第7章 THE MEMORY CODE ⑤
長時間に及んだ取り調べを終え、桐生智也は護送員に連れられ、静かに部屋を出ていった。
その背中を見送った氷室と長谷川の間に、しばし言葉はなかった。
机の上には、桐生の供述をまとめた報告書の束。
その一枚一枚に、アークライブラリの惨劇と、彼が語った歪な理想が記されている。
「……全部、終わった気がしませんね」
長谷川が小さく呟いた。
疲労の中にも、まだ何かを探し続けるような光がその瞳に残っていた。
「終わりなんてものは、どこにもないさ」
氷室は手元の書類を整えながら答えた。
「彼の言葉は、断片に過ぎない。真実はまだ、その外側にある」
長谷川は頷き、タブレットを手に取る。
「Libriaの残留ログを解析してみます。……彼の言葉を裏づける痕跡がまだ残っているかもしれません」
そう言い残し、彼女は席を立った。
ドアの閉まる音が静かに響く。
氷室はふと、部屋の窓越しに沈みかけた夕陽を見上げた。
その橙色の光が、机の上の書類をゆっくりと染めていく。
報告書の表紙には――
《アークライブラリ事件 被疑者:桐生智也 供述調書》
と記されていた。
数時間後。
捜査課オフィス。
誰もいないフロアで、一台の端末が微かに光を放っていた。
それは、長谷川が残していったタブレットだった。
ディスプレイには、解析中のプログラム名が浮かんでいる。
《LIBRIA SYSTEM / 残留データ解析:REINA_PROTOCOL》
進行率は、98%。
カーソルが点滅するたび、淡い光が室内を照らす。
やがて解析が完了し、スクリーンに無数の文字列が現れた。
「REINA」「KIRYU」「FUJIKAWA」「LINK」――。
それらの単語が、まるで心臓の鼓動のように淡く点滅している。
氷室が、静かに画面を覗き込んだ。
彼女の席に置かれたままのコーヒーは、すっかり冷えている。
ふと、画面の片隅に未送信のメールフォルダがあることに気づく。
件名は――《AKINAI FOODS 内部資料提供について》。
氷室は眉をひそめた。
そこには、長谷川が数日前に書いたと見られる文面が残っていた。
「貴社が保有するAI薬物管理システム“MN-CODE”に関して、捜査協力を依頼いたします。
一部データが、アークライブラリのLibria開発チームと共有されていた可能性があります。
機密保持のため、回答は直通回線にて――」
下書きは途中で途切れていた。
送信履歴も、アクセスログも削除されている。
氷室はしばらく、そのメールを見つめていた。
(……捜査協力? それとも、個人的な調査か?)
曖昧な疑問が胸の奥で渦を巻く。
長谷川がどの時点でAKINAI FOODSと接触したのか、記録上は一切残っていない。
不意に、端末のスピーカーから微かなノイズが流れた。
〈……私はまだ、記録の中にいる。あなたの声が届く限り――〉
柔らかく、心に語りかけてくるような女の声。
桐生が語っていた彼女――藤川玲奈のものだと、氷室は直感した。
ノイズが一瞬強くなり、途切れ途切れの音声が続く。
〈……トモヤ、まだ……そこにいるの?〉
その瞬間、画面の光がふっと弱まった。
波紋のように文字列が崩れ、データは静かにフェードアウトしていく。
まるで、海の底に沈む光の欠片のように。
氷室は、しばらくその場を動けなかった。
胸の奥に、言葉にならない感情が広がる。
記録に宿る声――それは、死を超えてなお存在し続ける藤川玲奈の意志のように思えた。
画面が暗転する直前、ログウィンドウの隅に、微かに文字が浮かんだ。
《USER:A.HASEGAWA / ACCESS POINT:外部VPN(AF-GATE)》
わずか1秒にも満たない表示だった。――だが、氷室は確かに見た。
夜。
オフィスの照明が落とされ、窓の外には街の灯りが滲んでいた。
――真実は、いつも外側にはない。
記録の中にも、人の中にも。
それを見ようとする意志だけが、人を人たらしめる。
心の中で、誰に向けるでもなく呟いた。
腕時計の針が午後九時を指す。
氷室は静かに報告書を閉じた。
翌朝。
捜査一課の席に、長谷川葵の姿はなかった。
彼女の机の上には、解析途中のタブレットだけが残されていた――。




