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04 Drowning men clutch at straws.

04溺れる者は藁をも掴む

色んな感情がごちゃごちゃになってきた。


その中でも多くを占めるのが羞恥と何とも言えない居心地のよさ。


ここまで自分を求めてくれる人が傍に居るなんて、むしろ自分に都合のいい夢を見ているんじゃないかという気さえ起きる。まるで互いの心に刻みつけるように、シゲの声が何度も私の名を呼んだ。


嫌だ……違う。


流されちゃダメ。


出会ったばかりの人に何もかもを投げ出すなんてやっぱり間違っている。


シゲが掴んでいた両手を振りほどいて、自分との間に距離を保つように彼の体を押した。けれど途端に私の腰に手をまわして離れることを拒んだシゲの行動に、上半身が少し離れただけで立場は変わらない。


「なんで逃げる?」

「に、逃げるに決まってるでしょっ! やっぱりどう考えたって無理だよっ!」

「なんで?」


なんで、なんて聞き返されるとは思っていなかったから思わず言葉を詰まらせた。

自分は常識的な思考で拒否していると思っていたけれど、こうまで堂々とされてしまっては常識が分からなくなる。とりあえず落ち着こうと、シゲの胸元に両手を押し付けて距離を測りながら、深い息を吐いて冷静さを取り戻すと、シゲは納得いかない表情のまま私を見つめていて。


「私が、貴方に助けてもらった事は間違いないし、それはとても感謝しているの。だけどこれ以上は私の問題だし、シゲが望む展開は遠慮したいよ」


……そうよね? と、ゆっくり自分の考えをまとめながら冷静な口調でそう説いてみせるも、シゲの手は一向に私の腰を抱きしめたまま離さない。


彼の気持ちは嬉しいけれど、やっぱり違う。何度も何度も自分の中で否定を繰り返しながら出した答えに、彼は不服そうだった。


「ナツ」

「……な、何?」

「ナツは俺の事をどう思ってる?」

「そ、そんな。ほとんど初対面なんだから、どう思ってるとかなんてよくわかんないよ……あ、ありがたいとは思うけれど」


納得がいかないことは山ほどあるけれど、考えることでいっぱいいっぱいになるよりは、少しずつ崩して考える方がいい。少なくともシゲが居てくれたおかげで私の気持ちは荒むことなく、冷静なまでに現状を受け入れつつある。当然それは失恋という現状であって、シゲと向かい合っている今ではない。


ふぅっと深い息を吐いたのは意外にもシゲだった。


自分の髪をかきむしるように撫でて、何かを思案しながら視線を少しずつそらしていく。面白くないと言った表情で唇をとがらせているあたりは少し子供っぽくも感じられる。


「ナツにとって俺は都合がいいはずだ」


まるで確信があるようにつぶやかれた言葉に、思わずギクッとしたのは内緒だ。何を思ってそういう結論に達したのかはわからないけれど、おずおずと遠慮がちに彼の様子を見守れば、シゲはチラリとだけ視線をこちらに向けてまたソッポを向いてしまう。不貞腐れた子供そのものだ。


「傍に居てほしいっていうのは、今のナツにとって誰でもよかったかもしれない。でも部屋に入れたって事はそれだけ許容の範囲内に居ると思ってる」

「……っ」

「部屋を勝手に片づけても怒られない程度には」

「あっ……」

「勝手に風呂に入らせてもらえる程度には」

「いや、あの……」

「一緒に飯を食う程度には」

「……だ、だからっ」

「こうやって、抱きしめても嫌悪されない程度には」

「っ!」


理詰めで私の心理を追及してくる彼の言葉に容赦なんてない。いつの間にかまっすぐ向けられた視線が絡み合った。逸らせないほど熱を帯びた視線に腰が砕けそうになる。


自分の頭を撫でていたシゲの手が、私の後頭部を引き寄せた。


抵抗することもできないまま自然な流れで私は次に来る衝撃に目を閉じて、触れた唇が甘い息を吐いた。


ぱっと目を開けば、真摯な表情を浮かべるシゲの顔が間近に迫っている。


「こうやって、キスをさせてもらえる程度には」

「……っ! っ!」


思わず口をパクパクとさせるも、言葉が紡ぎ出せない。


悔しくて腹が立って、でも結局は図星ばかりを指された事にぐぅの字も出ない。


「……んでっ! なんでそういう酷いことばかり言うのっ!? そうよっ! 分かってるわよ私だって! どれだけシゲに酷い態度取ってるか分かってるのにっ! 自覚させるなんて酷いっ!」


力なく彼の胸を手のひらで押しても、今度はその距離が開くことはなかった。力なくうつむいたところで、彼が解放してくれるはずもない。


嫌だっ! こんなの絶対嫌っ!


……本当は分かってる。


全部シゲの言う通りで、私は最後の一歩だけを否定する酷い女だ。


彼が与える居心地の良さに甘えているくせに、追われていると思った途端に手のひらを反して逃げ出そうとする。でも結局はその優しさに甘えたくて完全に手放せない。


今の私にとってシゲという存在はあまりにも都合がよすぎる。


今だけじゃない――彼の望む結婚に揺れ動いた事にもシゲはきっと気が付いている。


婚約者だった。


私が失ったのは婚約者だったのだ。


仕事関係の人間に、婚約者との関係は言っていなかったけれど、近々結婚をするという報告だけはしていた。相手を聞かれてもあの人が仕事で不都合が生じるかもしれないと危惧したことで、公にするのを嫌がったのだ。

ギリギリまで伏せてほしいと言っていたから言わなかったけれど、結婚するという事実だけは周知だった。


シゲが機転を利かせてくれたおかげで、会社前での修羅場を何とか潜り抜けたものの、結婚が破たんしたという噂はきっと広がっている。その居心地の悪い職場で噂が消える75日を過ごす気力なんて、失恋したばかりの私に過ごせる環境じゃない。

75日を過ぎたところで、いつだって後ろ指を差されて「結婚間際に男に逃げられた人」というレッテルを貼られるのだ。


家事をそっちのけにして費やしたのは仕事だった。


ワーカーホリックと言われることがある意味名誉にも思えた。自分が働けば働くほど成果が見える仕事が好きで楽しくて、恋を失うのなら今の仕事だけは全力で守りたかった。


それまで失ってしまえば、私は本当に路頭に迷ってしまう。シゲが居なければ、きっと精神状態だってもっとひどいものになっていて、仕事だって手につかなかったかもしれない。

恋が人をダメにするとはよく言ったものだけれど、私だったら仕事が恋人だと言い張って越えられる想いだったかもしれないのに。


シゲのプロポーズは私にとって鴨がねぎを背負ってきてくれたような状態だ。


自分にとってこれほど好都合に事が進むなんてあまりにも出来すぎている。周囲に結婚相手を言っていないから替えが効くなんて、少しでも思った自分が腹立たしい。こんな計算高い、自分の利益しか考えていない女のどこにシゲは惚れてくれたんだろうとさえ思う。


このまま流されてもいいんじゃないかと思った自分が居たことは確かだ。でもそれじゃあ自分が許せない。


失恋して自分に好意を寄せてくれる優しい人を利用するような、そんな酷い女になりたくなんてないのに。


「全部俺のせいにしたらいい」


ジレンマに陥っていた私に、優しくも残酷な言葉を投げかけてくれた。


唇を噛みしめながらゆっくりと顔を上げれば、困ったような笑みを浮かべるシゲの顔が視界に映る。


「俺がナツをどうしても手に入れたくて、婚約者と無理矢理別れさせたんだ。強引に婚姻関係を結んでナツは仕方なく俺と結婚するんだ」


まるでそれが決定事項のように淡々と語られたシナリオに、ただ視線を伏せる事で答える。


「なんで……そんな……ホント、強引……」


悔し紛れの八つ当たりにも、シゲは「そうだな」とあっさり肯定してみせた。


「強引だと思う。それくらい俺には余裕がない」


意外過ぎるカミングアウトに私が思わず顔を上げると、彼はようやく私の表情を読み取ることが出来た事にホッとしてみせたけれど。次の瞬間には自嘲気味に笑って今度は彼が目を伏せた。


「正直に言うと、俺もなんでこんなにムキになってるのかわからない。でも、ナツがいつあの男とやっぱりヨリを戻したいって言いだすかと思うと不安でたまらない。他の男がナツを掻っ攫っていくかもしれない。そう思うと不安で、強引だと言われても今すぐにでも俺のものにしたいんだ」


これでも結構耐えているつもりだと彼は苦笑して。


無理だよ……こんな、こんなまっすぐな気持ちぶつけられて。


このまま流されてしまいたいという気持ちの方が大きく膨らんでしまうのは当然で。


視線をそらす事なくゆるゆると首を振った私に、シゲは悲しそうな笑みを浮かべて見せたけれど。


「……私……仕事辞めたくない」

「続けたらいい」

「家事なんて全然できないし……」

「俺が全部出来るから大丈夫」

「周りに……結婚するって言ってあったのよ……」

「そうか」

「婚約者に……振られたの……」

「うん」

「……なんで?」

「え……?」

「なんで……私なの……?」


それは何に対する問いかけだったかは分からない。


なんで振られたのが私だったのか。


なんでこんな私に便利すぎる好意を向けてくれているのか。


分からない。ただ純粋に、今の自分がどうあるべきかが分からない。

その意思を伝えるように再びゆるゆると首を横に振るけれど。自然とその動きは停止して、代わりに震え出したのは唇だった。


「わかんない……もう、訳が分かんないの……なんで……? どうして……?」


答えのない問いかけばかりを繰り返して、胸から込み上げてくる感情。それがやがて頬を伝って外にあふれ出すまで時間はかからなかった。


「……やだ……なんで私ばっかりこんな目に遭うの……? 普通に幸せになりたかった……だけなのに……なんで……っ」


可愛いものじゃなかったと思う。


止めどなくあふれ出す涙はボロボロと大粒になって、次第に堰を切ったように嗚咽が唇からこぼれ落ちた。


時計の針は深夜を回っている。


つけっぱなしのテレビからは小さく砂嵐の音が嗚咽に交じって部屋に充満していく。


引き寄せられた後頭部。


身を委ねるように彼の首筋に顔をうずめて声を押し殺すことが出来なくなって行く。駄々をこねる子供のように声を張り上げて、けれど彼の真新しいTシャツに涙と共に吸い取られていく。


ぽんぽんっと規則正しく背中を撫でる大きな手。


髪を何度も往復する温もり。


ずっと我慢し続けていた感情が一度に押し寄せて止まらなくなっている、あるがままの私を受け入れてくれる存在。


無言のまま私をあやしてくれる優しさの海に溺れていく。


――好きだったんだ。


こんなに泣けるほど好きだったんだよ。


辛くないわけないじゃない。


どれだけ私がやせ我慢したと思っているの。


こうやって素直に泣けないほど、貴方の前ではいい子でいたかった。


気丈で勝気で、強かな女で居たかった。


どうしてあの女性(ひと)だったの。


どうして私じゃなかったの。


私を幸せにしてくれるんじゃなかったの。


甘い夢を延々と見させてくれるんじゃなかったの。


私は貴方とずっと恋をしていたかった。


ずっとずっと貴方を好きでいたかった。


ああ――今はただ、痛かった。


心が引き裂かれそうなほど痛かった。


ねぇ。


もう、いいよね?


貴方に義理立てする必要なんてないのよね。


私は、この温もりに溺れていいかしら。


この人の優しさに、縋り付いてもいいかしら。


もし少しでも私の事を好きでいてくれたなら。


私に残された少しのプライドを守らせて。


流れる涙と共に移ろいゆく心は外面的なものより冷静に思えた。


声が枯れるほど泣いて、荒れ果てた心は少しずつ平穏を取り戻していく。


何年ぶりくらいに泣いただろうと思うほど泣いて、ぐったりとした体の重みとは反比例して心が軽くなっている。

ぐすぐすと鼻をすすって控え目に息を吐けば、自分を抱きしめていた温もりが小さく身じろぎをした。


「……落ち着いたか?」


小さく囁かれた自分への気遣いの言葉に、私は彼の首筋に顔をうずめたままコクンッと頷くことで何とか答える。


「そうか」


よかった、とシゲの手がぽんぽんっと背中を撫でた。


少しだけ気恥ずかしさに苛まれながらもゆっくりと上半身を起こせば、シゲの穏やかな笑みが飛び込んでくる。


「ははっ、不細工」

「……酷い」


本気で言った言葉ではないと分かっているけれど、むっと膨れた私に対してシゲは目尻に唇を寄せて涙を吸い上げた。

彼のかさついた唇が寄せられた片目を思わず閉じたけれど、自然と離れていく彼の顔を見て気づいたことがある。


……この人、余裕がないって言ってたのに、ちゃんと私に失恋させてくれたんだ。


他の(ひと)を想って泣いたのに、結局彼は許してくれていた。


あんなに強情なほど誰かを想う事すら否定したがったくせに。


「……変な人」

「策士なだけ」

「自分で言っちゃうんだ……それ」


くすんっと鼻をすすりながら顔を手のひらで拭えば、私の手を取って「腫れるから擦らない」と小さく叱咤してくれた。


「失恋した人の気持ちに漬け込むくらいは酷い男だという自覚はあるよ」

「……ホントだ」


気付かなかったなと零せば、シゲは私が気付いていなかった事に驚いた様子で少しだけ目を見開いたけれど。


「なんで、私なの?」


ようやく落ち着いた心で確かめる。


何度も繰り返すけれど、ここまでされる義理はないし、一目惚れされるような容姿なんて持ち合わせていない。


「……シゲの申し出は嬉しくてありがたいと思うの。けど、シゲが言った通り私には都合が良過ぎる」


こんな赤裸々な気持ちを語ったところで償いにはならない。自分の中で消化しきれない疑問を投げかけているようで、実は自己防衛に繋がっているのかもしれない。


それでも、もしシゲが私の丸ごとを受け止める覚悟をしてくれるなら。


違うな――覚悟をするのは私の方だ。


すんっと鼻をすすりながら、小さく息を呑んで。


「シゲの気持ちを利用することになる」


ね、嫌な女でしょう?


だからお願い。私から逃げて。


どくどくと自分の心臓が耳元で高鳴っているような気がした。

不安と葛藤が入り混じる中で静かにシゲの言葉を待てば、彼の親指の腹が私の頬を静かに撫でる。


「俺は……」


静かに紡ぎ出したかと思えば、伝えあぐねるように視線を泳がせた。けれどすぐに硬い意思を持った視線が私の視線と絡み合う。


「俺も……ナツを利用しているのかもしれない」


吐露された言葉は今までとは違う、優しさの含まれていない打算だった。


「俺には結婚願望がなかった。それどころか恋愛願望すらなかったんだ。一生独り身でいいと思っていたくらいに興味がなかった」


ふぅっと緊張を吐き出すようにシゲが言葉を切る。


この先を聞きたくないという恐怖が膨れ上がっていく中で、私は自分が思っている以上にこの人の言葉に一喜一憂させられていることを密かに悟る。


「ずっと逃げてきたのかもしれない。思い出す必要(・・・・・・)なんてない(・・)と、思ってたんだよ」


――何を? とは、聞けなかった。


「ナツを見て、ナツを知って……大切にしたいって思ったんだ。今度こそ(・・・・)大切にしたいって」

「……っそれって! ……それは……」


もしかして、誰かの代わりって事……?


軋む心を思わず否定した。


そんなの許さない。


今まで散々好意を示してくれていたのに、誰かの代わりと言われて傷つくなんて。私がシゲの言葉に傷つくなんて許さない。許すわけにはいかない。彼の好意を利用しようとしていた私が、傷つくなんて間違っている。それなのに、なんでこんなにも悲しく思えるのか。


「俺のワガママだ」


そう言葉を締めくくった彼に、私は「そっか」と短い返事をすることしかできなくて。


「ごめんね、肩がぐちゃぐちゃになっちゃった」


もう一度、すんっと鼻を鳴らしながら誤魔化すように言うと、シゲはふっと笑って私の髪をすくいあげる。


「ナツの気持ちが落ち着くんなら安いもんだよ」

「……シゲってホント、男前すぎて怖い」

「惚れてくれていいよ」


うわぁっ、本当、どんな状況でも自分の方向に転がそうとしてるよこの人。


あ、でも。


「そうね……惚れたかもしれない」


小さく首をかしげながら答えれば、彼は今度こそ驚いた表情で私を見つめた。


「マジで?」


何をいまさら驚くんだろうと思わず笑ってしまった。自然にこぼれた笑みにますますシゲが目を丸くした事でさらに私の中で笑いが膨張したけれど。


「掃除が出来て、胃袋がっちり掴まれて、傍に居るのに抵抗もなく当たり前なくらい居心地がよくて。誰よりも好意を寄せてくれる相手に失恋の痛手に漬け込まれたら……惚れない要素なんてないよ」


降参だよ。


この際、吊り橋効果でもなんでもいい。


彼が私の失恋を利用したように、私も彼を利用する権利はあるはずだ。

たとえそれが対等でなかったとしても、この人との関係を続けてみたいという冒険心があったのも本音。


シゲの中に他の女性が居たとしても、互いに利用しあうというのは恋愛よりも随分と現実的で理想的かもしれない。恋人や夫婦という言葉よりも、利害が一致したパートナーという関係も悪くない。

そこから始まる関係が、いったいどういう風に変わっていくのか――それとも失敗に終わるのか。人生において一世一代の大博打に挑むのだと思えば、バカみたいにわくわくもする。

平穏的な日常を送れたらそれでよかったと思う反面、こういうバカげた事に身を投じてみたいという願望は今しかかなえられない気がしたから。


「シゲが思っているよりも私はすっごく打算的で卑怯だよ?」

「それは楽しみだな」

「いつ裏切るかもわからない」

「裏切られないように努力するよ」

「……いいの?」

「いいよ。何を今更」


挑戦めいた言い方をしたシゲの言葉に、私はまるで喧嘩を買うような勢いでハッと鼻先で笑って。


「お互いの利益のために結婚なんて馬鹿げてるわ」

「絶望から始まったなら、あとは這い上がればいいだけだ」

「挑戦的ね」

「冒険心を捨てられないガキなだけ」


互いのくだらないプライドがぶつかり合った途端、笑いがこみあげてくるのは仕方がない。


「一つ、約束して」

「何?」

「互いに誠実である事。……基本的に一目惚れって信じないタイプなの。自分好みの女性に会う度にフラフラされるのはやっぱり嫌だし」

「今だって繋ぎとめるのに必死になってんのに、他に目移りする余裕なんてねぇよ」


真顔でシゲが言うものだから、ホッとしたように笑ってしまった。私の反応を見てシゲも同じ表情を浮かべてみせる。

少しだけ二人の間に沈黙が走ったけれど、恐る恐るシゲの頬に指先で触れた。彼はその指先を慈しむように頬を摺り寄せたものだから、きゅんっと胸が収縮する。

眼鏡のフレームに指が当たったところでピタリと指の動きを止めて、自然と顔を寄せて目を閉じる。

彼の額に唇を寄せれば、短い髪が鼻先をくすぐってくしゃみがでそうになったけれど。

ゆっくりと近づけた顔を離しながら目を開いて、額同士を寄せ合えば。少しだけ汗ばんだ緊張が伝わってきた。


「よろしくお願いします」


私の乾いた唇がそう告げた瞬間、シゲの表情がこれ以上にないほど破顔したのだ。

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