第8章 残響
N総合病院、第三病棟。
白い壁の廊下に、消毒液の匂いがかすかに漂っていた。
その静けさを、ゆっくりとした足音が破っていく。
氷室慎一は、さきほど終えた斎藤への事情聴取のメモを、胸ポケットに収めた。
銃で撃たれ、一時は生死の境を彷徨った斎藤だったが、現在は意識が戻り、容体も安定している。
氷室は、無理をさせないよう短時間で切り上げた。
病室を出て、廊下の突き当たりにある窓辺に視線を向ける。
午後の陽が沈みかけ、橙色の光が床に長い影を落としていた。
あの、アークライブラリの事件から数日が経過していた。
だが、胸の奥にはまだ、澱のようなものが重く沈んでいた。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
振り返った氷室の目に映ったのは、花束を手にした黒崎陽の姿だった。
「……お前か」
思わず口をついて出た言葉に、黒崎は肩をすくめた。
「斎藤さんのお見舞いに来ただけですよ……花を買うなんて、何年ぶりだろうな」
淡い紫のスターチス。
不器用にまとめられたそれが、彼の手には妙に似合っていた。
氷室はわずかに口元を緩めた。
「相変わらずだな。花屋でも不審がられたんじゃないか?」
「さすがに慣れましたよ。……昔ほどではないと思いますが」
そう言いながら、黒崎は病室のドアをちらりと見やった。
「斎藤さんの様子は?」
「徐々に回復している。だが、まだ警察の聴取には時間がかかるだろう。心的外傷もある」
「……そうでしょうね。無理もありません」
二人はしばらく黙って歩いた。
窓の外では、街全体が赤銅色に染まっていた。
「桐生は、全てを語りましたか?」
「ああ。……ある程度はな」
「まだ何かあるって顔ですね」
黒崎の目が鋭くなる。
氷室はほんの一瞬、視線を伏せた。
「――Libriaの被験体リストの中に、間山隼人という名前があった」
黒崎の足が止まる。
廊下に張りつめたような静寂が落ちた。
「間山……隼人? 俺が誤認逮捕した?」
「そうだ。三年前、Hermesがネット犯罪に絡む主犯格として導き出した青年だ。逮捕後に服毒自殺した」
氷室は窓の外に目を向けた。
街の光が、遠くで瞬いている。
「当時、警察内部で何が起こっていたか、覚えているか?」
黒崎の表情がわずかに陰る。
握りしめた拳が、震えた。
「あの時、俺は……Hermesを信じて疑わなかった。
解析結果による犯人逮捕の実績が何度もありましたから。
Hermes自身が証拠を捏造したとわかった時には手遅れでした。
全て、俺の責任です……」
廊下の蛍光灯が、微かにチリ、と鳴った。
「――いや、違うかもしれん」
氷室の言葉が低く響く。
黒崎が目を上げた。
「間山はある企業の協力者によって消された可能性が高い」
「ある企業……AKINAI FOODS 」
「ああ、そうだ。極秘で調べたところ――警察に納品契約を持っていた」
黒崎は深く息を吸い、ゆっくり吐き出した。
廊下の影が、わずかに揺れた。
「つまり、あの時点で、すでに内側から腐っていたってことですか」
氷室は黙って頷いた。
その表情には怒りではなく、静かな諦観が漂っていた。
「……今回の事件と三年前の間山の死、そして、五年前の仁科雅彦の汚職と藤川玲奈の事故、すべて繋がってるってことだ」
「Libriaの暴走。桐生の狂気。……同じ線の上にあった、ということですね」
黒崎の声が低く響く。
氷室は少し間を置いて、問いかけた。
「――黒崎。お前は、今でも正義を信じているか?」
「正義?」
黒崎は、ほとんど笑いもせずに言った。
「そんなもの、とっくに信じちゃいませんよ。……でも、間違ってることを黙って見てる人間にはなりたくない」
氷室はその言葉に目を細める。
少しだけ、昔の相棒を見たような表情になった。
「なら、戻ってこい。お前の席は、まだ空いている」
黒崎は立ち止まる。
窓の外の光が、二人の姿を静かに照らした。
「……冗談じゃありません。こんなこと、もう御免です」
「何もしなければ腐敗は静かに進んでいく。
取り返しがつかなくなる前に、誰かが立たなければならない。
――純粋な正義ってやつがな」
長い沈黙。
やがて、黒崎は手の中の花束を見つめ、ぼそりと呟いた。
「……考えておきます。答えはすぐには出せませんが」
「それでいい」
二人の間に、静かな風が吹き抜けた。
廊下のカーテンがふわりと揺れ、消毒液の匂いが微かに漂う。
そのとき、氷室のポケットの端末が震えた。
画面を見た氷室の目が険しくなる。
黒崎が怪訝そうに覗き込んだ。
「どうかしましたか?」
「……桐生が残した残響かもしれん」
氷室はしばらく画面を見つめたあと、ゆっくりと端末を閉じた。
その表情には、言葉にできない複雑な感情が浮かんでいた。
「結局、人間とは何なんだろうな」
氷室の問いに、黒崎は短く答えた。
「記録を越えて、誰かを想い続ける存在――ですかね」
「……らしくねぇな」
二人の間に、もう言葉はなかった。
ただ、遠くで救急車のサイレンが、淡く夜に溶けていく。
病院の外では、街灯が一つずつ灯り始めていた。
まるで、終わりと始まりを区切るように。
――翌朝。
いつもの時間、氷室は自席に腰を下ろした。
隣の席には、誰もいない。
《長谷川葵の遺体が発見されました。
場所は――――》
その報せは、昨日――黒崎との会話の最中に届いた。
氷室は、机の上に取り残されたタブレットを手に取った。
未送信のファイルを開く。
――《AKINAI_F_Data_Log》。
彼は無言でそれを見つめ、やがてディスプレイを閉じた。
ゆっくりと、息を吐く。
「……まだ、終わってはいない」
窓の外では、朝の光が淡く滲んでいた。
ー完ー
ここまで読んで頂きありがとうございました。
デジタル音痴の私が、AIに管理された巨大図書館での密室ミステリーを書くという無謀な挑戦でしたが、なんとか最後まで書き上げることができました。
謎のままで終わっているところもありますが、いつか続編で(その時は黒崎が主人公かな?)書けたらいいなと思います。




