第2話:セントレアの漂流者
機体がセントレアの滑走路に接地したとき、機内には安堵というよりも、重苦しい諦念のような溜息が漏れた。三四郎がスマートフォンを機内モードから戻すと、LINEの通知が矢継ぎ早に跳ねた。三輪田のお光さんからだ。「もう着いた?」「東京は雨すごいみたいだけど大丈夫?」。三四郎はそれらに既読をつける気にもなれず、ただ画面を閉じた。
夜の中部国際空港は、本来の目的地ではないという疎外感に満ちていた。
地上カウンターの前には、振替便や宿泊先を求める乗客が長い列を作っている。三四郎は、大きなスーツケースを本郷の寮まで配送手続きしておいた自分を呪った。手元にあるのは、着替えの入ったトートバッグと、読みかけの「ベーコン論文集」が入ったKindle Paperwhiteだけである。
ふと視線を感じて振り返ると、例の女がすぐ後ろに立っていた。
「困りましたね」
女は困惑しているというより、どこかこの状況を観察しているような、静かな声を出し。三四郎は「そうですね」と生返事をするのが精一杯だった。
順番が来たとき、地上係員は疲れ切った顔で事務的に告げた。
「申し訳ございません。航空会社で手配できる近隣のホテルは、すでにご家族連れやご高齢の方で埋まってしまいまして……。現在、少し離れた常滑市内のビジネスホテルでしたら一室、こちらで確保できております。タクシーチケットをお出ししますので、そちらへ向かっていただけますか?」
一室。
三四郎はその言葉の響きに心臓が跳ねた。
「あの、一部屋というのは、シングルが二つ……ということでしょうか」
「いえ、あいにく本日は周辺のイベントと重なっておりまして。ツインのお部屋を一室、お二人でシェアしていただく形になります。もちろん、他のお宿を個人で探していただいても構いませんが、この時間ですと……」
三四郎は逡巡した。二十三歳の大学生が、見知らぬ大人の女性と同じ部屋に泊まるなど、断じてあってはならないことのように思えた。しかし、見知らぬ土地の深夜、雨が降り出した外の闇を見ると、断固として拒否する勇気も湧いてこない。
「私は、構いませんよ」
女が横からさらりと言った。「一人で夜道を歩くほうが怖いですから。……案内してくださる?」
彼女の言い方は、命令でも懇願でもなく、ただ当然の帰結を受け入れているようだった。三四郎は結局、うなずくしかなかった。
タクシーは雨の中、街灯の少ない夜道を走った。
到着したホテルは、看板のネオンが半分消えかかった、古びたビジネスホテルだった。フロントで二人分のレジストレーションカードを差し出されたとき、三四郎は手が震えた。
三四郎はカードを取り上げて、福岡県 京都郡 みやこ町(旧みやこぐん真崎村)小川三四郎。そして職業欄に「学生」と正直に書いたが、しかし、女の欄に差し掛かって、彼は筆を止めてしまった。彼女にペンを渡すべきだったが、彼女は少し離れたソファでスマートフォンを弄っている。
受付の男が、早くしろと言わんばかりに三四郎を凝視している。三四郎はやむを得ず、自分の名字の隣に、お光さん姉の名前「花」を借りて、適当な年齢を書き込み、夫婦か姉弟であるかのような体裁で宿泊票を押し返した。
案内された「梅の四番」ならぬ「402号室」は、期待に違わず狭かった。
三四郎はドアを開けた瞬間、思わず後ずさりしそうになった。
地上係員はたしかに「一室」と言った。だが、眼前に鎮座しているのは、部屋の床面積の大半を占領する、広大な一台のベッドだった。
ダブルか、あるいはキングサイズか。三四郎には寝具の規格など分からなかったが、二つの枕が仲良く並んでいるそれ(・・)が、「赤の他人と肌を接して眠る」ための装置であることだけは、残酷なほど明白だった。
三四郎は逃げ場を失った動物のような心地になった。部屋の隅には、人間一人が辛うじて座れる程度の硬そうなデスクチェアがあるきりである。
「お先にシャワー、浴びてきてもいいかしら」
女は何事もなかったかのように、巨大なベッドの脇をすり抜けてバッグを置いた。
三四郎は「どうぞ、お先に」と喉の奥で答えるのがやっとだった。
ユニットバスの扉が閉まり、水の流れる音が聞こえ始めた。三四郎は硬いデスクチェアに腰を下ろし、背中を丸めて必死でトートバッグからKindle Paperwhiteを取り出し、ベーコンの論文集を開いた。
活字を目で追うが、一文字も頭に入ってこない。
壁一枚隔てた向こう側で、あの「九州色」の肌を濡らしている女の気配が、湿り気を帯びた音となって三四郎の神経を逆なでする。
振り返れば、そこには雪原のように白いシーツが、主の不在を待ち構えるかのように広がっていた。三四郎はKindleを握りしめたまま、ただじっと動かずにいた。




