第二章 出会いは雷のごとし④
赤いポルシェの轟音が遠くなり、それに合わすように人が散り始める。
「中田、大丈夫?」
放心状態でいた歩は、ハッとなって振り返る。
みつ役を務めていた遠藤木綿子だった。
「ごめんなさいね。驚かせちゃって。怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫です。不注意だった、私がいけなかったんです。これで帰ります」
「あら、破けている」
木綿子が目敏く、女性のタイツが破れているのを見つけて言う。
「このくらい平気です」
「待って!」
このまま帰すわけにはいかない。
咄嗟的に伸ばされた手。
奈緒の手を掴んだ歩は、あっと、すぐその手を放す。
「私、そこのコンビニで替えを買って来るから、中田は彼女をロビーで休ませておいて」
木綿子はそう言うと、奈緒にウィンクをして見せる。
「えっと、そういうことなんで、良いですか、あっち」
ぎこちない笑みで、歩は正面玄関を指さす。
奈緒はコクリ頷いて見せる。
ロビーは驚くほど静寂を保っていた。
しばらくして、木綿子が買い物袋をブラブラさせながら戻って来るまで、それは続いたのだ。
「中田、買って来たわよ」
木綿子がのんびりと袋を下げてやって来るのが見えた歩は、パッと立ち上がる。
「ずいぶん反応が良いのね」
ニヤニヤと、木綿子に言われ、歩はムッとなる。
「何だよ、良いから早くどこかで着替えさせてやれよ」
「はいはい」
そんな二人のやり取りを聞いていた奈緒が、思い切るように話しかける。
「あのー」
一斉に二人に振り返られ、奈緒は俯いてしまう。
顔が凄く熱い。
「この人、口は悪いけど、食べたりしないから、一緒について行っても大丈夫だから」
「どういう意味よ!」
歩は首を竦め、別にとおどけて見せる。
「あっちに楽屋があるから、行きましょう」
「大丈夫です。私、あそこで着替えてきますから」
奈緒は木綿子から袋を受け取ると、一度、歩に頭を下げてから、トイレに駆け込む。
心臓がどうにかなってしまいそうだった。
二人で座っている間中、奈緒は中田歩なる人物に、今にも飛び出してしまいそうな心臓の鼓動を、聞かれまいか心配だった。
間宮の話をしてくれる仕草。そっと盗み見た横顔。髭で顔のほとんどが覆われ、髪だって無造作に束ねられているだけで、どこから見てもヤマアラシにしか見えないけど、ジンワリと涙が滲んできてしまう涙を、奈緒はそっと拭う。
間宮が言っていたことが脳裏に浮かぶ。
……劇団マーブルを背負って立つ男。確かにそうかもしれない。
鏡に映る自分の顔を見て、奈緒は深いため息を吐く。
なんてことをしてしまったのだろう。
弾みだったとはいえ、自分が発してしまった言葉に、後悔の念が募る。
タイツを変えるために入ったトイレで、奈緒は謝り文句を考える。
今日あったばかりの人に、あんなことを言ってしまう自分を、軽い女だと思われるのが辛かった。
奈緒は深呼吸をしてから、歩が待つソファーへと向かう。
「あのー」
そう声をかける奈緒の顔を、歩はじっと見つめ返す。
「私の顔に何かついていますか?」
喉がカラカラに乾いていた。
一刻も早く、ここから逃げ出したかった。
「俺と、付き合ってください」
奈緒は自分の耳を疑う。
その場を取り繕い立ち去るつもりの奈緒の手を掴んだ、歩が言ってくれた言葉だった。
耳の裏まで赤くなっている、歩の顔を直視できずに、奈緒は俯いてしまう。
ふわふわと夢見心地で、どんな会話をしたのか、その後の会話はまるで覚えていない。
気が付くと、みつ役の人が二人の携帯に連絡先を入れて、ついでに私のも入れとくわねと、奈緒に微笑みかけていた。
どこをどうやって歩いたのかまるで記憶がなかった。
朝、目覚まし時計で起こされるまで、夢を見続けていたんじゃないかと思ったぐらいだった。
恐る恐る携帯を開き、中田歩と遠藤木綿子の名前を見つけた、奈緒は息を飲み込む。
グループ分けに、中田歩のだけが恋人にされていた。
その日の奈緒は、まるで仕事にならなかった。




