信用
昔、彼は何からも逃げない男だった。
どんな辛い状況に追い込まれたとしても、歯を食いしばって全て受け入れようとしていた。この暗い世の中で、少しでも誠実に生きられるよう日々努力する人だった。
それは、最も愛していた妻が、実の弟に奪われた時でさえ変わらなかった。彼は無言のまま耐えた。「お前って、まじツマンネー男だったよ。ありえねーわ」と逃げていく妻から暴言を吐き捨てられたとしても何も言い返さない。いや、それどころか、妻と弟が押しつけてきた借金すらも、四年がかりで返済したのである。
「……別にお前が返す必要は無かったんだぞ」
そう父親は諭した。むしろ、慰謝料を請求したり、ぶん殴ったとしても世間は許してくれるだろう、とさえ伝えたのだ。しかし、それでも彼は「自分の責任だ」という一言だけで、寝る間も惜しんで働き続けたのであった。
どうして、そこまで逃げずにいられるのか不思議に思った父親は、彼に理由を尋ねた。
「確かに色々と辛いよ。でも、これは自分のためなんだ、父さん。もし、ここで逃げたら今は楽になっても後で後悔する。自分の発した言葉や行動って、回り回っていつかは自分の元に返ってくるものさ。でも、それが自分に対してだけじゃなく、自分の家族や、自分の子供の不幸になるかもしれない。それがさ、僕はたまらなくイヤなんだよ」
彼は弱々しい笑みを浮かべていた。
その元妻やろくでなしの弟に対して愚痴の一言も呟かない姿を見て、父親は微かに涙を流していたのだった。
だが、ある時、そんな彼が逃げ出した。
どうしたのだろうかと、回りの人間達は不思議に思った。
取調室で、刑事は男に理由を尋ねた。
「……全ては、ビルの窓を開けた、それだけでした。すると、密封性の高い建物だったので1つしかなかった反対のドアが開き、その衝撃で壁により掛かっていたホウキが倒れて階段から落ちて、下の階に置いてあった消化器に命中し、噴出して動き出したまま元妻の頭にぶつかり、そのまま窓の外に飛び出すと、下には偶然にも弟が歩いていた。そして、二人とも衝突して死んだんです。こんな事ありえませんよね。本当の事なのに、信用して貰えませんよね。だって、話している僕だって、これは神さまのイタズラとしか思えないぐらい偶然が重なったと感じていますもの。きっと、これが他の人の話なら、そんなの出来すぎたウソだと僕だって信じませんよ!
それが分かっていたから逃げたんです。
こんな罪で捕まっても納得できませんよ。
本当に殺す気なんて無かったのに、神さまから殺意を押しつけられたら、そりゃ僕だって逃げますって!」