夕焼け色の世界と彼女
◆
「…なんだ、また逃げられたのか。」
ニヤニヤとのんびり絡んでくる松浦を横目に俊は慌ただしく練習着を脱ぎ、たくましい筋肉を晒した。
ポーカーフェイスの上に薄っすら苦笑いを滲ませる俊に松浦は愉快に笑う。
「あんまりがっつくと余計に逃げるんじゃねーのか?」
そうは言っても、もう色々と俊は切羽詰まっているのだ。
一年。
一年だ。
もう、充分待った気がする。
そろそろ限界だ。
「もっとさぁ、押したら引いてみるとかだなぁー。」
「引いてる余裕なんてない。」
バタバタと荷作りする俊のこぼした言葉に松浦は吹き出す。
「くくっ、いつも余裕そうな顔してるくせによく言うよな。」
今俊がおおいに焦っているのを腹の底で分かっている癖に、よく言うのはどっちだと俊も笑った。
そもそも俊がこんなにまで慌てているのは、非常事態だからだ。
いつもの歌が、聞こえない。
それはつまり、彼女が音楽室にいないことを物語っている。
その可能性は高いだろう。
なんせ、人は追いかけられれば自然と逃げる生き物だ。
俊は、自分が追いかける側の生き物であるという自覚があった。
今回も、もしかしたら逃げられたかもしれない。
それでも足の速度を緩める訳にはいかなかった。
部室を出て、校舎の入り口に向かう。
足の裏がじゃりじゃりと大きく砂を掻いた。
ガタンガタンとカバンが背中で跳ねる。
一歩走る度に体にぶつかるカバンは地味に痛いが、気にしている暇はなかった。
千葉…。
…彼女は、もう校門を出てしまったのだろうか。
それとも部活自体早退していたりして。
既に自宅なら、俊は本日も諦めなければならない。
知らず、ため息が出る。
しかしすぐに大きく息を吸い込み、自分に活を入れた。
今日だけだ。
また明日、攻めに行く。
待ってろ、千葉澄香。
「…!」
そんな事を考えながら水飲み場の角を曲がると、ドンッと人にぶつかった。
俊は反射的にその人物の腕を取る。
手を引っ張りながら、俊は目を丸くした。
今、目の前にいるのは千葉澄香…まぎれもなく彼女だった。
彼女もびっくりしたように口と目を大きく開く。
昨日も、こうやって彼女とぶつかった。
なんだか可笑しくなり、俊はくしゃっと笑って彼女の体を元の角度に戻す。
「…千葉、ぶつかり過ぎ。」
「あ、…あのね!」
彼女の跳ねる声に、どくんと心臓が音を立てた。
千葉が。
あの千葉が、自分の目の前でカァッと頬を赤くして、切なそうに眉を潜める。
そんな苦しげな瞳で見られるなんて、数秒前の俊には想像出来なかった。
腹の底でグッと熱が噴き上がる。
自分を制しながら、俊は彼女の手を引いた。
俊はちらりと隣のグラウンドに視線を投げる。
…他の生徒に、彼女のこんな切なそうな顔を見られたくなかったのだ。
◆
通学路の川沿いの道を、そのまま彼女の手を引いて歩く。
…勢いでここまで来てしまったが、そもそも手を繋いだままで良かったのだろうか。
彼女的にはどうなのだろうか。
しかし、いざ離せなんて言われても、ちょっと無理かもしれない。
……離したくない。
彼女の手はびっくりするぐらい柔らかくピタリと肌に馴染んだ。
小さいし、なんて指が細いんだと思う。
普段使っていて良く折れないなと俊は要らぬ心配をした。
夕焼けに目に見える世界が全て朱色に染まって見える。
ふと視線を横に落として彼女を見ると、びっくりしたような瞳と目が合い、バッと下を向いて逸らされてしまった。
髪も制服も、全てが柔らかそうな肌も、なにもかも夕陽色。
…ああ。
学校を出ておいて本当に良かったと俊は困ったように微笑む。
このまま、
彼女を誰にも見られないように閉じ込めてしまいたかった。
「今日は、歌、聞こえなかったから。」
ふわりと上がる視線に、俊は出来るだけ柔らかく言葉を響かせる。
「また逃げられたかと思って慌てて走った。」
「…っ、すみません、もう逃げません…。」
冗談っぽく笑うと、彼女はふわわっと慌てて顔を赤らめさせながら下を向いた。
…あーもう、可愛いな。
力任せに抱きしめたくなる衝動を抑え、俊は自分をごまかすように空を見上げる。
「初めは、冗談なんじゃないかって思ってた。俺、千葉には嫌われてるって思ってたし。」
えっ?!と驚く彼女に俊は一瞬目を丸くした。
まさか自覚がなかったのだろうか。
「だって、あからさまに避けてただろう?」
「…あーー…。」
なにか心当たりあったのか気まずそうに視線を泳がして黙り込む可愛い彼女を見て、俊は可笑しくて仕方なくなり思わず笑ってしまう。
するともうだいぶ軽くなった胸からするすると言葉が出てきた。
俊は長く甘く苦しい一年間を思い出しながら彼女にとつとつと話す。
自分が、どんな思いで貴女の歌を聞いて来たのか。
どんなに、ギリギリのラインに居たのか。
…流石に手元に来る事のなかった会話で耳にしただけの品々の話になると、彼女は明らかに狼狽え顔色を赤や青にして頭を抱えていたのだけれど。
そんな彼女の慌てる素振りがまた俊の笑顔を誘う。
今まで散々振り回されてきた相手が、今は自分のたった一言一言にこんなにまで反応してあわあわと頬を染めるなんて、ちょっとした優越感だ。
「そんな訳で、」
「あ、は、はい。」
俊の改めたような一言に彼女は猫のように飛び跳ねて背筋を伸ばした。
「俺はここ一年、…まぁ勝手に期待していた事には変わりないんだけど、とにかく何度も肩すかしを食らって、……若干、もう諦めかけてた。このまま、うっすらあった接点もなくなって、千葉もだんだん俺に飽きて、そのままフェードアウトするんじゃないかって。」
その言葉に驚いたのかブンブンと首を左右に懸命に振る彼女がやっぱり可愛くて。
俊は頑張って隠して来た、自分でも信じられないぐらい強くて鋭い思いの矛先を自然と彼女の瞳に標準を合わせてしまう。
「でも、ダメだな、と思った。それじゃダメだ。俺、本当に何もしてない。」
本当に。
本当にダメだった自分。
こんなんじゃ飽きられてしまっても文句はいえない。
もしそんな事が起これば、どれだけ後悔することになっただろうか。
「そんな風に思っていた矢先だった。昨日、千葉が歌ってただろ?“過ぎた過去を後悔するなら、今すぐにでも前に進め”って」
え?とまるでその内容に初めて気がついたように目を丸くする彼女がほうっと口を開いた。
「…すごいね。聞いただけで…。」
「俺、英語9だから。」
本当は和訳して遊んだ事があった事は伏せ、おどけたように俊が言う。
「でも歴史は赤点。」
「あはは、私逆だー。」
ふわりと。
まるで目の前で白くて柔らかい花が花開いたかのように彼女が自分に笑いかけた。
あれだけカチコチに固まって避け続けた彼女が。
この自分に。
「…あ、やっと笑った。」
今彼女はわかっているのだろうか。
俊の中に衝撃と凄まじい喜びが駆け回っている事を。