06 Little by little one goes far.
06 千里の道も一歩から
それからそれから。
紆余曲折があった食事も何とか終えて、シゲが淹れてくれたお茶を飲んでいる間も、彼はせかせかと動いていた。食べ終わった食器を洗って拭いて、食器棚に戻してくれるところまで完璧にそつなくこなす。
私も手伝うと言ったけれど、すぐに済むから休んでいてという言葉に甘えて、録り溜めていたバライティ番組を見ながらお茶をすする。本来男女逆の立場であるはずが、シゲに至っては抵抗がないようで正直言ってありがたい。
オッサン化してる自分に呆れつつも、煩いバライティの司会者と一緒に笑っていると、手を拭きながら洗い物を終えたシゲがやってくる。
じゃあ次は、と彼が取り掛かったのは私が寝ていた寝室の掃除。
入った途端に「やっぱり汚い」と遠慮のない現実を突きつける言葉にグッと言葉を詰まらせる。
再生していた番組を停止して寝室を覗き込めば、相変わらずてきぱきと動くシゲがいたけれど、眺めていると案外面白いことに気が付いた。
基本的に掃除中のシゲは無言で無表情。
黙々とフローリングに落ちている衣類をハンガーに掛けたり、棚の上にあげたりと動いているけれど、時々自分が着になるものを発見した途端にピタリと動きを止める。主に放置された美容グッズだったり健康グッズだったり。
用途が分からずくるくると手の中で回転させ、覗き込んでる私に手の中にあるソレの正体を尋ねてくる。使い方を説明するとすぐに試してみるけれど、すぐに興味を無くして棚の上。そうして次に持ってきた物に興味を示し、同じように使ってみると今度はお気に召したらしい。
それを片手に動かしながら掃除し始めたのを見て、私が思わず吹き出しそうになりながらも「気に入ったならあげるよ」と言えば「いいのか?」と嬉しそうに笑うのだ。
本当、可愛い人だなぁって。
あとちょっと天然入っているなというのも新発見の一つ。
ようやくフローリングに直置きされている物がなくなった途端、掃除機をかけ始めたのだけれど、小顔効果のあるローラーをコロコロと自分の顔に当てながら掃除機をかけていたものだから、足元まで見ていなかったみたい。あっ、と思った時には掃除機の線に躓いて、プラグがコンセントから抜けてしまった。
「やべっ、壊した……」
カチカチと掃除機の電源を連打するシゲは、どうやら原因に気付いていないらしい。スッごく焦っているものだから、堪えていた笑いを吹き出してしまいながらもプラグが抜けている事を伝えると「あ、ホントだ」と本気でホッとしたようにプラグを挿入していた。
もう、本当に面白い。
何はともあれ淡々と続けるシゲの周りを私はうろちょろしながら観察し――時にはお手伝いしながら会話を交えて進めた寝室の掃除は、思ったよりも時間が掛からないうちに終了した。
「わぁっ! 黄ばんでないシーツとか、ちょー気持ちいー!」
思わずベッドにダイブしながら笑えば、シゲは「それが普通」と呆れた様子で私を見る。掛布団のカバーもよく替えがあったなぁと感心しながら、その気持ちの良い感覚をもふもふと堪能していると、掃除機を片付けてきたシゲがいつの間にか傍らで、ベッドに寝転ぶ私を見下ろして微笑んでいた。
「あ、シゲ。何から何までありがとうね!」
布団に俯せになりながらも顔だけを上げてお礼を言うと、シゲは「ん」と小さく答えるだけでそれ以上は何も言わない。何か様子がおかしいかもしれないと気付いた時には、ここが寝室で時刻はもうすぐ新聞配達がやってくる頃になっていることに気が付いて。
……えっと。
掃除はした。お風呂も入った。ご飯も食べた。……ということは?
「ナツ」
消去法で次の行動を模索していた私に、シゲが覆いかぶさるようにして倒れこんでくる。
ビクッと思わず体を震わせながらも体を反転させられた私。
……残るは寝るんですよね、きっと。
けれど、寝るってどっちの意味でだろうかと内心すごく焦り始めた。
どうしよう。
結婚する流れにはなったし、そういう関係になってもおかしくないことは分かっているけれど、さすがに心の準備ができていない。
振られたばかりの時の方が、まだ大胆になれたかもしれないのにと余計な事を交えながらもどういう態度を取るべきか焦り始めていると、寝そべる私の顔を挟むようにベッドに両手をついて覆いかぶさっているシゲの顔が徐々に近づいてきた。
「ナツ……俺、限界……」
艶めかしい言葉遣いに、ドクンッと心臓が高鳴った。彼が次に起こすだろう行動に備えて思わず目を閉じると、全身にシゲの重みが被さった。しかし、いつまでたっても降ってくると思っていたキスがない事に気が付いて、恐る恐る目を開けると覆いかぶさったシゲの顔が私の方に埋まっていた。
「もう無理……すげぇ眠い」
……っ! ですよね! ですよねっ!
この時間まで起きてるとさすがに辛いですよね! 仕事が終わって大掃除なんて肉体労働させちゃいましたし! 一度睡眠を取った私なんかより断然眠いですよね!
うっわ、もう羞恥で泣きたい!
期待して本当にすみませんと謝り倒したくなるくらい、彼が疲労困憊していたのを知った私は、とりあえず耳元で寝息を立てはじめていたシゲの下から這い出る努力をする。もぞもぞと動いたのを察したシゲが、ごろりと体を反転させて私の上から退いたけれど、うつらうつらしている瞳はこれ以上開かない様子。
やっと自由の利く体を起こしてベッドの上に正座すると、掛布団の上に横たわったシゲを見て尋ねた。
「シゲー。メガネ外すよ?」
「んー……」
一応了承を得てからシゲの顔に掛かったままのずれた眼鏡を外すと、ベッドの頭上にある出窓にそれを置く。
もう一度シゲを見ると、眼鏡を外した寝顔が視界に飛び込んできて、無意識に頬が緩んだ。
「シゲ、お布団入ろ? 風邪引いちゃうよ?」
遠慮がちに肩に触れてゆさゆさと揺らすも、彼の口からは「んー」と曖昧な答えしか返ってこない。これは本格的に寝出したなと思いつつベッドから飛び降りると、シゲの下敷きになっている掛布団を何とか引っ張り出して彼の上にかけることに成功した。
ポンッと満足気に私がもこっと膨らんだ掛布団を軽く叩くと布団の中に潜ったシゲの片手がにゅっと伸びて出た。
何かを探すようにぺしぺしと布団を叩く片手に答えるように私が手を差し出せば、シゲの片手が私の手首を掴んで全身を布団の中に引きずり込んできた。
「ぎゃっ!」
突然の事に思わず品のない声をあげるも、ようやく気づいた時にはシゲの両手がガッシリと私の背中に回されてホールドしている。
オマケにシゲの長い片足が、布団の中で私の両足を引き寄せると自然と私の顔が彼の胸元に埋まったのだ。
「はぅっ……苦しっ……」
布団の中で酸素を求めて顔を上げれば、うっすらと目を開けたシゲが満足そうな表情を浮かべているのが目に映る。
「……シゲ、ちょっ、離して」
「だぁめ」
そう呟きながらクスクスと小さい笑みを漏らしながら目を閉じてしまったシゲに、私はもう一度抗議した。
「シゲ、電気消さなきゃ……」
もちろん、離してほしい言い訳に過ぎなかったけれど、シゲは私の言動がわかっていたのか、私の背中に回していた片手を持ち上げて頭上を手探りすると、ピッという機械音と共に電気が消える。
リモコン、そこにあったのかという驚きと同時に、用意周到過ぎるだろうという言葉を呑み込みながら私はとうとう諦めて。
恥ずかしながらもシゲに気づかれぬよう静かに息を吐くと、彼の手が私の髪を撫で始めた。
改めて感じるシゲの温もりは狂おしいほど優しいものだった。
私を抱きしめて離そうとしない両手は苦しくないように力加減がちゃんとされている。すっぽりと覆われてしまうほどの体格差があるにしろ、恐怖心なんて一つもなくてむしろ安心感を覚える。
スース―と頭上から聞こえ出した寝息を聞いて、ホッとしてしまったのに悪い意味はない。
広く厚い胸板に額を寄せて、私は静かに目を伏せた。
「……ありがとう」
小さくつぶやいた感謝の言葉。たとえ彼に届かなくても言い足りないくらいのそれを口にしただけで、幸せに包まれた感覚。明日目覚めた時も、この温もりが傍に在ってほしいと願うのは、傲慢すぎる私のワガママだろうか。
今だけでもいい。
この温もりがあれば私はまだ頑張れる。
確証のない未来を馬鹿みたいに信じながら、静かに夢の世界へと身を投じたのだった。
◇◆◇
チュッというリップ音が目を覚ます合図だった。
「ん……」
と思わず声を漏らせば、フッと誰かの微笑む声が聞こえた気がして、ゆっくり重い瞼を持ち上げる。ゆるゆると光が差し込んできた視界に映ったのは、満足気な笑みを浮かべるシゲの顔だった。
「……おはよ」
甘い恋人に告げるような挨拶の言葉を耳にしたけれど、未だ覚醒しない頭が現実を必死に手繰り寄せようと努力する。
「……おは、よ?」
思わず返事はしてみせたものの、なぜ彼が目の前に居るのだろうという自分の状況を思い出すのに必死だった私が、体に巻きつく彼の両腕に気付いたのは次の瞬間で。
「あ……」
ようやく昨日の出来事を思い出した私が視線を漂わせると、シゲはもう一度クスリと口元に笑みを浮かべて私の額にコツンッと自分の額を寄せてきた。
「可愛いなぁもう」
たまらないと言った様子で呟かれた言葉に「何が?」と聞き返す間もなく唇が静かに塞がれる。
はむっと啄むように一瞬だけ触れ合った唇に私が驚いて今度こそ目を覚ますと、シゲは相変わらず楽しそうに笑いながら次第に噛みしめるようにクククッと笑って見せた。
「ナツ……お前、寝相悪すぎ」
「へぁぇっ?」
唐突な話題に変な声をあげてしまえば、それがますますシゲの笑いを誘ったらしい。あははっと全身を震わせながら笑ったシゲが、寄せた額をすりすりさせながら教えてくれた。
「目が覚めたら抱きしめて寝たはずのナツが居ないし。探したらベッドの端っこで片足落として寝てんだからこっちはビックリしたよ」
突き付けられた事実に思わずうぐっと言葉を詰まらせる。
自分の寝相の悪さは理解していたものの、他人にそれを指摘されるとやはり恥ずかしいものがある。むしろベッドから落ちていたのが片足だけだったのはまだいい方なんだと言い訳するのは言い訳にならないだろうなと思いながらも恨めしくなってシゲを思わず見上げて睨む。
するとシゲは顔をくしゃりとさせたまま「馬鹿」と言った。
「そんな寝ぼけ眼な顔で睨まれても別の方向に効果があるだけだ」
そう言ってシゲはもう一度私の唇を吸い寄せて。
「あー……もう。なんでそんな可愛いんだよお前」
悔しそうに、でも嬉しそうに吐き捨てるように言ったシゲは
その言葉をきっかけに雨のようなキスを私に降らせた。
最初は啄むように何度も何度も短いキスを。
次第に角度を替えて少しずつ時間を長くしていく。
はふっと呼吸を求めて薄く開いた私の唇に、とうとう彼の舌が侵入してきた。
ビクンッと全身が痙攣したように反応して硬直する。
緊張した私の体をほぐすように、彼の両手が私の背中を中心に体をまさぐり始める。
熱い舌が私の舌を絡め取ると、ぴちゃりと音を立てながら口内を犯し始めた。
シゲと初めてのディープキス。昨日から触れるだけのキスは何度もしたけれど、こんなに深く求められたのは初めてだ。
くちゅり、と濡れた音が耳に届く。
いつの間にか閉じた瞼を何度かうっすらと開けようとするも、深追いしてくるシゲの舌に集中させれられるように無意識に閉じるを繰り返す。吸い寄せられた舌が私の口内から飛び出してシゲの口内へと侵入する。呼吸ができない苦しさから何度も離れようと試みるも、結局は捕まって新鮮な空気はまだ取り込めそうもない。すりすりと背中を撫でていたシゲの手が、脇からゆっくりと私の服の中に侵入してきた。
吸いつくようにシゲの指先が私の背中を直に撫でた。こそばゆさと同時に感じた温もりと快楽がつま先に力を込める。くんっとシゲの膝が私の足の間に割って入ると、そのまま彼の太ももが下半身を刺激した。
「っん!」
耐えられなくなった私が思わず声を漏らしたと同時に、シゲの唇がようやく私から離れた。
はぁはぁと足りない酸素を補いながらも虚ろな視線でシゲを見上げれば、彼は苦虫をかみつぶしたような表情で私を見つめている。
「……あー……駄目だ」
自制するような言葉に私が呼吸を整えながら「何?」と言った視線を向ければ、彼は察したように苦笑して私の服の下から手を出すと、そのまま髪を撫でてくれた。
「これ以上は無理。足りないけど満足しとかなきゃ本気で止まらなくなる」
ようやく彼が理性と戦って理性が勝利したことを悟った私が、思わず顔を真っ赤にさせながら「馬鹿」と言えば、シゲはまた顔をくしゃくしゃにしながらギュっと私を抱きしめて。
「だから、そういう顔すんなって。人が必死に理性かき集めて我慢してんだからあおるなよ」
「あ、あおってなんか……」
「無自覚とか余計タチ悪ぃな」
そう言ってわしゃわしゃと私の髪を撫でまわしたシゲだったけれど、抱きしめられた時に腹部に当たった熱を帯びたソレに私が気づかないはずがない。
「……っ! ナツ!」
勢いよくがばっと跳ね起きたシゲの行動に私がビックリした。
「どこ触ってんだっ!」
珍しいくらい声を荒げて怒ったシゲの言動に、私は上半身を起こしながらオロオロと視線を漂わせる。
「ご、ごめ……だって、辛そうだったからっ……」
皆まで言わずとも成立する会話。
つまり、そういう行動を私が起こしたということで。
謝罪したものの言い訳をしたのが悪かったのか、シゲがグッと息を呑んだかと思えば次の瞬間にはありありと深いため息を吐きながら片手で自分の顔を覆った。
「頼むから……そういうことは気にしないでいい……いや、嬉しいには嬉しいけど」
どうしたもんかと言いたげなシゲ。
余計な事をしてしまったと私がしゅんっとうなだれていると、シゲは何とも言えない複雑な表情を浮かべながら顔を覆っていた手で私の頭を撫でた。
「雰囲気に流されるのも悪くないけど、俺はナツとちゃんとしたいんだ」
「わ、私は別にっ――」
「ナツ」
自分の意見を示そうと口を開いた私の言葉を、シゲは名を呼ぶことで静止した。その表情にハッと気づいてしまったのだ。彼が何を言わんとするかを。
まだそういう関係になりたくないと言っているわけじゃない。彼は私を思って言ってくれている。
婚約者に振られた昨日の今日で別の男性と関係を持つのは別に悪い事ではない。振られたのだから二股ではないし不貞行為でもなんでもないけれど、それでも彼は私の体裁を考えてくれているのだと思えば嬉しかったし、自分の行動を恥じるべきだ。
「ごめんなさい……」
消えてしまうほどか細い声で顔を真っ赤にしながら謝罪をつぶやけば、シゲはようやく考えを理解してくれたと察したらしく、ふっと笑ってくれた。
「俺こそごめん。がっついたクセに俺が言うべき事じゃなかった」
素直に謝ってくれるシゲの優しさが痛いほど身に染みた。
シゲが与えてくれた優しさが無駄にならないよう、ぶんぶんと首を大きく横に振りながら否定するとシゲはほっとした表情を見せてくれて。
思わずふにゃりと顔を泣きそうになりながら歪めてしまったけれど、ぐっと堪えて彼の指先を握りしめる。
「でもね……そのっ……嬉しいんだよ?」
せめて彼が嫌な気持ちにならないよう、自分を責めないように言葉を選びながら素直な気持ちを並べると、彼の瞳が次第に大きく見開かれていく。
「私っ、シゲに触れてもらえて嬉しい……時期とか関係なくっ……シゲが私の事を求めてくれるように、私も……シゲの事、求めてる事……忘れないで……?」
その場しのぎなんかじゃなくて、シゲだから触れてほしいと思っている、そんな私の浅はかな気持ちまでは否定しないで。
一過性のスキンシップじゃなくて、たとえ形式的な結婚をするかもしれないけれど。感情が大きくシゲに傾いているのを知ってほしい。
救われたからじゃない。
でも好きかどうかと言われても分からない。
ただ確実に自分の中ではすでに大きな存在になっている貴方に、私を受け入れてほしいというのはワガママすぎるだろうか。
必死に襲い来る羞恥と戦いながらも伝えた初めての告白に似た感情。
右往左往させていた視線をゆるゆると彼に向けると。シゲが思った以上に顔を真っ赤に染めていたから、今度は私が驚く番だった。
「……鼻血でそう」
鼻を押さえて俯いてしまった彼に、私は唖然とし続けた。
シゲ……見事なシリアスブレイカー振りだよ。




