文学の文学の終わりで始まり
僕は文学って奴が嫌いだ。
大抵、独り善がりの価値観や偏屈的なキャラクターを作り上げているだけで、小説の作りとしてベタベタな演出の物語が多い。しかも、心が弱いのだの、人を殺しただの、強姦されただの、恋人が奪われただの、時代に狂わされただの。人間としての自然な苦しみを共感性の高い文章で纏めただけじゃないか。
下らない。
僕が生まれついての天の邪鬼ってだけかもしれないが、そんなのより頭空っぽにして読めるアクション小説の方がマシだね。
100歩譲って、過去の名作と呼ばれる作品達は時代性の参考として評価するのならまだ理解できるが、今の時代の文学は全てカスに等しいとしか僕には思えない。大抵、ちっぽけな性欲の衝動か顕示欲に踊らされるだけで、薄っぺらい人生を歩んでいるのが文面から伝わってくるからである。
単純な性欲、暴力、弱者に取り憑かれている自分が好きなだけなんだよ、文学ってさ。
※
まあ、いつの時代でも愛って奴に囚われてしまうのは理解できるよ。生物として異性に惹かれるってのは当然だし、それが人生の中心にあるのもまた事実なんだから仕方がない。
最近の寿命を延ばす研究だと、長生きできる代わりに副作用としてホルモン分泌が低下し、結果的に性欲と仕事の欲が同時に消えてしまうんだとか。そんなんだったら長生きする意味が無いようにも思えるけど、人間の脳みその中で異性って奴に対する欲望ってのはとても大事な所にあるんだろうね。
「あ、お待たせー」
広場に立っていた僕に話し掛けてきたのは、同じ大学に通っている素心ちゃんだった。
「うんうん、全然待ってないよ」
「あ、そうなんだ。ちょっと大学の売店で買い物してたから遅れちゃったと思ってた」
そう言うと素心ちゃんは自分の腕を付けていた時計を見ようとしていたので、(何せ本当は30分も遅刻している)僕は慌てて別の話題を振ることにした。相手に気を使わせちゃ悪いしね。
「ああ、そう。それで、何を買ったの?」
「え」
「売店に行ったんでしょ」
「別にフツーよ」
「普通って?」
すると素心ちゃんは、はにかんだように微笑んだ。
「もー、イヤねー。本当に大した物は買ってないわよ」
「だってさ、大学の売店なんて、ちょっとした物しか売ってないし、何より高いじゃないか」
「あー、それはあるある。シャーペンなんて200円もするものね」
「今時、そんなのを買うのは、次の講義に間に合わない人ぐらいだろう」
僕が意地悪そうに言うと、素心ちゃんは雲一つ無い青空のように澄み切った顔で笑いだしていた。
「ねぇ、それって私の事を遠回しに言ってるんでしょ?」
「あははは、バレた」
「ふふ、私の次の抗議は3時間後よ」
「そうなんだ」
「でも、それ気をつけた方が良いわ」
「ん、何が?」
「その言い方だと、私がシャーペンを借りられる友達が居ない奴、って遠回しに聞こえるから」
それを聞いて僕は目を丸くしてしまう。
「ぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ! いやいやいやいや、ぼ、僕はそんな意味で言ったんじゃないよ! 素心ちゃんをバカにするつもりなんて無いし、素心ちゃんには友達が沢山いるのも知ってるし。ただ、世の中の道理として、そういうパターンが多いって気がして……」
「分かってるわよ。だから、気をつけた方が良いって先に忠告したんじゃない。悪気が無くても、相手を傷つけてしまう言葉だってあるんだから」
「……う、うん。ごめん」
「別に謝り必要なんてないわ。友達でしょ」
そう悪気もなく話す彼女を見て、一瞬、僕の心はズキッと痛んでいだ。
友達。
つまり、そういう軽い言葉を掛けられるぐらいの関係なのである、僕達は。
素心ちゃんは、まるで和服が似合いそうな艶やかな顔作りと触ったら吸い付きそうなぐらい白い肌の美人で、その穏やでサッパリとした性格から大学内でもかなり人気があった。勿論、全員からアンケートをとって回ったワケではないが、今のように歩いているだけで道行く男達の視線が真実を語りかけてくるのであった。
その度に、隣を歩く友達の1人である僕の心は、どうしても鈍い痛みを感じずにはいられなかった。
「あれ、じゃあ、シャーペンはなんで買ったの?」
大学内にある食堂に向かっていた僕達は、その道すがら素心ちゃんに尋ねた。
「んー、休み時間に書きたくてね」
「シャーペンで? それだったらパソコンでやって、プリントアウトすればいいじゃない」
「んーん、それじゃあダメなの。最初から楽をすれば、きっと色々と甘えてしまう。だから、私の手で、一文字一文字、意味を込めて原稿用紙に書いてみたいの。私だけの物語をね」
「物語って、小説とか?」
「ええ、そうなの」
「へー、素心ちゃんにそんな趣味があるとは知らなかったよ」
「ふふ。でも、まだ書いてる途中だから誰にも教えないでね」
「当たり前、当たり前。ちなみに、どんな物語を書いているの?」
「文学よ」
そう胸を張って答えている素心ちゃんを見て、僕は違う意味で心臓がドキリとしていた。
「へ、へー、文学なんだ……」
「ええ」
「そう……」
何となくだが嫌な予感がした僕は、早々に話しの方向を変えようとした。
が。
その前に、
「ねぇ、良ければ読んでみてくれない? まだ簡易版なんだけど」
と、素心ちゃんに頼まれてしまったのである。
美女からの頼み事を断れる男なんて、この世の中には居ない。例え死にかけた爺さんだろうと、鼻でスパゲティーを食べるし、目でピーナッツを噛むだろう。
やがて僕は項垂れた様子で原稿用紙を受け取ったのであった。
その物語を率直に評価するとしたら、チープの一言で終わってしまった。
主人公の女は、複数の男にレイプされ、初恋だった男からは処女では無い身体はボロ雑巾と同じだと言われ、好きでもない男と結婚するという話しである。要するに、色々あったけど普通に幸せですという、現状に不満を抱いている事が多い女性が共感を得やすい演出だった。
さあ、どうしたものか。
「面白かった?」
僕が顔を上げて読み終わった事を察した素心ちゃんは、目をキラキラとさせて感想を尋ねてきていた。その顔は純粋というか、ほ乳瓶を差し出された時の子犬のようで、股間がムズムズするぐらい可愛かった。
これが告白とか世間話だったら、どんなに良かったものか。
「そ、そうだね。良かったよ」
脇が冷や汗でビッショリと濡れていた僕は、やっとの事で喉の奥から当たり障りのない言葉を引き摺り出した。
が。
目の前にいる天真の女性は、それだけでは物足りなかったようである。唇をツーンと尖らしていた。
「良かったって、どう良かったと思うの?」
「それは……」
「私は、まだプロじゃないし、これ簡易版だから遠慮無しに言ってちょうだい」
「う、うーん」
「ねぇ、ちゃんと言って良いのよ。私達、友達じゃない」
「……そ、そうだけど」
「それとも何にも感じなかったとか?」
「……そ、そういうワケでもないんだけど」
「じゃあ、何よハッキリして!」
辺りがざわつく。
素心ちゃんは大学内の往来と言うことも忘れて怒鳴ったのだ。キリリと整った眉毛が歪み、僕のことを怒った瞳で睨んでいた。
やがて、
「……友達だと思ってたのに。本音で話し合える関係だと思ってたのに。だから、秘密の小説を見せたのに。酷いわ!」
と言って、僕の頬をパチンと叩いてのである。
音からすれば、爆竹みたいなものだろう。
だが、女性に叩かれた事がない人には分からないかも知れないけど、ビンタって奴はこれはこれでかなり痛い。目玉から火種が飛び出し、鼻の奥がツーンとしてくるぐらいの打撃なのだ。
「あ! 待って、待ってよ!」
僕は頬と首を教えながら、怒って歩き出してしまった素心ちゃんを追いかけたのだった。
しかし、だ。
追いついたとして、僕は何といえばいいのだろうか。
仮に、文学が嫌いだと本音を話したとする。当然、他人が本気で描いた作品を、こっちの理由だけで全てを拒否してしまえば嫌われてしまう可能性が高い。
また、仮に文学が好きだと嘘を付いたとしよう。素心ちゃんが求めている言葉を察し、変化球を付けた形で誉めてあげればきっと喜ぶだろう。ただ、友達を騙したという後ろめたさと心労が溜まるだけで、全ては丸く収まる可能性が高い。
僕はどっちを選べばいいのか。
素心ちゃんに追いつく2.3秒前に、それ決めなければならない。
それが問題だった。
※
「いやー、最高だよ! この人間関係が織りなす多感な悲哀! 苦しみと憎しみ、そして痛みと性欲を無くして本当の愛は語れない。とてもじゃないけど素人が書いた作品とは思えないね。さっきはさ、上手くこの気持ちが伝えられるか分からなかったから黙ってしまったんだよ!」
僕の選択は、後者だった。
本当のことを全て話した挙げ句、自ら他人に嫌われるような事をするのはモラルとして間違っているし、落とし所を見付けて付き合っていくのが友達っていうものだと思ったからだ。
「そうかー、ありがとー。少し自信が付いたよー」
本当に嬉しいのか、僕に誉められて素心ちゃんは頬を赤くして笑っていた。
「いやいや、こんな感想を言うのなんてお安いご用さ」
おっと、僕のことを美女に好かれたいだけの安っぽい男だと勘違いしないくれよ。女性を怒らせたり泣かせる趣味でもない限り、大抵の男子は同じようなことをしたと思うね。
それに最初、性欲、暴力、弱者の3つに踊らされていのが文学だって言っただろ。まさに、悩んだり、叩かれたり、性欲が沸いたりしていた僕の行動が、文学そのものだったとは思えないだろうか。
そう考えるとさ。
文学も、そう悪いものじゃないって思えるようになったんだよね、僕は。
「ありがとう。こんなに誉められたの初めてだから嬉しいわ」
素心ちゃんは僕から原稿を受け取ると、鞄にしまっていた。
その姿を僕は満足そうに眺めた。
寧ろ君のお陰で、あんなに嫌いだった文学が好きになってきたという気持ちを伝えたかったが、全部を話すワケにも行かないので止めておいた。
「本当のことを言ったまでだよ」
「なんか照れるなぁ」
「いやいや、こういうものは大いに受け入れた方が良いよ。反省なら後でも出来るしね」
「ふふ。そこまで君に誉められたのなら、彼氏に見せても良いかもしれない。文学を書いた方が良いって薦めてくれたのも彼氏なの」
「え」
「あ、ごめん。当てつけで言ったわけじゃないの。ただ、やっぱり彼氏には変な所を見せたくなかったし、君になら見せてもいいかなって思って……」
「え」
僕は目が点になっていた。
「でも、変な事を言って本当にゴメン。さっき無意識に他人を傷つける言葉がある、って自分から言ったのに。バカだよね。でも、私も反省するから、おあいこって事で良いよね」
「え」
「早速、見せに行くから、じゃあね。本当にありがとう」
そう呟く素心ちゃんの顔は初心に満ちており、この世のどんな宝石よりも輝いていた。
「え」
ゆっくりと離れていく彼女の後ろ姿を眺めつつ、暫くの間、僕は動くことが出来なくなっていたのだった。
「え」
そして、また文学なんて大嫌いだと僕が言うようになったのは、それから太陽が完全に沈んでしまった8時間も後の事であった。