Häuschen 擬似惚れ薬
「はぁ……」
俺はショーウィンドウに映った自分の姿を見て大きくため息を吐いた。XLサイズの学ランが小さく見えてしまうほど醜く肥えた体、べったりと脂っぽい上にセンスの欠片もない髪の毛。そして油を塗りたくったかのように光り輝く顔。
我ながらなんて酷い姿をしているんだろう。自分がもし女の子だったとしたら、絶対にこんな男とは付き合いたくない。
それでも、それでもやっぱり……
「モテたい」
俺はポツリと呟いた後、ポケットに手を突っ込んで一枚の紙切れを取り出した。少しの迷いはあったが、このままでは一生彼女なんてできないかもしれない。俺は意を決し、紙切れに書かれた地図を頼りに足を踏み出した。
********
「ここか……」
森の中にポツンと寂しく建っている赤い屋根の可愛い家。ここが、俺の探していた雑多屋「Häuschen」である。噂によると、ヤバイ薬やヤバイ道具を各種取り揃えているらしい。俺の求める薬も、ここならきっとあるはず。
俺は息を整え、ゆっくりとした足取りで扉の前まで進んだ。そしてドアノブに手を掛け、一気に力を込めて手前へ引いた。
ドアは拍子抜けするほど軽く、思わずよろけてしまった。頭上からカランコロンとベルの透き通った音色が降りかかる。中に足を踏み入れた瞬間、なんとも形容しがたい良い香りが鼻を抜けた。壁一面棚で埋まっていて、そこにはごちゃごちゃと物が並べられている。部屋の隅には謎のツボが、そして部屋の中央には物でごったがえしている机が……ようするに、物だらけの部屋という事だ。
「いらっしゃい」
鼻息荒く店内へ足を踏み入れる俺を迎えたのは、部屋の隅っこの背の高い椅子に座った小柄な女の子だった。狡猾で恐ろしい老婆が店主をやっている、と噂では聞いている。とすると、この子は店主の孫か何かなのだろうか。
恐い婆さんがいないという安堵感と、薬が手に入らないかもしれないという不安感がないまぜになった気持ちの悪い感情を胸に抱えたまま、椅子に座って本を読んでいる少女に声をかけた。
「あの、この店の店主はどこにいるのかな?」
少女は不機嫌そうに顔を上げ、俺を見上げた。その大きくて真っ黒な目で睨まれると、なんだかすごく居心地が悪くなった。何と言うか、自分がなにかすごく悪い事をしているような気分になるのだ。
「えっと……」
俺は居たたまれなくなって、特に意味のない言葉を吐いた。少女は挙動不審な俺に向かって呆れたようなため息を吐く。
「目の前」
「え?」
少女は再び本に視線を移していた。
あの奇妙な視線から解放されたことに安堵のため息を吐く。そして俺は少女の助言通り目の前を真っ直ぐに見つめた。
そこには不機嫌そうな顔で本を読む少女がいた。
「……あれ」
一応、店内を見回してみる。やはり、俺とこの子以外には誰もいない。
「店……主?」
「なに」
少女は本から目を離さない。
俺は目を白黒させながら、口をパクパクさせた。言いたいことは山ほどあるが、少女のぶっきらぼうな振る舞いに気圧されてしまい、思ったように口が動かない。
まるで酸欠の金魚のようにパクパクしている俺を見かねたのか、少女はパタンと本を閉じて立ち上がった。そして俺の目をじっと見た。
「なにか、用があって、来たんでしょう。本が読めないから、早く要件を言ってちょうだい」
文章の節と節がぶつぶつと切れた妙な喋り方だった。
聞いたことのないその喋り方がちょっと気になったが、今はそんな場合ではない。とにかく、俺は薬がもらえれば何でもいいのだ。店主が老婆だろうと少女だろうと関係ない。少女が本当に店主なのか疑わしく思う気持ちもあったが、そんな事恐ろしくって聞けるわけがない。
「あの……ここに来れば買えるって聞いたんです。その、ええと……惚れ薬を」
ここまで来て、「そんなもんあるわけないじゃない」だなんて言われたらどうしよう。
脳裏にそんなことがパッと浮かび、俺の言葉はひどく弱弱しいものになった。俺が聞いた話は全部「この前友達が言ってたんだけどさ」から始まる噂話だ。誰が言ったのかも定かではないし、よくよく考えてみれば信ぴょう性は限りなく低い。勢いで来てしまったけど、本当に良かったのだろうか。
おどおどする俺を少女はじっと見つめ、そして素っ気ない口調で言った。
「あるよ」
俺は驚きでしばし口がきけなかった。
なのに少女はと言うと、「鉛筆は売っていますか?」という問いに答えたみたいにきわめて平然としている。ドヤ顔もしていないし、悪い魔女みたいにケケケと笑ったりもしていない。先ほどと同じように、ただただ不機嫌そうな顔があるばかりだ。
「想い人でも、いるの?」
少女は読んでいた本を閉じ、おもむろに立ち上がって自分の座っていた椅子を引きずりながら部屋の中を右往左往した。壁一面に並んだ棚に手を突っ込んではあれも違うこれも違うとつぶやいている。その様子を眺めながら、俺は首を振った。
「いえ、その……特定の相手がいるわけじゃないんですけど。とにかく、モテたいんです」
そう言った途端、少女の動きがピタリと止まった。
俺はそんな邪な考えを叱責されるんじゃないかと思い、背筋を伸ばして直立した。脂汗が頬を流れていく。
しかし振り向いた少女の顔は、笑っていた。屈託ない純粋な少女の笑顔ではない。なんだか悪巧みを腹の底に隠しているような、邪悪な笑顔だ。恐い。
「良いものがあるよ」
少女はそう言って椅子を引きずり、ある棚の前で足を止めた。棚に手を突っ込みごそごそと中をかき回す。
「あった」
俺の鼻先に突きつけられたのは、淡いピンク色の液体が入ったキラキラ輝くガラス瓶だった。それは何とも形容しがたい不思議な形をしていて、少し触っただけで割れてしまいそうな気がした。
「それは?」
「これは擬似惚れ薬」
少女は俺の鼻先でガラス瓶を細かく揺らした。ちゃぷちゃぷと中の液体が揺れる音がする。
「これは、香水みたいに、体につけるタイプの惚れ薬なの。この匂いを嗅いだものは、動悸、眩暈、体温の上昇などを引き起こす」
「なっ、なんですかそれ。惚れ薬でもなんでもないじゃないか……」
「そう。だから“擬似”惚れ薬なの。確かにこの惚れ薬で、人の気持ちを動かすことは、できない。でもね、身体と精神は、リンクしているものなの」
「どういう事?」
俺は首をかしげた。
少女はまたにやりと笑って惚れ薬入りの瓶を撫でまわす。瓶が照明の光を反射し、キラキラと眩しく輝いている。
「吊り橋効果って、知っているでしょう?」
「恐怖のドキドキと恋のドキドキを勘違いして好きになっちゃうことですよね……」
そこまで言って、俺はハッとした。
「この惚れ薬もそれと同じってこと?」
魔女は大きく頷いた。
「その通り。惚れ薬による効果を、恋による体調の変化と勘違いするの。優れものでしょう?」
それが本当なら、確かに優れものだ。
でもできるなら、本物が欲しい。すべての女性が俺に対して情熱的な恋心を抱くような、そんな薬が。
「……本当の惚れ薬はないんですか? 擬似じゃなくて」
「あるけど、多分あなたには、買えないよ。高価だもん」
「学生だからって馬鹿にしないでください! お金ならちゃんと持ってきてるんだ、多少高くたって大丈夫」
俺はポケットのふくらみを右手で確認しながら言った。
貯蓄していたお年玉やらバイト代やらをほとんど持ってきたんだ。今の俺に買えないものなど――
「590万」
少女は無味乾燥な声でポツリ呟いた。俺は予想外の額に素っ頓狂な声を上げる。
「へ?」
「それと同じタイプの、本物の惚れ薬。590万円」
唖然として声が出なかった。
590万って言ったら、その辺のサラリーマンの年収と変わらないじゃないか。
「ちなみに、擬似の方は4万円。さ、どうする?」
俺の答えは言うまでもなかった。
*********
翌日、俺は意気揚々と学校へ出かけた。
鞄には例の擬似惚れ薬が。
少女によると、この惚れ薬の作用は性別、年齢、種族関係なく効くんだそうだ。つまり、お母さんにもお父さんにもペットのミケにも効果があるという事で、彼らが俺にときめいてしまうのは不都合である。よって、まだ惚れ薬は使っていない。
正直早く試したくてうずうずしている。教室に辿り着き、自分の席に座ったところでその欲望は爆発した。
周りに女子しかいない場所で使うのが一番いいのだが、生憎そんな都合良い機会などめったに訪れないだろう。男子まで俺にときめくのは問題があるが、まぁ多少の犠牲は仕方がない。
俺は鞄から惚れ薬を引っ張り出し、瓶のふたを丁重に開けた。ほのかに甘い香りがする。これが恋の匂いか。
そして俺は心臓の高鳴りを感じながら、自らの手首に桃色の液体を2滴たらした。甘い匂いがふわりと広がる。恋の成分もふわりと広がる。
任務完了だ。後は待つだけ。
俺は弾む心を押えながら、その時が来る瞬間を心待ちにした。
*********
「おかしい……」
俺は思わず唸った。
女子からの告白が一件もないのだ。呼び出しもかからなければ、メールアドレスを聞かれることもなかった。ついでに言うと、下駄箱や机周りをくまなく探してもラブレターは発見できなかった。ラブレターにすごく憧れていただけに、悲しみも人一倍である。
放課後、なんだか女子たちがソワソワしていたのは確認できたので、惚れ薬の効果はいかんなく発揮されたのであろう。あとは女子たちが勇気を振り絞るのを待つばかりという事か……。
とかいう甘い幻想は翌朝の教室にて粉々に砕かれた。
なんて眩しい光景だろう。我が教室にて仲睦まじく寄り添う男女が1組、2組、3組、4組、5組……数えるのも煩わしい。
どういう事なのだ。どうして雨の後のタケノコの如くカップルが大増殖しているのだ。俺に告白してきた女子は皆無だというのに。
腹が痛くなるほど悩んだ結果、一筋の答えが見えた。
恋のドキドキだと勘違いさせることに成功しても、その恋の相手を限定させることは不可能だという事だ。確かに俺が女だったとして、ドキドキの相手がこんなデブだとは夢にも思うまい。まして、ここは周りに男子がたくさんいる教室である。好みの男だって何人かいるだろう。ここで惚れ薬作戦を決行したところで、カップル大増殖テロを巻き起こすだけである。迂闊だった。
しかし俺はこれでへこたれる男ではない。道具とは使い手によってゴミにも宝にも成り得るのだ。俺はこの素晴らしい道具をゴミにするほど愚かではない。
次の作戦の準備のため、俺は頭をフル回転させた。
**********
恋の相手を限定させることはできない。
という事は、俺とその子しかいない状況で惚れ薬を使えば良いだけではないか!
と、簡単に思ったもののそんな状況なんてなかなかない。2人きりで帰宅できるような関係の女子がいるなら問題はないが、そんな恵まれた環境にいるやつは4万も出して惚れ薬を買う必要はないように思われる。
そこで絞り出した結論が、保健室だ。
俺は滝のように汗をかきながらおぼつかない足取りで先生の元へ赴き、保健室へ行く許可を取った。この季節に汗をかくのを、一般の方々は異常だと思ってくれる。実際は廊下を少し走っただけなのだが。
「大丈夫か? 帰っても良いんだぞ?」
という先生の慈悲深い言葉に慌てて首を振り、俺は保健室へ直行した。
学校の隅にある白い引き戸を開けると、あの独特のにおいが鼻をついた。そして白衣に身を包んだ天使が俺を迎える。
「あら、いらっしゃい。気分が悪いの?」
優しく甘い声が俺を包み込む。
ターゲットは我が校の白衣の天使。水石先生だ。
水石先生は同年代の小娘では満足できない通な男たちからの憧れの人だが、その鉄壁の守りを潜り抜けて恋仲になれた者は誰一人いないという。
幸い、保健室には先生以外誰もいない。俺と美女が一つの部屋に2人きり……最高の環境が整っている。
俺は頭が痛いだの熱がありそうだのと適当言ってベッドに潜り込むことに成功した。
「結構風邪が流行っているのよね。あなたもちゃんと体を休めるのよ? 若い子は体力があるからついつい無茶な事をしがちだけど、無敵じゃないんだから」
あぁ、あなたの美しさは無敵です。
そんな事を呟きそうな口を慌てて押さえて、俺は素直に頷いた。先生は俺に眩しいくらいの笑顔を見せると、「お大事にね」といって純白のカーテンを閉めた。
俺はポケットに隠し持っていた惚れ薬を手首にチョチョイと付け、来たるべき甘美な瞬間に備えた。
甘い香りが部屋に漂う事10分。ついにその時は訪れた。
「寝てるとこごめんなさい」
先生は急にカーテンを開け、その美しい顔をのぞかせた。先生の顔はうっすらと紅潮していて、少し息が上がっている。同年代の女子にはない色っぽさがあって、ちょっとどきりとした。
「あの、保健室の先生がこんなこと言うの恥ずかしいんだけど……」
きたきた!!
俺はゴクリと唾をのみ、次の言葉を待つ。
先生は小さくため息を吐いて、言いにくそうに口を開いた。
「なんだか体調が悪いの。さっき偉そうなこと言っちゃってなんなんだけど、なんだか熱もあるみたいで……。今日はもう上がらせてもらうわ。保健室は開けておくから、もし何かあったら職員室へ行きなさい。よろしくね」
先生はそう言ってピシャリとカーテンを閉めた。
ガラガラと戸の閉まる音が、先生の退室を俺に知らせる。
「マジかよ……」
俺は布団をかぶって絶望に打ちひしがれた。なんだか本当に気分が悪くなってきた気がする。
***********
なんどか二人きり惚れ薬作戦を決行したが、結果はすべて同じだった。みんな惚れ薬による動悸、眩暈、体温の上昇を単なる体調不良と断定してしまったのだ。
さすがの俺も、しばらくはショックで寝込んだ。なんせ、4万円を他人の恋のキューピッドになるため、それと女の子を体調不良にさせる疫病神になるために使ってしまったのだ。ここで絶望せずにいつ絶望するというのだ。
大好きな牛丼も喉を通らず、のり塩ポテトチップスもバニラアイスも俺の心を慰めることはできなかった。俺はただただ苦い苦い珈琲を飲んで過ごすこととなった。絶食して大嫌いな苦い珈琲を飲むという事は、俺にとっての自傷行為である。どれだけ俺が気を病んでいたか、是非くみ取っていただきたい。
しかし、それが意外な副作用を生むこととなった。
4万円もしたのに部屋で埃をかぶらせるのももったいないので、一縷の望みをかけて毎日惚れ薬を手首に塗っていた。もちろん俺に告白してくる強者は現れなかったが、ある時女子が俺を見る目に微妙な変化が加わったのに気が付いたのだ。
それを言葉で説明するのは難しいが、今まで犬や猫と言った動物を見るような視線で見られていた俺を、人間として見てくれているような感じだ。
そこで俺は考えた。
この視線の変化の前後に一体何があったのか。
複数人の女子にこの変化は見られた。だから俺の方に何か変化があったに違いないと考えたのだ。
そこで浮かび上がったのが、体重の減少である。毎日コーヒーしか飲まなかった結果、一月で体重が20キロも落ちたのだ。
俺は考えた。もしかして、俺は徐々に女子たちのストライクゾーンに近づいて行っているのではないかと。今の状況では、俺は女子たちの眼中に全くないため、彼女たちはドキドキを感じてもそれを体調の変化だと決めつけてしまう。しかし、俺がストライクゾーンに入ることができたらどうだろう。
この日より、俺の壮絶なダイエット生活は幕を開けた。
**********
「こんにちは、お久しぶりです」
俺は雑多屋「Häuschen」の戸を開くなり、笑顔で声を上げた。
店主の少女は相変わらず不機嫌な顔をして、部屋の隅っこで本を読んでいる。俺に気付いて顔を上げると、少女は怪訝そうな顔をして口を開いた。
「いらっしゃい……どこかで、会ったかしら」
分からないのも無理はない。俺は彼女に歩み寄り、例の惚れ薬をポケットからだして軽く振って見せた。チャプチャプとなかの液体が揺れる音がする。
「擬似惚れ薬を買った者ですよ」
「……あぁ、ずいぶんと痩せたね」
少女は大きくて真っ黒な瞳をくりくりさせながら驚いた顔をして見せた。
俺はにやりと笑い、「そうですかね?」などと嘯いた。
「お陰様で、もう僕モテモテですよ。人生180度変わりました」
「そう、なによりだね」
「ええ。これのおかげです。なんせ、毎日これを付けて授業を受けていましたからね」
「……毎日?」
少女は眉をひそめた。
俺は彼女の表情の変化の意味が分からず、首をかしげる。
「はい。最初の頃は皆僕の事を恋愛対象に見てくれなかったので。やけになって毎日付けていったんです。おかげで、自分がどんどんクラスメイト達のストライクゾーンに入っていくのが分かって――」
「それ、惚れ薬の効果とは、無関係だよ」
「へ?」
少女の唐突な言葉に、俺は素っ頓狂な声を上げた。
「だってそれ、ずっと嗅いでると耐性がついて、効き目が出なくなっちゃうもん。毎日付けてたら、2か月くらいで、何も感じなくなっちゃうんじゃないかな」
「えっ、だって……みんな僕の事好きだって言ってくれますよ? ちゃんと効果出てます」
「だからそれは、薬の効果じゃなくて……」
少女は僕のつま先から頭までを眺め、そして小さくため息を吐いた。
「あなたの、実力でしょ」
俺は言葉を失った。
自分が、あんなに醜かった自分が自分自身の力でモテているなんて信じられない。
呆然と立ち尽くす俺を見て、魔女はにっこり笑った。あの邪悪な笑みではなく、年相応の可愛らしい笑顔だ。
「まぁ、話を聞かせてよ。ケーキを焼いたから、持ってくる。あんたが最初に尋ねてきたとき、失敗したザッハトルテだよ。今回は、うまくできたんだ」
そう言って少女は読んでいた本を俺に向けて広げて見せた。
外国語の文字と共に、ケーキの絵が描いてある。どうやらレシピ集らしい。
あの時、どうしてあんなに不機嫌そうな顔をしていたのか少しわかった気がする。いや、今もなかなかの不機嫌顔だからもともとこういう顔なのかもしれないけど。