01 The relationship between a man and a woman is a strange and marvelous thing.
01縁は異なもの味なもの
世の中、何があるか分からないとはよく言ったものだ。
ドラマチックな恋なんて、所詮はドラマの中で起こるエピソードだし、ガラの悪い連中に絡まれているところを助けてくれたのが、実は初恋の相手だった――なんて突拍子もない展開も夢や妄想の世界だから許されるのだと思っている。
つまりは現実には"ありえない"と思うことが、現実に起こった場合、人間というのは対処の仕方に非常に困ることとなる。
今の自分がいい事例だ――と、私は呆然としながら、冗談とも取れる発言をした男を見つめた。
最初は全身が悲しみに溺れるような感覚だった。
突如として吐き捨てられた別れの言葉が、何度も頭の中を駆け巡っても理解するまでには至らない。
会社の前で待ち伏せをしていた男を見つけた瞬間、少し浮かれたのは彼が意中の相手であったから。
けれど、今はとにかくこの場を立ち去りたい衝動に駆られている。
言葉の意味を理解はしているのだが、あまりにも突然すぎる現状に納得できていないと言った方が正しいのかもしれない。
「ナツとは結婚できない」
だから別れてほしい――と、確かに彼はそう言った。
付き合って三年、恋人という関係を三カ月前に終えて婚約者と言う名に昇格したはずの、身も心も通わせて互いを知り尽くしていた相手が、あっさりと私を裏切った瞬間だった。
会社が終わったら大切な話があるという彼からのメールに、私は浮かれ気分で定時に仕事を終わらせた。
互いに仕事が忙しすぎたせいか婚約者になってからほとんど進展がみられなかったけれど、今夜こそは互いの両親への挨拶なり新居を決めるなりの話し合いが行われるものだとばかり思っていたのだ。
まさに幸せ絶好調で真っ只中に存在していたはずの私。
世間の目から見るならば決して上玉と言えるような男ではなかったけれど、平凡な自分にはぴったりの異性。
容姿は至って平均的。顔も並みだし、恋愛感情を持つにあたり重要視される性格はそれほどよいものとは言えない。自己主張が乏しく何度も男らしくないと思える言動が多々見られたが、勝気な私の性格と相殺されるから相性が良かったと思っていた。
付き合っている私の性格が強いからだと揶揄されたこともあったけれど、残念ながら否定はできない。強気な性格の私だからこそ付き合う事が出来たと言えばいいか、今でいう肉食系女子な私に対して彼の性格は草食系。だからって全くの臆病者かと言われれば、以外にも付き合うきっかけとなったのは彼からの告白だったし、そろそろ結婚しようと言ってくれたのも彼。
なれ合い過ぎたせいかちゃんとしたプロポーズも指輪もなかったけれど、それでも私は幸せだった。
そんな彼を選んだのは紛れもなく私で、言うなればこれは妥協と表現してもよいだろう。ぶっちゃけ今までそんな風に考えたことはなかったけれど、今の状況に置かされている自分には、きっとそれくらいの強気でなければこの場を乗り切れない。
三年間という長い年月を共に過ごしてきたのだから相性もよかったはずだった。実際に居心地のいい相手だったと思うし、寄り添うのが至極当然のように思えたから、その関係に甘えていたのは否めない。
目の前にある現実から逃げ出したい衝動が全身を駆け巡っているものの、行動に移すことができないのはつい先日――否、先ほどまで自分の居場所だったそんな彼の隣に、別の女性が勝ち誇ったような笑みを浮かべて並んでいた。
淡いオレンジ系のグロスを塗った唇の両端を持ち上げ、滑稽で哀れだとも言いたげに、見下した視線を向けてくる女性はこれ見よがしに彼の腕に自分の腕を絡めて見せたのだ。
彼はそんな彼女の行動を嫌がることはなく、むしろ嬉しそうにはにかみながらうっとりとした表情で彼女を見つている。艶めかしくも温かい視線を受けていたのは自分だったはずなのに、今はソレが酷く気持ち悪く視界に映りこんだ。
彼女が同じ会社に勤める女性という認識はあったのだが、部署も違えば年齢も違う、何の接点も持たなかった女に自分の彼氏を取られるとは夢にも思っていなかった。自分よりも若くて愛らしい女性であると評判ではあったが、それと同時に悪評も流れていることを男性社員は知っているのだろうか。
女性社員の僻みとも取れる悪評ではあるけれど、その評価は目撃証言により得られたものであり、信憑性も高く偽りは二割程度ではないかと思っている。
実際、彼女は可愛いのだ。
色素が元々薄いのか、それとも染めているのかは知らないが、栗色のセミロングの髪は、ゆるふわウェーブが掛かっていて、彼女の愛らしさを引き立てている。化粧の仕方も若者らしい、濃くも淡くもない自分を美しく魅せる方法をしっかりと理解して施されているもので、そんな部分ばかりに才能が長けていることを羨ましく思う女性も少なくないだろう。
無論私だって羨ましいと思うくらいなのだから、彼女の技術は相当だ。素顔こそ知らないけれど。
私よりも身長が高く、だからと言って飛びぬけて大きいというわけでもない。ごくごく小柄な彼女は、同性から見ても理想的な肉付きをしていて、その割に胸は大きくくびれもはっきりとしている。
体格で言ってしまえば私が小さすぎるのだ。
27歳にもなって身長が145センチしかないのは、私にとって最大のコンプレックス。
飛びぬけて可愛いというわけでもなければ、誰もが敬遠する不細工というわけでもない――ごく平均的な顔は持ち合わせているものの、身長に見合った童顔であることも悩みのひとつ。
挙句の果てに体格も寸胴でご年配の方にはウケのいい外見を持っているけれど、同年代には敬遠されがちであることは否めない。
せめて髪型や化粧くらいは大人らしくと思い、クセのない黒髪を前下がりのボブにして前髪は眉の上で綺麗に揃えている。
が、どう頑張っても子供が背伸びをしているようにしか見えず、なかなか思うようにいかないのが現状だ。
この外見のせいでどれだけ苦労を強いられてきたかわからない。
そんな自分と彼女を比べてしまえば、同年代の異性がどちらを抱きたがるかは一目瞭然だ。
彼女という存在は自分に関係のないものだと思っていたのが悪かったのか、彼女は私から男を奪い、男もあっさりと彼女の手に落ちたのだ。
「俺、結婚するなら家事のできる女がいいんだ。仕事ばかりじゃ円満な家庭は作れない」
私が何か言う前に抵抗の余地をなくそうと彼が発言した。
彼の言葉も手伝って私がただ茫然と二人を見つめていると、彼の隣にたたずむ女性は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。当然、隣に並ぶ彼にバレない程度にだ。
悔しい――けれど言い返せない。
彼の言葉は本心だ。その本心を言わせたのは自分。
周囲を行きかう人の中には、顔見知りも存在した。
同じ会社で働く人間であることは明確で、私を知る人は足を止めて遠巻きに見つめ、それ以外の人は迷惑そうな視線だけを送って背を丸めて帰路を急ぐ。
今日が週末でよかったと思うと同時に、来週から仕事に出てくるのが非常に億劫だと思った。
彼が言った通り私は家事全般を苦痛としていたし、彼女は対照的に家庭的だというのを噂で聞いていた。
だからってこれはない。
恋を失い仕事を失い――なんて冗談じゃないと悔しさのあまりに唇を噛み締めながら手を握りしめても、彼の冷え切った視線が温まることはなかった。
「私も貴方とは別に結婚を考えていた人がいたから丁度よかったわ」
流暢なまでにこぼれた嘘に彼の目が大きく見開かれた。
そんな驚かないで欲しい。私が一番驚いている。
こんなすぐにバレてしまう嘘を並べたところで彼の気持ちが戻ってくるはずなんてない。わかっているのに長年に渡って積み上げられたエベレスト級のプライドが勝手に私を動かした。
彼女に至ってはそれがその場しのぎの嘘だと分かっているらしく、耐え切れないと小さく噴出したのが視界の端に映った。
「お前も浮気してたのかよ」
怪訝な表情で尋ねてきた彼に私は不愉快な気持ちが一気に膨れ上がった。
何よ、お前もって。まるで自分の罪が軽減されることにホッとしたとでも言いたげな彼の姿に苛立ちを覚えた。
「貴方と一緒にしないで。お付き合いが重複した期間はないわ」
「なんだよそれ。おかしいだろう」
そりゃおかしいに決まってる。架空の男を作り上げた挙句に付き合ってませんなんて通じるものか。
ようやく彼は私が嘘をついている事を悟り始めたらしく、けれど私の性格をよく知っているからこそ口から滑り落ちた言葉に対し疑いを拭いきれないでいる。
「結婚を前提に付き合ってほしいと言われていただけだもの。ずっとカズの事を理由に断り続けていたけれど、正直気持ちが揺れ動いていたのよね」
嘘に嘘を重ねても苦しいだけなのに、次々とあふれ出てくる言葉は自分でも舌を巻く。嘘であったものの信憑性が増し始めた私の言葉に、彼は見てわかるほど狼狽して見せた。
「誰だよ」
「誰だっていいでしょう。関係なくなったんだもの。ね?」
そう言って私が同意を求めたのは彼の隣に並ぶ女性だ。ニヤニヤとした笑みをひっこめ、途端に彼の後ろに怯えたように隠れて見せる。あざといってこういう態度を指す言葉かしら、なんて珍しいくらい冷静な私の態度とは裏腹に、彼はとうとう耐えられなくなったらしく少し声を張り上げて私に喰ってかかった。
「だから相手は誰なんだよっ!?」
何て自分勝手な男だろうと思った。
コレが今まで私が好いていた男と同一人物だろうか。自分の事は棚に上げて私を責め立てる根性があったのかと逆に賞賛したくもなったけれど。
窮地に追い詰められた私はとうとう耐えかねて彼の言葉に乗せられるように声を大にして宣言した。
「っ彼よ!」
自分の背後に人の気配を感じた瞬間を逃すまいと、視線をわずかながら下の方に向けつつ、相手がスーツを着ていることを素早く確認した。自分の背後から彼の方向へ通り過ぎようとするその人を遠慮なしに捕まえて自分の恋人宣言をしてみせる。
勝手なことだとわかっているけれど少しぐらい付き合えという気持ちだったのだが、巻き添えにしたその人は「は?」と小さく驚きの声を上げて私の隣に立ち止まった。
「……いや、ないだろ」
成功したのではないかと高をくくっていた私に対し、彼が鼻先で笑って見せた。
こんな風に他人をあざ笑う人ではなかったのにと思いを馳せる一方で、彼の隣に立っていた彼女でさえ、呆然としたような笑いたくても笑えないといった表情で唇の端をヒクつかせながら、私の隣に立つ男の人を見つめている。
どうか既婚者でありませんようにとか、どうか恋人持ちでありませんようにとか、とにかく条件としては独身で年がそれほど離れていない人なら誰でもいい的な願いだけを込めて恐る恐る顔を上げる。
――前言撤回。
既婚者かめちゃくちゃ年上の方がまだよかった。
むしろ今からでも変えがきくならお願いですからチェンジ希望。
不機嫌そうに腕に絡まる私を見下ろしていたのは"毒舌スナイパー"の異名を持つ、木嶋成美だったのだから。
私が勤める黒澤不動産は何千人という多くの社員を抱え、黒澤財閥傘下のグループ企業において中枢を担う一流企業だ。全ての社員を把握することは難しく、同じ部署にいても顔が分からない人だって存在するほどだ。
しかし木嶋成美という男性は黒澤不動産に勤める者であれば、例え派遣社員であろうが、挙句の果てには清掃業者の人間に至るまで、周囲に認知されている存在である。
とにかくその異名の通り、口が悪い男だった。
口だけならまだいいかもしれないが、もちろん性格の悪さもそれに比例する。そんな彼にはもちろん恋愛の浮ついた噂なんて聞いたことがないし、彼に安易な気持ちで近づくことすら間違っているとすら言われる。以前、興味本位で近づいた女子社員数名がバタバタと会社を退職したという噂もある。
彼自身だけではなく彼を取り巻く環境も非常に特殊であるが、今はどうでもいいので省略する。が、会社の中で異質な存在であることは間違いない。
ヨレヨレの背広としわくちゃのワイシャツ。曲がったネクタイ――しかもそれは葬祭用だろう、誰かツッこんでやれよ。髪はボサボサで無精ヒゲをはやし、なぜかちょっとだけずれている眼鏡。
社会人としてどうなんだと言うくらい不潔な身なりでよく一流企業に勤められるものだと言いたくなるが、誰も指摘しないのは毒舌の餌食に好んでなりたがる者がいないからだ。
誰がどう見ても自分を着飾ることを知らない男で、自分よりも二つ年上だという話を聞いたことがあるが正直信じられない。
そんな身なりから実は酷い性癖の持ち主であるとか、変人奇人呼ばわりされているとか、そういった噂をされているのは当人も知っているらしいが。
まあ、とにかくそんな男だからこそ彼も彼女も、そして木嶋さんを選んでしまった自分でさえも驚愕したのだ。
周囲で私達の修羅場を遠巻きに見ていた人だかりがあることを、今更になって気づいたのだが、その人達も驚きの表情で私と木嶋さんを見つめている。通りで誰も傍を通らなかったのかと現状を再確認しつつ、やっぱり間違いでしたなんて今更言えない状況を作ってしまった自分の馬鹿なプライドを、このときほど罵りたくなることはなかった。
ようやく動いたのは彼の隣にいた女性だった。
冗談だろうとあざ笑うかのように口元に笑みを浮かべて、男に魅せる笑顔を作ってようやく私に話しかけてきた。
「えー、先輩って木嶋さんさんと付き合っていたんですねぇ。お似合いですぅ」
おい、嫌味か。嫌味だなこの野郎。
さっきから喧嘩売られてると思ってたけど、そろそろその心意気を買ってやるぞ。
しかしこれ以上引く訳にもいかず突然巻き込んだ木嶋さんに対し、言葉を要することなく現状を理解させて協力してもらえるかを必死に考えていたのだが。
私の隣に無理矢理立たされていた木嶋さんは、思考をぶった切るように眉を潜めて思ったことを即座に口にした。
「何、あの女。気持ち悪い」
ピシッ――と、彼女の笑顔が凍りついた。
現状を分かっていないとは知っていてもよく言ってくれた木嶋さん! と賞賛したくなる。が、木嶋さんの視線が自分に向けられた瞬間、私の脳内は一瞬にしてフリーズする。
「で、何?」
多分呼び止められたというより、無理矢理引き止められたことに対しての疑問だろうが、私は答えることが出来ずに思わず視線を泳がせる。その一言で充分現状を理解した私の元婚約者は茶番に付き合わせたと思ったらしい木嶋さんに笑いを噛みしめながら声をかけた。
「すみません、巻き込んじゃって。彼女が貴方から言い寄られてるって言うもんだから真相が知りたくって」
ここで一気に私の嘘を暴こうとまくしたてた物言いをした彼の言葉に、今度は私が戸惑いを隠しきれない。打ち合わせもなにもただ通りすがっただけの彼にこれ以上私のために嘘をついてほしいと願うのは無理だ。
さぁっと顔面から血の気が引いた私の脳内に、辞表の書き方が思い浮かんだ。
ああ。もうだめだ。
結局私は自分の身から出た錆で恋も仕事も同時に失う馬鹿に成り下がるんだ。
そう思った瞬間、事態は想像の斜め上を行く展開を見せた。
「ああ、なんだ。言ったんだ?」
「……へ?」
思わず素っ頓狂な声をあげながら働かない思考で顔をあげると、木嶋さんは「ん?」と穏やかな表情で私を見ていた。先ほどの険しい表情はなんだったのかと思うくらい初めて見る木嶋さんの表情に呆けていると、私と同じく驚きを見せた彼が確認のためもう一度同じ意味の言葉を繰り返す。
「……え、あ、いや、あの……木嶋さん……ですよね……? え、本当に……ナツに、言い寄ってたん、ですか?」
しどろもどろになりながらも、自分の意見を肯定された彼の方が戸惑いが大きいらしい。
いやいや、まさか! と私が思わず首を横に振りそうになったけれど、木嶋さんは彼に向き直ると表情を変えないまま「ああ」と肯定してみせて。
「俺が他人からどんな評価受けてるかは知ってる。それで彼女は誰にも言いたがらなかったし、俺はそれでもいいと思ってた。けど、もういいんだよな?」
木嶋さんが続けた言葉の最後は私に同意を求めているようで、再び視線が私に向けられたので思わず頷いて見せると。
ホッとしたような表情を浮かべた木嶋さんは、私の頭をポンポンっと撫でると破顔したその顔を近づけて。
チュッとリップ音が私の唇に乗った。
「じゃあそういう訳で。コレ、俺が貰うから。そちらさんもお幸せに」
と、完全フリーズした私の肩に手を回すと、連れ去るようにその場を後にしたのだった。
五年越しの連載再開です