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第4話:成層圏の予言者

 振替便の機内は空いていた。


 三四郎は昨夜のおさらいをするように、空いた隣の席を見つめていた。あの女は一体何だったのだろう。あんなに落ち着いて、平気でいられるものだろうか。自分がこれまで信じてきた、教育や道徳という物差しが、彼女の前では何の役にも立たなかった。「度胸がない」という言葉が、二十三年の弱点を正確に撃ち抜いて、今も胸に突き刺さっている。


「新聞はいかがですか」


 客室乗務員から受け取った新聞には、ウクライナ情勢の長期化と物価高の記事ばかりが並んでいた。


「君は、学生さん?」


 不意に横から声をかけられ、三四郎は飛び上がるほど驚いた。

 通路を挟んだ隣の席に、髭を濃く蓄えた男が座っていた。面長の痩せぎすで、どこか神主のような、あるいは古い時代の文士のような風貌をしている。男はノイズキャンセリングヘッドホンを首にかけ、膝の上の使い込まれたレッツノートにはIT企業のステッカーが乱雑に貼られていた。


「ええ。……ただ、今年からは東京の大学院へ」

「ほう、そう。……名古屋から?」

「いえ、熊本からです」


 男はそれ以上、三四郎の学歴に興味を示す風でもなかった。ただ窓の外を眺め、悠然と電子タバコをポケットから取り出しては、思い出したように引っ込めている。

 機体が安定し、ベルトサインが消えると、男はおもむろにバックパックからパッケージを取り出した。


「食べませんか。これ、仙人の味がするんだ」


 差し出されたのは、桃のキットカットだった。


「桃、ですか」


「岡山限定のやつだよ。桃という果物は、どうも馬鹿みたいに無防備な味がしていい」


 やがて、機内アナウンスが響いた。

『皆様、左手前方をご覧ください。ただいま雲海の上に、富士山が美しく姿を現しております』


 三四郎は言われるまま、窓に顔を寄せた。

 そこには、朝の陽光を浴びて、果てしなく続く白い雲の海を突き抜けた富士の頂があった。空から見下ろす富士は、地上から仰ぎ見る姿よりもずっと孤独で、しかし圧倒的な質量を持ってそこに存在していた。三四郎は思わずスマートフォンを向け、その姿を写真に収めようとした。


「綺麗でしょう」


 髭の男が、画面も見ずに言った。


「あれが、この国が唯一世界に自慢できる、天然のコンテンツだ。ところが、あれは我々が作ったものじゃない。大昔からあそこにあるだけだ」


 男はにやりと笑った。その笑い方は、どこか今朝別れたあの女の笑みに似ていた。


「我々がこしらえたものは、もっと醜くて、もっと脆い。見てごらん、これから降りていくあの街を」


 雲が切れ、眼下に広大な関東平野が姿を現した。密集するビル群、毛細血管のように張り巡らされた高架道路、絶え間なく明滅する都市の光。


「日本はこれから発展するでしょうか」


 三四郎は、自分の不安を打ち消すように聞いた。すると男は、事もなげに言った。


「滅びるね」


 三四郎は言葉を失った。今のネット社会でそんなことを公言すれば、すぐに「パヨク」扱いされて炎上し「ネトウヨ」の餌食になるだろう。しかし、この高度一万メートルの密室で、男の声はあまりに落ち着いて、冷徹な真実のように響いた。


「……滅びる?」

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。そしてね、三四郎君」


 男は、なぜか三四郎の名前を知っているかのような口調で続けた。


「日本より、君の頭の中のほうがずっと広いはずだ。とらわれちゃいけない。いくら日本のためを思ったって、自分をその枠に閉じ込めてしまえば、それは贔屓の引き倒しになるばかりだ」


 この言葉を聞いた瞬間、三四郎は自分が本当の意味で故郷を離れ、別の世界に足を踏み入れたことを悟った。あの女に「度胸がない」と言われた屈辱も、自分が抱えてきた卑怯な自意識も、この広大な空の下では、取るに足らない小さな塵のようなものに思えた。


 やがて機体は羽田空港の滑走路へと滑り込んだ。

 髭の男は、コンコースの人波に消える際も名前を明かさなかった。三四郎は、東京へ行きさえすれば、この男のような人間は到るところにいるのだと信じて、あえて名前を尋ねることもなかった。


 モノレールの窓から、三四郎は初めて見る東京の迷宮を眺めていた。トートバッグの中には、まだベーコンの論文集と、昨夜の女が残した微かな残りガ、そして「頭の中の広さ」という不敵な預言が詰まっている。

 三四郎はそっと、メモアプリを開いた。最初の一頁に、彼はただ「ストレイ・シープ」とだけ記そうとして、やめた。

 東京は、ひどく眩しく、ひどく広かった。

本作はGemini3による執筆です。

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