第1章 微細なノイズ ⑤
その朝、由紀は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
「アラームより早く起きるなんて、めずらしい」
自分でも驚きながら、カーテンを開ける。差し込む朝日に思わず目を細めた。窓の外には、いつもと変わらぬ景色が広がっている。
「さあ、今日も一日頑張りますか」
大きく伸びをして、洗面所へと向かった。
――変わらない一日の始まりのはずだった。
土曜日の昼下がり、平日であればこの時間帯は比較的空いているが、週末となると子ども連れや学生、サラリーマン、年齢層も多種多様だ。
「これお願いします」
顔見知りの男の子がカウンターにやってきて、由紀に本を差し出す。
「あら拓海君、今日はひとり?」
「おばあちゃんと来たんだ」
いつも通りの何気ないやり取りをしながら、手早く端末を操作する。
「この本面白いよね」
「うん!僕もう10回以上読んでるよ」
「わあ、すごいね!私もこの本好きだけど、拓海君には敵わないなぁ」
その時、午後の柔らかな光が差し込む広大な館内に、突如として不穏なざわめきが走った。
天井の照明が一斉に明滅し、白い床に揺らめく影が不気味に踊る。来館者のスマートフォンが一斉に震え、次の瞬間には「圏外」の表示に切り替わった。
Libriaの定時放送が途切れ、代わりに低い機械音が空気を震わせる。
ざわめきは瞬く間に広がり、人々の表情から落ち着きが失われていった。
「……電波が、全部……?」
「おかしいわね、こんなの初めて……」
スタッフたちの困惑が広がる中、さらに異変が起こった。
奥の自動書架がぎぎ、と鈍い音を立てて揺れ、大量の書物が棚から雪崩のように落ちた。驚きの悲鳴が響き、近くにいた来館者が慌てて後退する。
その混乱の中、桐生が真っ先に声を上げた。
「皆さん、落ち着いてください! 僕が制御室で手動リセットをかけます」
普段の穏やかさからは想像できない、力強い声が響く。
「朝倉さん、藤川さん、来館者の誘導をお願いします。黒崎さんは非常口の確認を」
迷いのない指示に、誰もが一縷の希望を託すように頷いた。
桐生は身軽に通路を抜け、暴走を起こした自動書架へと近づいていく。
白いポロシャツの背中が照明に照らされ、躊躇なく進んでいく姿は、この混乱の中で唯一の道標に見えた。
その時、轟音が館内を切り裂き、巨大な書架が横に傾いた。山のような質量が崩れ落ち、桐生の姿が瓦礫に飲み込まれる。
「桐生さん!」
紙片と埃が舞い上がり、視界が奪われる。倒れた書架の隙間から僅かに覗く白いポロシャツが、瞬く間に赤く染まっていった。
それが誰のものか、言葉は不要だった。
すかさず黒崎が駆け寄ろうとするが、次の瞬間、さらに別の書架が不安定に揺れ、近づく事が出来なかった。
「二次崩落の危険がある!皆さん下がって!」
「……うそ……桐生さん……」
瑠奈の声が震え、膝から崩れ落ちた。
由紀も唇を噛みしめ、呆然とその光景を見つめる。
「なんで、こんなことに……」
館内を覆うのは、静寂ではなく絶望のざわめきだった。
さらに追い打ちをかけるように、黒崎が確認した非常口は、どれも硬く閉ざされていた。
認証パネルは赤く点滅し、「ロック中」の表示が無機質に繰り返されている。
どの端末も外部との通信は途絶え、Libriaのインターフェースは沈黙していた。
誰もが立ち尽くし、成すすべもなく見守るしかなかった。
天井から降り注ぐ光は、もはや安らぎを与えるものではなく、重苦しい沈黙だけが人々を包み込んでいく。
こうして、日本最高峰のAIシステム「Libria」に管理されたアークライブラリは、完全に孤立したのだった――。




