05 Let sleeping dogs lie.
05触らぬ神に祟りなし
ふと、着信音らしき音楽が鳴り響いたことに気がついた。
時計の針は先ほどからあまり進んでいないにしろ、夜中の三時半を告げている。こんな夜遅くに誰だろうかと首を傾げていたけれど、よくよく聞けば私の携帯の着信音ではないことに気が付いた。
「悪い、電話だ」
どうやらシゲの携帯らしい。
その一言で私は素直に彼の上から退いて、照れくささを隠しながらテーブルの上を見る。
そういえば食事中だったと思い出すタイミングで、シゲが立ち上がって部屋の隅に置いていた自分のカバンに歩み寄っていったのを視線で見送った。
すっかり冷めてしまった遅すぎる晩御飯だったけれど、あと少しで食べ終わるのだからと自分に言い聞かせながら落とした箸を洗う目的で私が立ち上がる。と同時に鞄から探り当てた自分のスマートフォンのディスプレイに視線を落としたシゲがチッと舌打ちしたのを聞いて、思わず二度見してしまった。
電話に出る事なくスマートフォンを睨むように見つめたまま立っているシゲの姿に、私が首を傾げたのは仕方がないと思う。一向に鳴りやまない電話にしびれをきらせたように、シゲはもう一度舌打ちを繰り返してしぶしぶと電話に出た。
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」
『ナル! 大変なことが起きた!』
「黙れ。使われてねぇっつってんだろ」
『そんな野蛮な音声案内聞いたことがない!』
「……お前、こんな真夜中に電話してきて謝罪のひとつもなしか?」
さっきまでのシゲとはまるで別人のような態度に、私は箸を握りしめたまま茫然と立ちすくむ。そう言えばこの人、口が悪いんだったなと思い出しながらも、今までの態度が私専用だったらしいと悟って思わず優越感に浸る。
……それにしても、電話相手の声が私にまで聞こえるってすごいな。
酷く慌てた様子だったし、こんな夜中に電話をかけてきたのだからそれこそ一大事だったのだろうと、これ以上立ち聞きするのも悪い気がしてキッチンへと向かう。
目的だった箸を洗って、ついでに熱くなった瞼を冷やすための冷却パックはなかっただろうかと冷凍庫を覗き込んでいると、部屋の中から怪訝めいたシゲの声がここまで聞こえてきた。
「それ相当の内容じゃなかったらぶっ飛ばすぞ」
……過激な会話してる。
日常会話にしては野蛮だなと思いながら、目当ての冷却パックを手に取って戻れば、電話越しに聞こえてきたのはかなり切羽詰った男性の声だった。
『さっき妹から電話があって、交通事故にあったらしくてなっ! 人を轢いちゃったって泣きながら電話してきてっ! 示談金用意してくれって言われたんだけどどうしたらいい!?』
えっ、それどっかで聴いたことある気が……。
私が既視感に襲われていると、問答無用なシゲのツッコミが入った。
「……お前、妹いたっけ?」
シゲが冷静にそう言うと電話の向こうはしばらく沈黙し、それから「あっ」と声を上げて叫んだ。
『詐欺っ!?』
「やっぱりお前ぶっ飛ばすわ」
ですよねー。
シゲの主張はもっともだわと思いながらも会話の邪魔にならないよう静かに行動をする。クローゼットの下にある引き出しを漁ればタオル類が整然と並んでいて思わずシゲを拝みたくなる。
全部洗濯してある。ありがたい。この時間で乾いて陳列されているくらいだから、コインランドリーを利用したんだろうなと、あとでシゲに支払う金額を脳内の電卓をたたきながら計算していると、背後で行われている会話はまだ続いている様子で。
「切るぞ」と丁寧に予告するシゲに対し、電話相手は「待て待て」と再び呼び止めている。冷却パックをタオルでくるみながら自分が元居た場所に戻って座り込む。片目にそれを当てながら今一度箸を進めれば、冷えたご飯でも充分美味しく食べられるシゲの手料理に再び舌鼓を打った。
「まだ何かあるのかよデブ」
あ、相手の人は太った方なんですね。
『俺はただのデブじゃないぞ! ……悪意のないデブだ』
え。
「……じゃ、おやすみ善良デブ」
シゲ、酷い。
『ナル……俺のこと嫌いだろう?』
……ナル?
「今更気づくなよ。じゃあな」
『あーっ! 待った! お前、今何処なんだよ?!』
電話相手が喚き散らすように問いただした内容に、シゲも私も思わず言葉を呑み込んだ。
ドキリとしたのはもちろん、シゲがなんと答えるのか気になったからだ。ここで隠すべきか否かを問うように私をチラリと見たけれど、答えを持ち合わせていない私は肩をすくめるしかない。私から回答を得られなかったシゲが少し困惑した様子だったけれど、すぐに気を取り直して電話の相手に伝えた。
「……つーか、なんでそんな事聞くんだよ」
あ、そう言えば確かに。
うまい切り替えしを見つけたなと思いつつ箸の先で肉じゃがをつつけば、電話の向こうから驚きの事実が聞こえてきた。
『今さぁナルのマンションの前なんだけど、居ねぇし。お前どこに居るわけ?』
「お前……そのくだらない詐欺の話するために、こんな真夜中に……?」
シゲのこめかみに青筋が浮かんだ気がした。ピクリと動いた眉は間違いなく苛立ちを表していると思う。そりゃそうだよね。それって要するに、シゲが寝ていても起こす気満々の行動って事だし。
それにしてもさっきから電話相手が呼ぶナルってシゲの愛称か何かかしらと口に含んだ肉じゃがを咀嚼しながら首を小さく傾ける。なんだか聞いたことがあるようなないようなと頼りない記憶を探っていると落胆気味の低いシゲの声が聞こえてきた。
「……いっぺん埋めてやろうか」
深々としたため息交じりにそうつぶやきながら、がっくりとうなだれてシゲが目元を手で覆ったものだから同情してしまったのも無理はない。電話越しのシゲが沈黙したのを不安に思ったのか、相手が静かにまたシゲの愛称らしき名を呼んだ。
『ナル?』
「いや、悪い……完全犯罪の計画を企てていた」
『俺のために詐欺集団を?! ナル! お前なんていい奴な――』
あ。電話切っちゃった。
明らかにイライラしているシゲが可哀想に見える。酷く疲れたような落胆したような様子を見せるシゲに「変わったお友達だね」とフォローめいた言葉を投げかければ、シゲは不快そうに「着拒しとくべきか」と真剣に悩み始めていたのでこれ以上のフォローは難しいと判断する。
ごめんね、変なお友達。私には無理だわ。
と即刻フォローを諦めて見知らぬ相手を切り捨てると、立ちすくむシゲの手で再び着信を告げる音が鳴って。
『計画が順調に進んでいるところ申し訳ないが、友人としてやはり殺人は止めた方がいいと――』
「てめぇ……」
シゲ……貴方、偉いわ。そういう相手でもちゃんと電話に出てあげるとか。
誰かどうにかしてくれと言わんばかりにシゲが苛立ちを露わにしていると、唐突に紡ぎ出された電話相手の声に私は口に含んでいたご飯を吹き出しそうになった。
『なぁ、俺、会社から帰るときに変な噂聞いたんだけど、お前、広報営業の主任と付き合っているってマジか?』
「は?」
ぎゃー! それ、私だっ!!
やっぱり噂になってたっ!!
ごほごほと私がむせだしたのを聞いて、シゲが驚いた顔で私を見る。電話の向こうが「誰か一緒に居るのか?」と尋ねてくるものだから、シゲは私に意識を向けたまま電話相手に「ああ」と告げる。
途端、電話の向こうでそれを聞いた相手が息を呑み、次の瞬間には「裏切り者!」と叫んだのだ。
目の前にあった失恋が程よく解決の糸口を見いだせていたのに、そっちの方は何一つ着手していなかった。はっきり言ってシゲの唐突な出現により――と言っても私が巻き込んだのだけれど。とにかく噂の方面に関してはおざなりになっていたのは否めない。手に持っていた冷凍パックを包んだタオルで口元を覆いながらごほごほと気管支に入っていた異物を吐き出そうと咳き込んでいると、シゲがスマートフォンを乱暴に投げ捨てて自分に歩み寄ってくる足元が見えた。
「ごほっ……ごめ……さい……ちょっと動揺し、ごほっ……」
むせながら謝罪する私に対し、シゲは真横にしゃがみこんで私の背中をさすってくれる。過保護なくらい甘やかされているのをなんとなく自覚しながらシゲを見ると、彼は何とも言えない面持ちで私をジッと見つめていた。
「けほっ……ごめん。もう大丈夫」
自分の無事を伝えれば彼は「そうか」と呟く。
「電話。大丈夫だったの? 途中だったような……」
「煩いだけだったし電源切った。週明けには会社でまた会うんだし」
あ、そうか。噂を知ってるってことは電話相手は会社の人だったのかと納得する。
「同じ部署の人?」
「同僚。つーより腐れ縁で中学時代からの幼馴染みって言えばいいか」
「中学時代? 随分と長い付き合いね?」
思わず聞き返せば彼は大層不機嫌な顔をしてケッと吐き捨てるように言った。
「あれで人見知りが激しい多汗症とか詐欺だろ。なのに恋人が欲しいだの結婚したいだの毎日喚くな。まず身なりを整えろデブが」
「……嫌いなの?」
「少なくとも好いてはいない」
きっぱりとそう言いながらふんっと鼻を鳴らすあたり、本当に嫌なのかなとさえ思っていたけれど、中学時代からの縁を切るに切れないのは実は仲がいいのだろうという結論に達した。
「それよりも大丈夫か? アイツが言っていた広報営業の主任ってナツの事だよな?」
急に私を現実に引き戻した質問に、私はウッと言葉を詰まらせるも素直にコクンッと頷いてみせる。急に押し寄せてきた不安を視線に乗せてシゲを見れば、彼は私が思っていた反応とは全く異なる表情を浮かべて「へー」と呟いた。
「その年で役職付いてるのか。すごいな」
まさか肩書きをお褒めに預かるとは思ってもいなかった私は、何と言えばいいかわからず「どうも」と歯切れの悪い会話をする。これで営業職だと言うのだからもう少し自分の会話力を是非向上させたいものだと現実逃避してみたが。
「となると、思ったより話がデカくなりそうだな」
ポツリと呟かれたシゲの言葉にガックリとうな垂れたのは言うまでもない。
私が本社勤めになったのは三年ほど前で、それまでは支社の営業部に所属していた。今となっては広報に関する仕事のため、頭を下げる先は企業に変わったけれど、以前務めていた支社はエンドユーザー直結型の住宅販売だ。とある事情から引き起こした事件をきっかけに本社への異動が叶ったけれど、あれは今でも思い出したくない私の黒歴史。結果として自分の評価を上げることにはなったけれど、他人を貶めて成り上がった私の評価は本社に来た当初こそ決してよろしいものではなかった。
通称《下剋上事件》。
当時、勤め先に後から異動してきた上司が年功序列、男尊女卑主義者で営業トップの成績を収めていた私にパワハラを働いていた。しばらくは静観をしていた私だったけれど、これ以上は無理だと自分のボーダーラインを越えたあたりで上司の仕事をすべて横から掻っ攫ったのだ。
私の事情を知っている人からしたら因果応報だと、一矢報いた私を手放しに喜んでくれたけれど、その成果を上げたおかげで本社勤務となった矢先に飛び込んできたのは本社の人間はそう思っていないという事だった。
――上司の仕事を横取りしたって。
――怖い女だな。どうせ上司に体開いて本社勤務になるように強請ったんじゃねぇの?
――俺らも仕事取られないようにしないと。
――あの体格だもの。一部のマニアには相当ウケるんじゃない?
あの半年間は本当に地獄だった。
本社の連中がこの程度なのかと絶望さえしたけれど、結局私は本社営業部では腫物のように扱われ、それを見かねた上司が本社内で異動を進めてくれたのだ。
『支社で起こった事はちゃんと報告を受けている。上司の仕事を横取りしたとはいえ、上司を上回る好条件の案件を施主に提示し、施主も君の案件を取っただけのこと。君の仕事は正当とは言い難いが間違いなくお客様を喜ばせる才を持っている。が、うちの連中はそう思わなかったらしい。才能というのは羨望されるか嫉妬されるかの二つに分かれるものだ。今回は妬みに感情が偏った連中が多かったようで、これは上司としての責任でもある。君の持つ営業の才能をここで摘むのは会社としても不本意な事だ。他の部署でも営業はできる。少し武者修行だと思って広報営業の方へ行ってみないか』と。
周囲からの理解は得られなかったけれど、その時ほど上司に恵まれていると喜んだことはなかった。ちゃんと私の仕事を評価してくれる事が嬉しかった。同時にそんな上司の気持ちを煩わせている自分の存在が疎ましくもあった。だからこそその提案に二つ返事で了承したけれど、今となってはいい判断を出来たと自分で思っている。
変なプライドを持ってあのまま営業部にかじりついたところで、私の精神はモチベーションを保てないままズタズタになっていたと思うし。
ようやく落ち着いた広報営業部は営業部と違って穏やかな雰囲気で私を迎えてくれた。下剋上事件の事も耳に入っていたらしいけれど、ちゃんと報告に上がっていた情報を真実と受け止めて「凄いな」と素直に評価してくれる人もいたし、「やり過ぎだろ」と笑ってくれた人もいた。
落ち着いた環境で仕事ができるようになって、内容も意外と私に合っていた事も幸いし、広報営業部に異動して二年目には今の肩書きをいただくまでになったのだけれども。
「……やっぱり仕事、辞めなきゃかなぁ……」
悲しい現実とようやく向き合った私が落胆しながら零せば、シゲの眉間に深いしわが刻まれた事に気づかなかった。
これが初犯であればまだ情状酌量の余地ってものもあったかもしれないけれど、下剋上事件という前科を持ち合わせているためこれ以上会社の秩序を乱すような人間をそのままにしておくはずがない。
となれば、さっき交わしたばかりのシゲとの約束もなくなる訳だよね。と、確認の意味を込めて視線を向ければ、シゲは出会いがしらに見せていた不愉快であると自身の感情を思い切りむき出しにした表情を浮かべて視線を遠くに向けていた。
「……あの、シゲ?」
あまりにも恐ろしい雰囲気を醸し出す彼に声を掛ければ、シゲはハッとしたように我に返って私を見る。それから何を思ったか次の瞬間には穏やかに微笑んで、私を落ち着かせるように頭を撫でてきた。
「この件については、俺にすべて任せてくれないか?」
唐突に提案された言葉に私が「へ?」と間抜けな声を上げれば、シゲは自信満々な笑みを浮かべているだけで。
「ナツの悪いようには絶対にしない。少し沙汰があるかもしれないけど、ナツから仕事を取り上げるような真似だけは絶対にさせないから」
シゲの言葉は何だかとても説得力があった。
具体的な解決策を出されたわけでもないけれど、仕事を辞めるより小さな沙汰で済むのであればそれに越したことはない。何よりようやく紡ぎ始めたこの人との縁は切れないんだと思った瞬間、なんだかほっとした気持ちになったのだ。
強い意思を秘めたシゲの言葉に、私が力なく頷けば彼は満足そうに私の頭をぽんぽんと警戒に撫でて、それから視線を外すとニヤリと何かを企てるような悪戯っ子のような笑みを浮かべた事に、思わず私の頬がひきつった。
「あー……楽しみだなぁ。アイツ絶対嫌がるだろうなぁ」
にやにやと企みを零し始めたシゲの様子を見て、少なくともその対象から自分が外れていることに安心してしまう。同時に彼の言うアイツという人物に何をさせようというのだろうかと一抹の不安を覚えたけれど、私の今後の人生のために犠牲になってくれるだろうアイツさんに心の中で合掌しながら深く謝罪したのだった。