03 Love laughs at distance.
03惚れて通えば千里も一里
面倒だとは思いながらも再びブラをキャミの下に着け、薄手のカーディガンとソフト生地のジーンズを履いた私は木嶋さんが居る場所へと戻った。
着替えている間に押し寄せてきたのは部屋を片付けてくれたのは彼以外にありえないという事実。
なんで? どうして? と疑問ばかりが次々に起こってくるけれど、一番に伝えなければいけないのは感謝の言葉だろうなと必然的に理解できた。
次に出る行動をシュミレーションした私が木嶋さんの姿を探すと、彼は勝手知ったる他人の家と言った感じで当たり前のようにキッチンに立っていた。
――キッチンに向かう木嶋さんの後ろ姿は、思っていたよりも様になっていた。
先ほどまで肌を見せていた上半身に真新しい黒いTシャツを身に着けていて。その背中は思うより広くて、思わず頼りたくなる――そんな風に見えて。
くつくつと鍋の中で何かが煮込まれる音と、規則正しい包丁とまな板が奏でる音色。
自分の視線より少し上の方で、濡れたままの短い茶髪はところどころが黒かったり明るい茶色をしていたりと、自分で染めたのだろうという憶測が出来る。襟足がちょっとだけ色っぽく見えたのはお風呂上りだからだろうか。
しばらく声もかけずにその様子を見ていたけれど、料理の出来ない私から見るとすごく手際がよくて無駄のない動き。
性格や口の悪さばかり噂に聞いていたから、こんな風に家事の出来る男だったなんて知らなかったなぁ。
まな板の上で切り終えた食材を鍋に移し終えた木嶋さんは、ようやく私が後ろに立っていることに気がついて、ギョッとした表情で私に歩み寄った。
「何で……泣いてんだよ」
珍しく困ったような顔をした木嶋さんに言われ、私はようやく自分が泣いていることに気がついた。手の甲で涙を拭いながら逃げるように木嶋さんから距離を置いて無理矢理笑顔を作る。
「ごめんなさい。ちょっと情緒不安定」
たははっ、と誤魔化すようにこぼしたけれど彼の表情は曇ったままだ。
駄目だな、私。
こんないい人に気を使わせちゃうなんて。
頬に流れる涙を懸命に手の甲で拭っていると、歩み寄った木嶋さんは親指の腹で私の目元をぬぐった。
「風呂入ってこい」
「……ん」
相変わらず慰めるよりも別の行動を取らせるんだなと彼の言動に自然と笑みがこぼれたけれど、私はただそれに甘えて頷いてみせる。それから思い出したように顔を上げると、木嶋さんは相変わらず穏やかな表情を私に見せてくれて。
「お部屋。片付けてくれたんだよね。ありがとうございます」
「ああ……悪い、勝手なことして」
「んーん。すっごく助かりました」
素直に気持ちを伝えれば、木嶋さんはまたホッとしたように笑う。つられるように私もへにゃりと笑えば、彼は少し驚いた様子だったけれどすぐに破顔して、両手で私の頭を撫でまわした。
「わわっ!」
何すんの! と声を上げそうになったけれど、彼の両手が私の頬を包み込んでつぶやかれた言葉に私は耳を疑った。
「お前、可愛いな」
「ふへ?」
たった一言で自分の顔が一気に熱を帯びた。カッと急上昇した体温が体をピンッと緊張させてしまうほどに。
小さくパニックになった私の心情を知らず、木嶋さんの両手はふにふにと私の頬の形を変えて遊んでいる。
「ちいせぇな」
「……悪うございましたね」
「褒めてんのに?」
あ。褒めてたんだ?
小さいって言葉は私にとって悪口にしかならなかったから、つい売り言葉に買い言葉を投げかけてしまったけれど、彼のきょとんとした表情から悪意は感じられない。
自分で言ってはなんだけれど、彼の美的センスを疑ってしまう言動に私は自嘲気味に笑って。
「本当……変な人ですね。私的にはすごく助かりましたけど……修羅場に巻き込んで散々迷惑をかけちゃった私の世話を焼くなんて」
木嶋さんにとってはいいことなんて一つもないのに、という言葉を呑み込んでしまったのは、彼自身もそれに気づいた様子だったから。
はた、と私の言葉に我に返ったらしい木嶋さん。
私の両頬を掴んだまま視線と共に思考の海を泳いでいるらしい彼は、自分の中で意見がまとまったのか「あー」と納得したように呟いて。
「一目惚れした女に尽くしたいと思うのは変な話じゃないだろう」
うんうん、と自分の発言に納得したように頷いた木嶋さんはそのまま私の唇にチュッとキスを落とした。
……は?
……え?
「ひとめ、ぼれ……?」
いやいや、ありえない。一目見て好かれるほどの容姿してないし。
ようやく働き出した思考で即座に否定したけれど、彼は至って真面目らしい。
「と、飯作る途中だった」
思い出したように木嶋さんが言葉を紡ぎながら、私から名残惜しそうに離れて背を向ける。ようやく解放された私の頬は熱を帯びたままだったし、現状に置いてけぼりを喰らっているのが何とも言えない感覚だ。
……いや、だって。
木嶋さんは変な意味で有名人だから私は彼の事を知っていたけれど、彼はきっと私の事を何も知らないはずだ。名前だって名乗ってないし、修羅場に巻き込んだ説明だってしていないのに。
一目惚れ……?
だから私をあの場から助けてくれたの? 何の事情も分からない私を助けてくれた理由が彼の一目惚れ? こうやって失恋でくじけそうになった私の弱さに付け込むこともなく、尽くしてくれるのもそういう理由で?
嘘でしょう……?
何もかもが信じられなかった。だって、まさかをどれだけ繰り返しても木嶋さんの行動がそこから来るものならば納得できてしまう。納得できてしまうからこそ自分の言動が酷く憎たらしく思えた。
それじゃあ私の行動は、木嶋さんの恋心に付け込んだってことじゃない。好きでもない人に傍に居てほしいとか、繰り返されるキスから逃げ出さずにいるのも人恋しいだけの身勝手な思いがあるからで。
どうしよう――そんな、そんなつもりなかったのに。
結果的にそうなってしまった事に深い自己嫌悪に陥っていく。
立ちすくんでいた私に気が付いたのか、木嶋さんは包丁を持っていた手を止めて顔だけで振り返ると、怪訝そうに私を見つめた。
「風呂、入らないのか?」
「あ……うん、入ってきます」
思考が戻ってこないまま口先だけで返せば、彼にもそれが理解できたのかクスリと口元に笑みを浮かべる。
そんな様子に思わず肩をすくめた私は、それ以上何も言わないままお風呂に入る準備をするために踵を返したのだ。
◇◆◇
……今更だけど、この人普通に私の部屋に馴染んでるわ。
風呂上りのさっぱりした頭で彼の姿を見てそう思わずにはいられなかった。
濡れたままの髪にタオルを巻いて出てきた私に対して、出迎えた木嶋さんは部屋の中でテレビを見てくつろいでいた。ラグに座り込んで、どこから掘り出したのか大き目のクッションを背中に当ててまったりと過ごしている姿を観れば誰だってそう思う。
初対面の相手の家でこんなにもくつろげるものかと彼の神経を疑いたくなったけれど、よくよく考えれば初対面の相手に樹海と化した部屋を片付けさせてしまった私の神経の方が遥かに可笑しいので黙っておく。
特に仲良くもなんともない異性が部屋の中にいるというのに、私の危機管理も全くなっていないのも、友人に聞かせたら烈火のごとく怒りそうな状況だという事も一応理解はしているけれど。
なんていうか……この人が居てくれるのが当たり前と思えてしまうのはなんでだろう。
部屋に限らず私は自分の領域に他人がどかどかと踏み込んでくるのがあまり好きではない。他人に聞いたって絶対そうだし、この状況があまりにも異質過ぎるのだが、互いにすんなり受け入れ合ってしまっているのが少し笑える。
風呂場で一人きりになって悶々と考えを張り巡らせているのが馬鹿に思えるほど、木嶋さんが普通で居てくれるのがありがたくも思えた。
ようやく私の気配を感じたのか、彼は振り返って「おー」と気の抜けた声をかけてくる。
「上がったか?」
「はい」
「んじゃ、飯にするか」
その言葉に思わず壁にかけてあった時計を見ると、針はとっくに真夜中を過ぎていて。
「……この時間から?」
針を睨みつけたまま思わず零せば、彼がキョトンとした表情で私を見ているのが横目でわかった。
「腹減ったろ?」
「はい……まぁ……」
気の抜けた返事だったけれど、木嶋さんにとってはそれで充分だったらしく、渇いた笑いを浮かべてゆっくりと立ち上がる。
私に食卓の準備を軽い口調で命じ、再びキッチンへと足を運んだ彼の背中を視線で追いながら、私は意味もなく首を傾げながら立てかけてあったコタツのテーブルをラグの中央に据えた。
何か手伝うかとキッチンを覗けば、すぐに終わるから座って待っていろと振り返りもせずに再び命令される。
お言葉に甘えてテーブルの前に座って待っていると、次々と運ばれてきた料理達に今まで感じなかった空腹感が急に襲ってきた。
どうやら和食らしい。
ようやくすべての料理が揃ったところで、木嶋さんはテーブルを挟んだ向かいに座り、「いただきます」の挨拶と共に割り箸を割る。
私も少し遅れて「いただきます」としっかり合掌をしてから料理をいただくことになったのだが、コレがもうたまらなく美味しかった。
鯖の味噌煮はしっかりと味が染み込んでいて、骨抜きもしっかりしてある。
肉じゃがもジャガイモがホクホクで、甘辛い味でご飯も大いに進む。
ほうれん草のお浸しも最高。
なめこのお味噌汁も、ダシが効いていていい香り。
何より炊き立てのご飯は私好みの固さに炊き上がっていて、おかずが手伝って箸が進む進む。こんな時間にご飯を食べるなんてと憤慨していた数十分前の私はどこかへ消えてしまっていた。
何度も「美味しい」と自然に零せば、木嶋さんはその度に笑って「よかったな」と他人事のように言う。
これだけの料理が出来る事に対して羨ましいという気持ちを通り越して、けしからんと思ってしまったあたりはどうでもいい。とにかく自分の胃を鷲掴みした料理の数々に舌鼓を連打した。
「うぅっ……美味しいよぉっ……」
「悔しがるか食うかどっちかにしろ」
「食いますっ! というか、うちにこんなの作れる材料ありました?!」
「寝てる間に買ってきた」
「なるほどっ!」
もぐもぐと目の前にある幸せを咀嚼して呑み込んで、思わずため息とともに願望がこぼれてしまった。
「もうダメ。本当にヤバい。こんな美味しいご飯が毎日食べられるなら結婚してほしい」
そりゃもう家事ができない私からしてみれば切実な願いだけれど、もちろん冗談に決まってる。
失恋したばかりの女が言う言葉じゃないとわかっているけれど、ある意味では自棄にもなった発言で、木嶋さんに笑い飛ばしてもらえたらそれでよかったのに。
「じゃあ、するか?」
「……へ?」
何を? と、自分でついさっき言った事さえ忘れてしまうほど夢中になって食べていたけれど、箸を止めて彼の言葉をもう一度脳内で反芻しようと試みるも。
「俺と結婚するか?」
反芻する間もなく正された発言に、私は手に持っていた箸を思わず落としてしまった。
「……へ?」
「あ、おい。箸」
彼が反応したのは私が箸を落とした行為であって、私の反応でないところがおかしいのではないかと思う。が、今はそれどころではなく、すでに満足値に達しようとしていた胃袋の事を考えれば、脳内も風呂場で過ごしていた時より動いているはずで。
「あ、いや……え? え?」
「え? って。結婚してほしいって言っただろ?」
自分の食事を中断して立ち上がった木嶋さんは、私の元へ来てラグの上に散らばった箸を拾いながらそう言った。持っていたお椀も落としそうになったのを見かねた彼が、私の手からそれを取り上げると箸と共にテーブルの上に着地させる。
私の真横に座って腰を据えた木嶋さんはまっすぐに私を見つめて真面目な顔をして繰り返した。
「結婚しよう」
……誰か通訳。
いや、通訳じゃないか。とにかく意味が分からないんだけれど、私の代わりに誰か現状を整理してほしい。
出会ってまだ一日も経っていない、会話もほぼ皆無に等しいこの人と結婚というものに結びつく訳がない。第一この人、私の名前すら知らないんじゃなかったっけ?
同じ空間で違和感なく過ごせる相手であったことはこの際認めるにしても、さすがにそれはどういう思考であればそうなるの? と問いただしたい。
いや、確かに告白まがいのものは受けた。
一目惚れと言われたらそれは好意であるのは否定しない。
私だって失恋したばかりなのに何を言うんだと繰り返し考えるものの、彼の思考を理解できるわけでもないので、私は観念してその疑問を素直に投げかけることにした。
「あの……なん、で?」
「ん?」
「なんで、私なの? そもそも私の事、何も知らないんじゃ……?」
「ああ、そういえばそうだな」
えええ!? 認めちゃうんだ? いや、確かに知ってても怖いけど、知らないのにプロポーズとかもっと怖い。
「俺は木嶋成美」
「あ、それは知ってます」
有名ですし、と口にはしなかったけれど彼も理解しているらしく「やっぱりか」と顔をくしゃりとさせて笑う。
「お前は?」
「……えっと、岡田夏樹です。春夏秋冬の夏に、樹木の難しい方の樹」
仕事の中で日常的に言っている自己紹介をする。彼が反芻するように「ナツ」と呟くように愛称を呼んだことに、思わず胸がドキッと高鳴った。
「ナツは俺じゃあ結婚相手に不満か? 家事全般は得意だし、性格にはまぁちょっと問題はあるかもしれないけど、ナツにとっちゃあ優良物件だと思うけど?」
そりゃもう、そこを一押しにされたら衝動買いしたくなるけれど、私がグッと唇を噛みしめて視線を俯ければ、彼は察したらしく静かな声で尋ねた。
「やっぱり、別れた男に未練あるよな?」
「っ!」
図星を突かれた途端、思わず体が素直に反応してビクッと揺れてしまった。それを間近でみた木嶋さんは私の頭を撫でた。彼が苦笑しているのが見なくても分かってしまう。
何を言えばいいかわからず、混乱して涙が零れ始めた。今まで後回しにしてきた失恋の痛手が今更沸き起こってきて、胸がいっぱいになりすぎて涙が止まらない。ぼたぼたと可愛げもなく零れ落ちた涙を俯きながら必死に手の甲で拭っていると、急に二の腕を掴まれて体が反転する。
理解する間も与えられないまま体がふわりと浮きあがり、胡坐をかいていた木嶋さんの足の上に向い合せで抱きしめられたと分かったのはそれからコンマ数秒後。ぎゅむっと背中に両腕を回されたのと同時に、自分の足がようやく居場所を見つけて彼の体を挟み込むように左右に広がった。
頭に巻いていたタオルが音も立てずに滑り落ちたけれど、ゼロ距離の体温に涙が引っ込んで代わりに心音が主張を始める。
「っき! きき、木嶋さっ!」
「シゲでいい。敬語もなしで」
そ、そうじゃなくてっ! というか、耳元で話さないでぇっ!
間近で聴く彼の声は、脳天に直接響いているんじゃないかと思うほど心地よい。同じシャンプーの香りがする髪が鼻先をくすぐる。彼の鼻先が私の首筋に触れて、吐息が掛かるたびにビクビクしてしまってもう意味が分からなくなっている。
ふぅっと木嶋さん――シゲが落ち着くように息を吐いたのを理解して、私もゆっくりと自分の感情を鎮めるよう努めだす。
相変わらず心音はうるさくて、けれど彼の体温は温かくて。
良いように翻弄されているのが悔しくなった私が、新品の香りがする黒いTシャツに遠慮なく目元に残った水分を拭えば、「あ、この野郎」と小さな冗談がこぼれ出すほどには互いに余裕ができたらしい。
「……さすがにこの距離は恥ずかしいよ……シゲ、さん?」
「シゲでいいって」
「じゃあ、シゲ」
素直に言い直せば彼は満足したように私の背中に回した手を緩めてゆっくりと体を離すと、私の顔を覗き込んできた。恥ずかしすぎて俯き加減でいれば、私の額に彼の額がコツンとくっついて視線が間近に迫ってくる。
「俺は、手に入れたいと思ったら即行動するタイプだ」
唐突なカミングアウトながらも私がまじまじとした表情で見返せば、彼は口元に柔らかな笑みを浮かべて続けるように言った。
「正直、巻き込まれた時は何事かと思ったよ。現場見れば誰だってアレが修羅場だったことくらい理解できるだろう」
「……その節は、その、ごめんなさい」
うっと言葉を詰まらせながらもようやくあの時の事を謝罪する事が許されると、シゲは「いや」と小さく否定した。
「他の女だったら間違いなく手ぇ振りほどいて逃げてた。でも、ナツだったから」
そう、小さく言葉を区切ったのはシゲなりに少し緊張しているのかもしれない。
「自分でも驚いてる。こんな面倒事に巻き込まれてもいいと思った事にも。巻き込まれたのが俺でよかったと思った事にも」
こくっと思わず私が唾を飲み込んだ。黙って聞いているにしても激しすぎる告白。この先を聞くのが怖いとさえ思うのに、耳をふさぐことができない。
「こんな衝動的な気持ちを抱くなんて思わなかった。出来ないものなら一生しなくていいと思っていた。それくらい面倒だと思っていた事なのに、耐えられなかった」
額にハラリと自分の乾ききらない髪が落ちてきた。
「あんなクソみたいな男の為にお前が――ナツが泣く事も、他の男に視線を送るナツの姿も。自分がそう思う事自体も」
「……怖いよ」
思わずこぼれた言葉だった。だからこそ本音だったとシゲも理解したのだろう。私の言葉にクスッと自嘲気味に笑ったシゲの表情が悲痛に思えて。
「俺もそう思う。相当気持ち悪い男だよ俺は」
それでも、と彼がつぶやき続けた懺悔に近い告白は温もりと共に体にしみこんでいく感覚で。
こんな感情に揺さぶられたのは初めてだと彼は言った。
私の元婚約者に醜いほど嫉妬したと彼は言った。
私を幸せにする権利を放棄したのであれば、自分がその権利を得たいと彼は言った。
傍に居る事を許された喜びが言葉に表せなかったと彼は教えてくれた。
私を慰める言葉を持たない自分の引き出しの少なさに嘆いたと彼は笑った。
少しでも傍に居たいために勝手な真似をしたと部屋を片付けてくれた事を後悔したと彼は零した。
私を喜ばせたいために手料理をふるまったと彼は頑張ってくれた。
私の悲しみが少しでも薄らぐように一定の距離を置いて接してくれていたと彼はつぶやいた。
それでもあふれ出てくる欲望は枯渇を知らず、欲に逆らえぬまま気が付けばこの距離にいたと彼は頬にキスを落としてくれた。
「なんでもいい。どんな感情で居てくれてもいい。傍に居たい。誰でもない――俺を選べナツ」
狂気に似たそれはもはや恋情ではないと悟った。
それを超えた愛情とも違う。ただそこにあるのは執着心と独占欲。恐怖を感じるほど異性に求められることなんてありえないと思っていたのに、今目の前にあるのはまさしくソレで。
くっついたままだった額を離してゆるゆると視線を外さないまま首を横に振る。ただそれだけなのにシゲの表情は酷く歪む。
「ごめ……」
「なぜ?」
「嫌……」
「どうしても?」
「ちがっ……そうじゃなっ……」
言葉が見つからない。
この人の気持ちに返せる言葉はどれを選んでも稚拙なものになりそうで。
両方の二の腕を力強く握りしめられていた事にようやく気が付いて、それでももう一度首を横に振ればシゲの口から切なく私の名を呼ぶ声がした。
「無理だよっ……私、失恋したばっかりなのに……」
「知ってる。それでも求めたのは俺だ」
「そんなっ……シゲの気持ちを利用することになるっ」
「それでいい。利用してくれて構わない」
「やだっ……んな……私をそんな酷い女にしたいの……?」
「それでも欲しい」
「っ!」
なんて……なんて人だろう。
どの言葉を使えば彼は私を離してくれる?
彼を巻き込んだのは私だったのに、捕まったのは私の方だったなんて――。




