第3話:境界線の夜
やがて浴室の戸が開いた。
三四郎が反射的に顔を上げると、そこにはホテルの薄いガウンを羽織り、蒸気とともに現れた女がいた。髪は濡れたまま肩に落ち、さっきまでの「旅人」としての武装を解いた彼女の姿は、あまりに生々しく三四郎の視界に飛び込んできた。
「お待たせしました。どうぞ」
女は鏡の前で髪を乾かし始めた。ドライヤーの騒音が、三四郎の思考をかき乱す。彼は逃げ込むように浴室へ入り、鍵をかけた。
浴槽はひどく狭く、底は少し黒ずんでいた。三四郎はシャワーの熱い湯を頭から浴びながら、必死に自分に言い聞かせた。
(これは事故だ。不可抗力だ。自分は紳士として振る舞えばいい)
しかし、いざ浴室を出て部屋に戻ると、さらなる試練が待っていた。
女はすでに広大なベッドの片側に身を寄せ、掛け布団の下に潜り込んでいた。スマートフォンの青白い光が、彼女の顔をぼんやりと照らしている。
三四郎が立ち尽くしていると、残された半分のスペース――誰もいない真っ白なシーツの広がり――が、底知れぬ深淵のように思えた。シーツには縫い目一つなく、そこには物理的な区切りなど何ひとつ存在しない。
三四郎は意を決して鞄から私物を取り出した。
まず、読みもしないベーコンの論文集が入ったKindleを、ベッドのちょうど中央、彼女と自分の領分の境目あたりに置いた。次に、ノートパソコンを縦に並べた。さらに、モバイルバッテリーと、絡まり合った白い充電ケーブルをその上に這わせ、蛇のようにとぐろを巻かせた。
それは、同じシーツの上で築き上げた、あまりに脆弱で、しかし切実な「境界線」だった。
「……何をしているの?」
女が横を向いて、くすりと笑った。
「いえ、僕は少し神経質で……その、デバイスを整理しておかないと落ち着かないんです。蚤除け……じゃなくて、セキュリティの、ようなものです」
三四郎は支離滅裂なことを言いながら、自分の領土の端に身を横たえ、ノイズキャンセリングヘッドホンを装着した。スマートフォンの音楽を最大音量で流す。外部の音を遮断し、自分だけの世界に閉じこもる。それが彼の精一杯の防御だった。
三四郎は直立不動で仰向けになり、天井のシミを見つめていた。
耳元では激しい電子音が鳴り響いているが、視覚と触覚はかえって鋭敏になっていた。
同じマットレスの上にいるせいで、彼女が寝返りを打つたび、スプリングを通してその振動が波のように伝わってくる。シーツが擦れる音さえ聞こえてきそうだった。
彼女は今、何を思っているのだろうか。
夫からのPayPayの送金が途絶え、子供を実家に預け、行き場を失って、見知らぬ学生と同じ布団に入っている。その過酷な現実を前に、なぜこれほどまでに落ち着いていられるのか。
三四郎は、自分の築いたガジェットの城壁がいかに滑稽であるかを悟り始めた。彼女は広い世界という荒波の中で生きている。対して自分は、同じベッドの上のわずかな領土を守るために、電子機器を並べて必死に「純潔」を主張している子供に過ぎない。
夜はようよう明けた。
カーテンの隙間から、常滑の冷めた朝日が差し込んできた。
三四郎が目を覚ますと、女はすでに身支度を整え、窓の外を眺めていた。昨夜の生々しさは消え、再びあの洗練された「都会の女」に戻っていた。
「おはようございます。よく眠れた?」
女がにこりと笑って聞いた。
「ええ、おかげさまで」
三四郎は、緊張で体の節々が痛むのをこらえながら、嘘をついた。自分の腹のあたりを見ると、昨夜必死で並べた境界線は決壊し、ケーブルが情けなく自分の体に巻き付いていた。
チェックアウトを済ませ、ホテルの玄関を出ると、空気は昨夜の雨を含んでしっとりと重かった。
「空港へ戻りましょうか。」
女の足取りは軽く、三四郎はその背中を追うのが精一杯だった。
空港に着き、出発ロビーのチェックインカウンターの前に来た時、女が急に足を止めた。
「私、ここで。……いろいろごやっかいになりまして、……ではごきげんよう」
女は丁寧にお辞儀をした。三四郎はトートバッグとKindleを片手に持ったまま、あいた手で寝癖のついた頭をかいて、ただ一言、
「さよなら」と言った。
女はその顔をじっとながめていた。が、やがておちついた調子で、
「あなたはよっぽど度胸のないかたですね」
と言って、にやりと笑った。
三四郎は動く歩道の上へはじき出されたような心持ちがした。機内に入ったら両方の耳がいっそうほてりだした。しばらくはじっと小さくなっていた。やがて機体は凄まじい音を立てて滑走し、浮き上がった。三四郎はそっと窓から下を見た。女はとくの昔にどこかへ行ってしまった。灰色の雲ばかりが目についた。




