第1章 微細なノイズ ③
午後の陽光が傾きはじめる頃、アークライブラリは独特のざわめきに包まれていた。
高さ五十メートルを超える吹き抜けの空間。何層にも重なるガラス張りの書架が、光を反射して虹色に輝く。その隙間を無数のドローンが飛び交い、本を運び、検品をし、また戻っていく。静かさの中に、羽音と機械の律動が脈打つように響いている。
由紀はカウンターで返却本を整理していた。隣には、同僚の藤川瑠奈が座っている。由紀より二つ年上で、いつもほんわかした口調を崩さない女性だ。
「今日も忙しいねえ。あ、由紀ちゃん、これ返却処理お願い」
「はい」
由紀が手を伸ばした瞬間、館内に乾いた金属音が響いた。高所の書架で、自動書架が突如停止したのだ。周囲の来館者がざわめく。
「……また?」
と、由紀が眉をひそめた。
すると、停止したアームがガクンと震え、そのまま強引に動き出した。本を掴んだまま、ぎこちなく軌道を外れて揺れる。
下には、小学生くらいの男の子が立っていた。
「危ない!」
由紀が叫ぶより早く、アームが握っていた分厚い資料本が落下した。
次の瞬間、瑠奈が子どもを抱き寄せ、間一髪でかわす。床に叩きつけられた本が鈍い音を響かせ、周囲が一斉に息を呑んだ。
「大丈夫ですか?」
由紀は駆け寄り、怯える子どもの様子を確かめる。幸い、怪我はなかった。
瑠奈はほっと微笑んで、由紀に小声で囁く。
「ちょっとヒヤッとしたね。でも、こういうのって本当はあり得ないんだよ。Libriaが全部管理してるんだから」
その言葉を裏付けるかのように、今度は館の反対側で甲高い警告音が鳴り響いた。
ディスプレイには「セクションB−17 通路閉塞」の赤い警告。ドローンの群れが一斉に停止し、通路を塞ぐように中空で固まっている。来館者が身動きできず、困惑の声が広がった。
由紀の心臓が早鐘を打つ。ほんの一瞬前まで「未来的で整然とした理想の図書館」だった場所が、今は「出口を失った迷宮」のように思える。
「なにこれ……通れない……」
「動かないで、ぶつかったら危ないわ!」
ざわめきが広がり、人々の顔に不安が走った。母親に手を引かれた子どもが泣き出し、場の緊張が一気に高まる。
その時、館内放送に低く落ち着いた声が響いた。
『皆さん、慌てずにその場でお待ちください。安全を確認いたします』
黒崎だった。すぐに姿を現すと、彼はドローンの間合いを冷静に見極め、最も安全な退避経路を指示する。
「こちらの列に沿って、一人ずつゆっくり移動してください。小さなお子さんは抱きかかえて。慌てなければ大丈夫です」
黒崎が先頭に立ち、ドローンの群れを避けながら、来館者を別の通路へ誘導していく。
列の後方では、子どもの泣き声が響く。
「大丈夫、大丈夫だよ」
瑠奈が優しく背中を撫で、子どもの視線を合わせるようにしゃがみ込む。笑顔で「ほら、ママのところまで一緒に行こうね」と語りかけると、子どもの涙は少しずつ和らぎ、声も小さくなっていった。
一方、由紀は足元に散らばった荷物を抱え上げ、立ち上がれずにいた高齢者の腕を取る。
「無理なさらず、ゆっくり行きましょう」
支えながら歩調を合わせると、老人の硬かった表情に安堵の色が浮かんだ。
黒崎の冷静な指示が飛ぶ中、瑠奈は抱きかかえた子を母親に引き渡し、由紀は散乱した資料を確認して回る。
来館者全員の安否確認が終わる頃、フロアに戻った由紀と瑠奈はこの惨状に呆然と立ちすくんだ。
「……これはさすがに、桐生さんに報告ですね」
由紀が呟くと、瑠奈もゆっくり頷いた。
「そうだね。でも……由紀ちゃん、怖がらなくて大丈夫。私たちは人を守るためにいるんだから」
「瑠奈さん……、めずらしくかっこいい」
「めずらしくは余計よ」
無機質な森の中、二人の声が柔らかく響いた――。




