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第1話「ノイズの中の静寂」

 浅い眠りから意識が浮上したとき、隣に座る女はいつのまにか、通路を挟んで座るじいさんと話を始めていた。


 このじいさんはたしか、出発ゲートの待合室からずっと三四郎の記憶に残っていた。搭乗直前までスマートフォンで誰かを大声で怒鳴りつけ、機内に入ってからも、狭い座席に無理やり体をねじ込みながら、派手なブランドロゴのポロシャツの襟を乱暴に緩めていた。その首筋に覗く、日焼けの跡といくつものサロンパスが、いかにも地方の現場で叩き上げてきたじいさんの荒っぽさを象徴しているようで、三四郎は無意識に目を逸らしていたのだ。


 女とは福岡空港からの相乗りである。


 搭乗した瞬間から、三四郎の目は彼女に吸い寄せられていた。第一に、肌の色が健康的だ。三四郎は九州から上京するためにこの飛行機を選んだが、いざ離陸し、故郷の山々が雲の下に沈んでいくのを見るにつれ、得体の知れない寂しさに襲われていた。空港でチェックインを済ませてから、ラウンジや搭乗ゲートと進む度に、周囲の人間は白く、無機質に、洗練されていくような気がして、自分がひどく場違いな存在に思えていた。


 だからこそ、この女が隣に座ったとき、なんとなく「同郷の味方」を得たような、心強い心地がした。彼女の纏う空気には、まだ九州の土の匂いや、飾らない強さが残っている。


 地元の幼馴染であるお光さんのことを思い出す。国を出る直前まで、彼女は小うるさい、鬱陶しい存在だった。離れられるのがせいせいすると思っていたはずなのに、こうして空の上に放り出されてみると、お光さんのような愚直な温かさも、決して悪くはなかったと感じる。


 ただ、洗練という点では、この隣の女のほうが圧倒的に上等だった。引き締まった口元、知性を感じさせるはっきりとした目。お光さんのような、どこか締まりのないだだっ広い額とは違う。


 三四郎は五分に一度、タブレットから目を上げては彼女の横顔を盗み見ていた。何度か視線がぶつかりそうになった。三四郎が座席に座る際、彼女が「どうぞ」と自然にスペースを譲り、にこりと笑ったときなどは、三四郎はその横顔をできるだけ長く見ていた。


 それからしばらくして、三四郎は機内の乾燥した空気に当てられ、まどろんでしまったのである。


 その寝ている間に、女とじいさんはすっかり打ち解けていた。


 耳を澄ますと、女の声が聞こえてくる。


「……子供へのお土産は、やっぱり地元で買うより東京のほうが洒落たものがありますから。昨日もイオンモール(いおんもーる)で少し見てきたんですけど、結局どこにでもあるようなものばかりで、決められなくて。久しぶりに里へ帰って子供に会うのは楽しみなんですけど……。ただ、夫からのPayPay(ぺいぺい)の送金が最近パタリとなくなってしまって、今回は実家に身を寄せるつもりなんです」


 女の身の上話は、現代のどこにでもある、切実で乾いた響きを持っていた。夫は半導体メーカーの設備導入エンジニアとして、台湾やアリゾナの工場を飛び回っていたが、ここ一ヶ月ほどLINE(らいん)の既読がつかなくなりがちだという。不実な人ではないと信じているが、このまま遊び暮らすわけにもいかない。安否がわかるまでは、里で待つしかない――。


 じいさんは女の事情に深く同情しているようだった。


「そりゃあ大変だ。今の世の中、真面目に働いてるやつが馬鹿を見る。俺の息子もカスタマーサポート窓口だか何だか知らねえが、24時間、顔も見えない相手から連日カスハラ(かすはら)をぶつけられてな。結局、適応障害になって戻ってきやがった。一体、誰のために経済成長なんて言ってるんだか分かりゃしない。物価ばかり上がって、現場は疲弊するばかりだ。……あんた、信心を忘れちゃいけない。旦那さんも生きて働いてる。もう少しの辛抱だ」


 じいさんはそう言って女を慰めていた。


 やがて機体が高度を下げ始め、ポーンという無機質な電子音とともにベルト着用サインが点灯した。すると、巡回してきた客室乗務員が、前のめりになって話していたじいさんに声をかける。


「お客様、まもなく着陸態勢に入ります。ご自身のお座席にお戻りください」


 じいさんは「では、お大事に」と挨拶をして、自分の座席へと引き上げていった。

 じいさんが去ると、機内には急に静寂が訪れた。窓の外はいつのまにか暮れなずみ、翼の先に点滅するライトが、暗い雲を規則的に照らしている。三四郎は思い出したように、空港の空弁そらべんコーナーで買った「鮎の煮びたし弁当」を食いだした。

 飛行機が着陸に向けて高度を下げ始めた頃だろうか。

 不意に、機内アナウンスが響いた。


『――皆様、機長よりお伝えいたします。当機は羽田付近の激しい雷雨を避け、久しく空に留まって機会を待っておりましたが、雲の去る気配は一向にございません。このまま彷徨ほうこうを続ければ、万一の際、翼を支える油が心細うなるのは必定ひつじょうであります。って、当機はこれより針路を転じ、名古屋はセントレアの地へ向かうことに決意いたしました。降り立った後の始末については、向こうの係の者が何分なにぶんか致しましょう。予定の狂いましたことは遺憾ながら、自然の猛威にはあらがい難く、何卒なにとぞ御承知おき願いたいのであります』


客室乗務員が来て、背もたれを戻すようにと触れて回る。


三四郎はしまいがけの弁当に箸を突っ込んで急いでほおばって空になった弁当の折を始末しなければならない。前の座席の背中には網ポケットがついている。三四郎はこの中へ、折を捻じ込もうとした。しかしポケットには分厚い機内誌やら、国内便なのに免税品のカタログやらがぎっしりと詰まっていて、容易には入りそうもない。


 三四郎は焦った。客室乗務員の視線が気になる。そこで力任せにぐいと押し込んだ。

 箱は無様な音を立ててポケットに潜り込んだ。と同時に、勢い余った三四郎の右肘が、大きく横へ泳いだ。

 どん、と鈍い手応えがあった。隣の女の二の腕を突いたのである。


 女はあっとも言わずに、持っていたボトルを取り落とした。が開いていたとみえて、透明な水がぱしゃりと跳ねた。女の膝の上にあるハンドバッグと、タイトスカートの裾が濡れた。


 三四郎はとんだことをしたと気がついて、ふと女の顔を見た。女は顔をしかめるでもなく、膝の上に広がった染みを眺めている。それからブランド物のタオルハンケチを出して、丁寧に拭き始めた。


 三四郎はともかくもあやまるほうが安全だと考えた。


「ごめんなさい」と言った。


 女は「いいえ」と答えた。まだ濡れたところを拭いている。三四郎はしかたなしに黙ってしまった。女も黙ってしまった。そうしてハンケチをしまうと、また顔を背けて、窓の外を眺めだした。


 機内は暗くなっている。乗客はみんな予定変更に疲れて、寝ぼけた顔をしている。口をきいている者はだれもない。飛行機だけがゴオとすさまじい音をたてて飛ぶ。三四郎は目を眠った。

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