる人なんて、そうたくさんはいない。
玄さんって、家族はいないのかしら。職業柄、愚問だとは思うけど、居てもおかしくない人柄なのに。そんな事を考えながら歩いていると、マナーモードにしっ放しにしてあった携帯が鳴っていることに、奈緒は気が付く。
一瞬、顔を歪ませ手から、奈緒はその電話を取った。
1週間もご無沙汰だった歩からだった。
「ああ奈緒。まだ怒っているのかよ」
ムッとなった奈緒は一呼吸おいてから、それに答える。
「何か御用ですか。ないなら切らせていただきますけど」
「だから、此間のことはオレが悪かった。謝る。色々誤解があるんだ。説明するの苦手だからさ、奈緒に不安を与えちまったんだよな。本当にごめん。あれからいろいろ反省したんだオレ。まじあんな言い方、ないよな。だけどこれだけは分かって欲しい。別に、夢を諦めたでもなく、ましてや妥協したわけでもないんだ。今は、大道具として、陰でみんなの演技を支えることに、誇りを感じている。ただそれだけなんだ。なんかオレ、コウと思うと周りが見えなくなってしまう癖があるからさ、少し焦りすぎだよな。早く一緒に暮らしたくってさ、奈緒の気持ちとか考えなくって、本当にごめん。会ってゆっくり話したいところなんだけどさ、急きょ、大阪公演が決まっちゃってさ。今回の芝居、好評でさ。話し次第では、どうも九州あたりまで、足を延ばさなくちゃならないみたいなんだ。当分会えそうもないからさ。帰ってからまた話し合おう。あっやべぇ、のぐさんが呼んでいるから、切るな。奈緒、愛しているよ。じゃあ」
「まったく」
奈緒は切れてしまった電話を見つめ、呟く。
不器用な人。
こうなってしまう前の会話を思い出し、奈緒は涙が出そうになる。
「ちょっと待って。どうしていつもそうなの?」
切れかかる電話に向かって、奈緒は夢中でそう言っていた。
「え? そうなの。悪りぃ悪りぃ。じゃあ話してみて」
電話の向こう側で、にこにこと黙って待っててくれる歩の顔が、目に浮かぶ。
「別にいいや。たいしたことじゃないし」
「そうなの? だって山ほどあるって」
「あるわよ。ありすぎて上手く纏まらないの。それに歩さんみたいに、私は話題が豊富じゃないし」
「……あのさ」
しばらく沈黙してから歩は、怒ったような口調で切り出す。
「歩さんていうの、止めてくれませんかね」
明らかに怒っている声だった。
「歩って呼んで下さいよ、いい加減」
奈緒はどうもまだ、歩に対し緊張してしまっているところがあった。
「いけませんか」
「いけません。絶対におかしいです。オレとしては恋人の奈緒に呼び捨てにされたい」
歩だって、ひとのことを言えた義理ではないのに。奈緒は心の中で、クスッと笑ってしまう。
歩も、こういうことを言えるようになったのは、つい最近だった。
沈黙してしまった奈緒に、歩は慌てるように言い訳を始める。それがかわいらしくって愛おしくって、堪らなく会いたくなってしまうのだ。
その気持ちは、歩も同じだったのだろう。だからあんなことを言いだしたんだと思う。
どうやら歩の恋は、劇団マーブルでいいおもちゃ扱いされているようだ。
その電話が切れた直後、木綿子からのメールが届く。
ワイルドな歩を埋め込んでみました。
誰からも愛される人。それが歩だ。
だからこそ、奈緒は考えてしまうのだ。このまま一緒に居て、いいものだろうか。そう思うと怖くて仕方なかった。




