第三章 ヤマアラシとアリスの恋⑤
沈黙はしばらく続いていた。
そっと盗み見た歩は、シートに背を任せるように腕組みをし、目を閉じていた。
居た堪れない気持ちだけが、胸を締め付けて行く。
何一つ、良い言葉が見つけられずにいる奈緒は、そんな仕草を見せる歩にさえ、心惹かれてしまうのだ。
それでも、それだからこそ、奈緒は一度強く目を瞑り、決心を固めるように目を開く。
奈緒の決心を意図も容易く、歩の言葉が遮る。
「正直、オレは女性のファッションは、まったく分からない。それが良いのか悪いのかも。でも、オレが好きだと思ったのは、藤崎奈緒さんで、服じゃない。それだけは確かだ」
零れ落ちそうになる涙を見せないように、奈緒は顔を俯かせる。
「でも、やっぱり引きますよね。親や友達にも、止めろって、言われているし……」
絞り様に言う奈緒を見て、歩は小さく息を吐き出す。
「とにかく歩こう」
そう言って先に車を降りた歩が、助手席のドアを開き、奈緒の手を引く。
「中田さん、私」
「歩でいいよ」
歩は、手を放そうとはしなかった。
黙々と前だけを見て歩く歩に、奈緒は戸惑いながら声を掛ける。
「手を放してください」
「嫌です」
「私なら、本当に大丈夫ですから。こんな趣味を持っている私が行けないんです。多分これからも、止められないと思うし……」
「いい。無理して止めなくて、いい」
奈緒の手を握る手に、力が籠められる。
「人がなんと言っても、自分がいいなら、いいと、オレは思う。それが人を傷つけてしまうことなら別だけど、好きな服を着てて、何が悪いって言うんだ?」
ベンチを見つけ、ドカッと座る歩を見て、奈緒の胸は苦しくなってしまう。
泣いてはダメと思えば思うほど、こみ上げてきてしまうのだった。
「ありがとう。そう言ってくれたのは中田さんだけです。やっぱり私が思ったような人だった。本当に、あなたに会えて良かったなぁ。一時的でも夢、見れたし」
努めて明るく言う奈緒の目は、真っ赤になっていた。
「さっきから何だよ? 奈緒さんの話を聞いていると、全部過去形じゃないですか? オレ等は、これからだから始まるんですよ。その表現の仕方はおかしいだろう?」
奈緒は歩に、手を引っ張られる。
「あのな、誰だって、そんな拘りみたいなもん、一つや二つはあるんじゃねーの。奈緒さんの場合は服だっただけで、それがどうしたって言うんですか? オレなんか、ヒーローになりたいんだぜ! エイ、ヤアって、敵をやっつけるやつ。だけどさ、それも漠然的で、今じゃ大迷子になっているところだから、性質が悪い」
「迷子?」
「そう、迷子。15歳で目覚めて、それでもどうしていいのか分からなくって、とりあえずの人生まっしぐらって感じで。野球だってさ、あ、オレ、高校まで野球していたんだけど、最初はやりたくて始めたのに、なんだか目的が分かんなくなっちまってさ、親とか周りの大人がいろんなこと言い始めて、全部自分の人生じゃないものに思えてきちゃってさ。自分の人生くらい自分で決めてやるって、家を飛び出したのは良いけど、結局空っぽでさ……。ヒーローになるのだって、何だかピントが外れちまった気がするし。何て言うか、なりたいんだけどなれないっていうか、周りの奴はガタガタうるせーし、オレだって言われなくたって分かっているって言うの。あー、だから奈緒さんもそんな細かいこと、気にすんなって。オレが護ってやるから」
奈緒は、そっとハンカチを差し出す。
歩の目にも涙が溜まっていた。
「私にもそんなことがありました。就職も決まって、卒業したらずっと流されていくのかなって思ったら、虚しくなっちゃって……。なんか無茶がしたくなって。笑わないで下さいね。私、一度だけオーディションを受けたことがあるんです。小さな劇団のなんですけどね」
「劇団って。奈緒さん演劇やっていたの?」
「まぁ一応。高校まで演劇部に所属していたんです。これでも」
「へー、そうなんだ」
「私の場合は、本気で演劇の世界で頑張って行こうとか、そういうのじゃなくって、親への当てつけだったんです。別にオーディションじゃなくっても、親が困ることなら、何でも良かった気がします。なんか窮屈だったんですよね。うちはこうだから、こうにしかなれない。みたいなの。それに、こんな格好を堂々と出来るのは、演劇の世界だけかなって思って」
驚いたように見ている歩に、奈緒は優しく微笑み返す。
「……結果は?」
奈緒は首を横に振る。
ごめんと一言謝った歩は、目を伏せる。




