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序章

 真っ白な防音壁に囲まれた部屋には窓もなく、無機質な蛍光灯の光がのっぺりと辺りを照らしていた。窓がないのはそれもそのはず、ここは地上一階よりもさらに階段を下ったところに存在する、詰まるところ地下室であるからだ。

 とは言えども、照明にはなんら問題はなく、保温設備も上々。天井には最新のエアコンが設置され、年中通して人間に適切な環境になるよう設定されている。

 窓がないというだけで、そんじょそこらの建物の室内よりも、よっぽど快適である。

 しかし、それとは全く関係なしに、この部屋の印象は薄暗く、感じる空気は冷たかった。それは、あちらこちらに山のようになっているコンピューターのサーバーのためか、それとも一方の壁一面に設置された巨大な液晶ディスプレイのためか。

 いずれにせよ、機器に満ち溢れた室内の雰囲気がそう感じさせているのは間違いない。

 サーバー内のファンが回る音だけが、静かな部屋の中に不気味に響く。

 しかし、耳のよい人間であれば──かつ、この部屋の雰囲気に飲まれることのない心をもつ人間であれば、もう一つの小さな物音を、聞き取ることが出来ただろう。

 部屋の真ん中に置かれた五つの机の一つに向かい、一人の女性──いや、彼女の場合、少女と呼ぶ方が適切だろう──が、一心不乱に何かを書き付けていた。

 紺色のジャケットにつつまれた背筋をぴんと伸ばし、黒い万年筆を白い紙面に軽やかに踊らせる。その字は女子中高生らが好んで使うような丸文字ではなく、流れるように美しい行書体で、その少女の性格を如実に表していると言えた。

 彼女の視線は、机の上に置かれたノートパソコンの画面と手元の紙面との間を頻繁に行き来し、そのたびに肩口で切りそろえられたショートヘアがゆらゆらと揺れる。

 少しクセのある黒髪は、あまり手入れがされていないように見受けられるが、しかしそれでもなお、美しさは微塵も損なわれてはいなかった。おそらく脱色や染色など、一度たりともしたことはないのだろう。

 ペンを走らせること数分後、長々と息を吐き、少女はコトリと万年筆を机の上に置いた。手に取った紙面に三回ほど目を通し、満足がいったのかわずかに笑みを見せ、数枚の書類を机の上に投げ出した。

 両腕を頭の上で組み、椅子に座ったまま背筋をぐいっと後ろに反らせる。長々と時間を掛けていたが、なんとかようやく仕上がったようだ。

 伸びをした時にあらわになった紺色のブレザージャケットの左胸には、金色のエンブレムが刺繍されていた。よくよく見ると、スカートも紺と紅のタータンチェックのプリーツスカートで、雰囲気から察するに、彼女はどうやら女子高生らしい。

 先ほどまでは凛とした威厳のある空気をまとっていたのだが、リラックスした表情にはまだまだ子供らしいあどけない部分も見られる。

 息を止めた細い喉から、くう、と小さく声がもれた。


 ――とその時、一人の青年が地下室にふらりと姿を現した。

「お疲れ様だねぇ、紅野クン」

 あまりにもこの部屋にふさわしくないのんびりとした声が、無機質で薄ら寒い室内を刹那の内に暖かく豹変させた。

 入り口に目を向けた少女も、ゆったりとその顔をほころばせる。

「宇田さん、こんばんは。来てらしたんですか?」

「ウン。ついさっきね、来たところだよ」

 人の良さそうな笑顔を浮かべて、声の主は少女の机の元へと近づいてきた。すらりと背の高い好青年で、両手に湯気の立つカップを二つ持っている。

「コーヒーいれてきたんだけど、飲むかい?」

「あ、どうもありがとうございます。いただきます」

 少女はカップを一つ両手で包み込むようにして受け取り、鼻を近づけて、すう、と深く息を吸い込んだ。コーヒーのこうばしい香りが、疲れきった頭脳を覚醒させる。

 目を閉じて息を吐き出し、何度か吹き冷ましておいて、それからゆっくりと一口すすった。

「──っ! あつっ!」

 黒い液体を口に含んだと同時に、少女は肩をびくりとふるわせた。予想以上の熱さに、口の中を火傷したのだろう。

 隣に立っていた青年が、思わず苦笑いを浮かべた。

「大丈夫かい? あわてないで、ゆっくり飲みなよ」

「……はい、すいません」

「いやいや、謝られても困るんだけどね」

 青年はカップを口元まで持ってゆき、同じ轍を踏まないよう慎重にコーヒーを一口すすった。ゆっくりと飲み込んで、ふと少女の机の上を覗き込んだ。

 先ほどまで少女が書き込んでいた書類の山が、青年の目にとまった。

「紅野クン、そいつは報告書かな?」

「はい、昨日の戦闘についてです。期限は今週末ですけど、早めに終わらせた方がいいと思いまして……」

 火傷した舌の先を口から小さく突き出しながら、少女は軽くうなずいた。

 青年の元より細い目が一層細められ、その黒い瞳は真剣な光を帯びる。

「戦闘? 何かあったのかい?」

「はい。昨日の午後五時ごろ、通報がありまして。あ、そうか。宇田さん、昨日は非番でしたんですよね」

 少女の言葉に、青年は小さくうなずき返した。

「そうだよ。……それにしても、休んでる時に限ってこう厄介なことが起きるんじゃ、おちおち休暇なんか、とってられないよね。報告書、もう書き終わってるのかな? だったら、せっかくだから今の内に目を通しておきたいんだけど、いいかな?」

「はい、ついさっき書き終わりましたので」

 少女はくるりと机に向き直り、机の上に散らばっていた数枚の報告書を一束にまとめて、脇に立つ青年に手渡した。

「どうぞ」

「ん、ありがと」

 青年はコーヒーカップを机の上に置いて、代わりに報告書を受け取った。目が書面を素早く走り、要点だけを的確に把握してゆく。

 一枚目をめくり、二枚目の中頃に入った所で、青年はある文章に目をとめ、眉をひそめた。

「また犬神かい?」

 かしこまって椅子に座っていた少女は、こっくりとうなずいた。

「はい、そうです。昨日、午後五時ごろ、Eランク能力者の通報あり。すぐさまオペレーションAを起動。水谷、紅野の両名で現場に急行、たまたま付近にいた遊撃隊一名の加勢もありまして、数分後、目標を撃破。水谷さんによる空間凍結のおかげで、周囲への二次被害はなし、こちら側の負傷者もありませんでした。

 しかしながら、術者の姿は終始確認できず、結局取り逃がしてしまいました」

「そうか、ご苦労様。術者を取り逃がしたとは言え、被害が出なかっただけで十分だよ。術者はまた追えばいい。でも、万一誰かの身に何かあったりしたら、取り返しがつかないからね」

 にこりと笑顔を少女に向け、青年は再び報告書に目を戻した。

 しばらく紙面を見つめていたが、おもむろに右手で顎をなでつつ、考え込むようなそぶりをみせる。

「どうかなさったんですか?」

「……ん? いや、大したことじゃないんだけど少しだけね、どうにも腑に落ちないことがあってね……」

 目線を報告書に向けたまま、青年は小さくうなり声をあげた。

「例えば、どうして被害がゼロなのか、とか」

「──それは……」

 少女がぎこちなく反論する。

「それは、通報から私たちが駆けつけるまでの時間が、短かったからじゃないですか?」

 しかし、青年は首を振ってその意見を否定した。

「確かに、キミ達の行動は速かっただろうけど。残念ながら、その可能性はほぼ有り得ない。

 犬神の力は、キミも知っての通り、弱くてもランクCの代物だよね。いくらこちら側の対応が迅速であったとはいえ、被害が全くないというのは不自然すぎる」

 しばし考え込み、ゆっくりと少女が口を開いた。

「それじゃ、私達をおびき出すための罠、だったりとかですか?」

「で、あっけなく返り討ちにあったと言うことかい?」

「あ、……えっと」

 青年の突っ込みに、少女は言葉を詰まらせた。

「……確かに、そうである確率はないでもない。けど、あまりにも軽率すぎるとは思わないかい?」

 報告書を少女の机の上に返し、青年はコーヒーのカップを取った。適度に冷めたコーヒーを、口に含む。

「仮にこちら側への攻撃だとしても、むこうにしてみれば多勢に無勢。無策は即、命取りになる。なのに、簡単に存在を発見され、何をするでもなくあっけなくやられてしまっている。

 陽動作戦だとしても、あまりに幼稚すぎるよね。肝心の後発部隊が動いた形跡が、全くないんだから。今回の襲撃は、一体誰にメリットがあるんだろうか?

 そう考えると、全くもって不自然きわまりないんだよ、今回の事は」

 一旦言葉を区切り、空になったコーヒーカップを机に置いた。それから少し目を伏せて、

「それに、忘れてはいけないことがもう一つ。犬神の術者は、発動時に多大な──」


「──!!」


 突如、狭い地下室にけたたましい警戒音が鳴り響いた。

 青年の言葉は最後まで言い切られることなく、反響するベルの音に塗りつぶされる。

 少女は弾かれたように、慌てて席から立ち上った。


 ──二人の表情が、瞬時に緊張する。


 壁に設置された大型ディスプレイに灯がともり、周辺の詳細地図を映し出す。衛星軌道上に存在する静止衛星が、通報者の現在地を正確に把握し、地図上に赤いポイントとして反映する。

 ここより南へ約五キロ。現場は住宅街からすこし離れた場所であった。

「……はい、……はい、了解しました。──宇田さん、犬神です!」

 通信に対応していた少女が、叫ぶように青年に報告する。

 時を同じくして、女が二人と男が一人、転げ込むように地下室へ流れ込んできた。青年はそれを視認し、冷静に、だが素早く指示を発する。

「第十二班、オペレーションAを起動! 紅野、水谷の両名は直ちに現場へ急行し、事態を制圧せよ」

「了解! ──行くよ、紗織ちゃん」

「はい、お願いします、飛鳥さん」

 二人の少女が、あわただしく地下室から地上へと続く階段を駆け上がってゆく。それを見届ける事もなく、青年は次々と指示をとばす。

「堺は第六支部へ連絡。現場周辺の封鎖、及び大規模な情報操作の準備を依頼。状況に応じて発動を申請せよ」

「了解です」

 長身の女性がインカムを手早く装着し、手近の机に向かう。そして目にも留まらぬ凄まじい速さで、パソコンのキーボードを操りはじめる。

「東雲は遊撃部隊各位に連絡。第C級警戒体制を通告してもらいたい。指揮はお前の判断に任せる。むやみに戦力を分散させるな。第二攻撃を常に警戒しておけ。焦ってはいけない。待機しておくことも、重要な作戦だ、いいね?」

「了解」

 少年は女性の隣の机に向かい、同じくインカムを装着する。

 彼がつたないながらもキーボードを操り始めるのを確認し、青年はもう一度口を開いた。

「最後に、私は単独で術者との接触を試みる。昨日と同様、犬神と術者が距離を置いている可能性が非常に高いんだ。こちらからは捕縛が成功次第、連絡を入れる。そちら側の状況は、変化があり次第、逐一報告するように」

「──了解!」

 二人の返答を耳にして、青年はすぐさま地下室から躍り出た。地上へ続く階段を、二段抜かしに駆け上がる。

 上がったそこは、何の変哲もない普通の住宅の玄関だった。

 青年は、ゲタ箱の上にあったフルフェイスヘルメットをひっつかみ、蹴破るように玄関のドアを開け放った。

 そして、脇のガレージに停めてあったバイクに、一足飛びに駆け寄った。

 スタンドを跳ね上げ、足を振り上げてシートにまたがる。ヘルメットをかぶり顎ひもを止める。

 鍵を差し込みぐいと捻ると、電気系統が目を覚まし、テールランプが赤く点灯した。

 キックペダルを勢いよく踏み下ろす。一発でエンジンが点火され、ハンドルを握る両手に、心地よいアイドリングの振動を感じる。

「簡単に逃げきれるなんて、思わないで欲しいよね」

 ヘルメットのプラスチックシールドの向こう側で、青年の瞳がギラリと輝いた。

 ガレージからバイクを蹴り出す。

 アクセルを開けばタコメーターが踊り、長く尾を引くエキゾーストノートと共に、ぐんぐんスピードをあげてゆく。

 クラッチを操作すれば、固い金属音を響かせてギアがシフトし、エンジンのトルクが、より効率よくタイヤに伝えられる。

 青年の操るバイクは市街地を通り抜け、法定速度を若干オーバーしながらも、ノンストップで南下してゆく。信号の比較的少ない経路を選択し、無駄のない動きでバイクを操る。

 季節は初夏。午後七時をまわったとはいえ、あたりはまだ十分に明るい。にもかかわらず、珍しいことに青年は誰一人としてすれ違うことはなかった。

『──宇田さん』

 ヘルメットの内側に装着されたイヤホンに、通信が入った。

 先行していた二人の少女のうちの、一人からだった。

『目標に接触、同時に半径五十メートルを空間凍結しました。それにより、今以上の物的な被害拡大はないはずです。現在は、紅野が単独で交戦中です。少々てこずっているようですが、今のところは全く問題なさそうです』

「了解、くれぐれも油断しないようにね」

『はい。それから、負傷者の連絡です。私達が現場に到着した時、通報者の男性と、非能力者ノーマルと思われる男子高校生が一名、負傷しておりました。そこですぐに堺さんに連絡し、救護班の出動を第六支部の方に申請していただきました』

「よし、いい判断だよ。──で、二人の容態は?」

『通報者の男性の方は、頭部からの出血が見られますが傷自体は浅く、命に別状はなさそうです。ですが、非能力者の少年の方はあまり思わしくありません。左肩と腹部に、それぞれ四カ所の裂傷。臓器への損傷は感じられませんが、出血が激しいです。現在、意識はあるようですが、私の力では自然治癒力の底上げが精一杯で──』

「堺クンに連絡したのはいつだい?」

『つい先ほど、だいたい二分ほど前です。申請は瞬時に処理されたようです』

 しばしの沈黙。青年の頭脳が、フルスピードで回転する。

 現在の状況。

 こちら側の戦力。

 今後の対策。

 第十二班班長として、最善の判断を下す。

「現状維持。分かったね、現状維持だ。救護班は確実にあと数十秒でそちらに到着するはずだ。そしたら、少年の事は彼らにまかせ、キミは紅野クンの援護にまわってくれ。いいね?」

『──了解しました』

「よし、健闘を祈ってるよ」

『宇田さんも、お気をつけて』

 ぷつりと通信が切れた。耳に残るのは、唸るエンジン音と甲高いエキゾーストノート、それと自分の呼吸の音だけ。



 いつの間にか、周りの住宅はまばらになり、徐々に空き地が目立つようになってきた。

「そろそろかな」

 青年はブレーキを握り、バイクのスピードをゆるめる。そして心を落ち着け、精神を集中させた。


 ──周囲の〈力〉を〈探索サーチ〉する。


 直線距離にしておよそ五百メートル。三つの強大な力と、それから五つばかりの力。

 前者は先行した二人の少女と犬神だろう。

 後者は一カ所に集中して存在している。駆けつけた救護班の面々に違いない。五人のなかでもひときわ反応が強いのは、救護班の班長なのだろうか。

 だが、今必要なのはそちらの情報ではない。

 反対の方向に約二百メートル。ただ一つだけポツンと、しかし間違まごうことなき強大な力の源が感じられた。


 ──そこか。


「もう、逃がさないよ」

 ヘルメットの中で、ぼそりと呟いた。進行方向を目標へと向け、再びアクセルを開く。

 ひときわ高くエンジンをふかせ、青年は追跡の最終段階に入った。


 数秒後、青年は前方に目標と思われる男の姿を発見した。先ほど認識した位置に、ぴたりと一致する。そしてさらに、男の体から放たれるどす黒いオーラが、彼が犬神の術者であることを、何よりも確かに物語っていた。

 男は空き地の草陰で、体を丸めて地面に転がっていた。両肩をかきいだき、体中をぴくぴくと震わせている。

 青年は、先ほど言いそびれた言葉を、頭の中で反芻した。


──犬神の術者は、発動時に多大な苦痛を強いられるんだよ。


 青年はバイクを停車させ、ヘルメットを脱いだ。そして、それをバイクのシートの上に置くと、横になったままの男にゆっくりと歩み寄っていった。

 男は青年が近づくのに気づいたのか顔を上げ、血走った目を向けた。食いしばった歯の間から、うなり声がもれる。

 青年は、男が何か行動をとるより前に、すっと右腕を肩の高さまで上げ、一言。

「The Raise of Gravity(重力増加)」

 青年の言葉が終わるか終わらないかのうちに、男の体はずん、と地面にはりついた。

 青年はその場にしゃがみ込み、男の耳元にささやきかける。

「今、キミの体には、通常の二倍の重力が働いているんだ。抵抗を止めて、おとなしく観念した方が身のためだよ」

 だが、男は体にかかる負荷にも、術の発動による激痛にも耐え、震えながらも上半身をおこして膝をつく。そしてあろうことか、青年に食らいつこうとまでする。

 青年はため息をついて立ち上がり、再び口を開いた。

「Double(倍加)」

 男の体が、ぐらりと傾いだ。四倍の重力。

 それでもなお、男は術を解く気配もなしに抵抗を続ける。

「Redouble(さらに倍加)」

 合計で八倍。

 ここまできてようやく、男の体は糸の切れた人形のように、ばたりと地面に倒れ伏した。

 常人ならば、とうに限界を超えている。能力者と言えども、さすがにこれ以上は命にかかわる。

 青年は懐から黒光りする手錠を取り出し、うつ伏せになっている男の両腕を、後ろ手に拘束した。

 と同時に、今まで男の体から吹き出ていた真っ黒な〈力〉の放出が、一瞬で断ち切られる。

 対能力者用の特別製だった。手錠を外さない限り、彼は二度と術を使うことは出来ない。あの二人が戦っている犬神も、おそらく今ので消えたことだろう。

 目標確保の連絡をとるために、青年はジーンズのポケットから通信機を取り出した。


 その時だった。


 男の体が、突然倍ほどに膨れ上がったかと思うと、次の瞬間、あっけなく爆発した。

 ──そう、体の内側から爆発したのである。

 千切れた皮膚や肉片、砕けた骨、飛び散る血はすぐさま強大な重力にとらわれ、固い地面の上で沈黙した。

 見るも無惨な肉塊は、さながら踏みつぶされた完熟トマトのようだった。

 青年は、ただただあっけにとられていた。何が起きたのかも分からない。先ほどの自分の力で、このような現象が起きてしまうわけがないのである。

 術を解く暇すらない、あっという間の出来事だった。


 しばらく呆然としていた青年は、漂ってきた血のにおいでふと我に返り、そして瞬時に冷静さを取り戻していた。

 この切り替えの早さ、さすがは班長だと言うべきか。

 とりあえず、拠点に残っている仲間に連絡をとることが先決である。青年は手に持った通信機の発信ボタンを押した。

『宇田さん、どうかされましたか?』

 数秒おいて、スピーカーから少年の声が発せられた。

「東雲クンだね? 目標と接触、捕縛に成功したんだが、少々面倒なことになってね。第六支部へ連絡して、該当地区の封鎖と特殊処理班の出動を申請してもらいたいんだ。地区封鎖を優先して頼むよ。現在地は、今から送るから。あ、それから……」

 すこし言葉を切って、

「──それから、第十二班は全員、帰還して待機しておくように。彼女達にも、そう伝えておいてくれないかな。すでに戦闘は終了してるだろうからさ。間違っても、この場に来させちゃいけないよ。いくら何でも、見せられたものじゃないんだ」

『はい、了解しました』

「私はこれから、現場処理があるので帰れないと思う。十時を過ぎたら、今日は解散してくれていいよ。夜勤は不要だからね。第六支部の連中が、今日は変わりに警戒してくれるだろうからさ」

『分かりました、お気をつけて』

 通信を終えて、青年は大きくため息をついた。見る影もなくなってしまった男のなれの果てを横目で見つつ、青年はあごに手をやった。

 意図の組めない襲撃。

 あまりに唐突な、術者の死。

 そして何よりも、何故、今、犬神なのか?


 ──不可解な事が、多すぎる。


「気のせいだったら、いいんだけどね……」

 静かに呟いた言葉は夜風にさらわれ、夕闇の空にはかなく消えていった。

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