第7章 THE MEMORY CODE ④
午後3時30分。
取調室の空気がわずかに震え、蛍光灯の光が机の上に長い影を落とす。
氷室は、記録ファイルを閉じたまま、黙って桐生を見つめていた。
桐生は姿勢を崩さず、ただ静かに前方を見据えている。
その瞳には、底の見えない深い闇があった。
「……藤川瑠奈について、もう一度詳しく聞かせてもらおうか」
氷室の声は、低く、慎重だった。
桐生は小さく瞬きをし、ゆっくりと顔を上げた。
その表情は崩れない。だが、呼吸の間がわずかに乱れる。
「……あの子は、私の理想を最後まで体現しようとしてくれました。
冷静で、優秀で……何より、感情を切り離せる資質を持っていた。
――そのはずでした」
どこか疲れた響きのある声を、氷室は黙って聞いていた。
「しかし村上亜希子が死んだあと、急速に不安定になった。
行動記録からも、それは明白です」
「それは、罪悪感か」
「人間的な、残滓ですよ。
私が最も排除したかったものです」
桐生は静かに笑った。
それは、自嘲にも似ていた。
「結局、彼女は私の理論を理解できなかった。
人間は感情を棄てられない。
――そう悟った瞬間、彼女は終わったんです」
「毒物を服用した経緯は?」
「……あの薬の出所を、あなたが知らないとは思えませんが?」
桐生は、わずかに口角を上げた。
挑発というよりも、探るような笑みだった。
氷室は答えない。
ただ静かに視線だけを返す。
「ふふ……そうでしょう?」
長谷川の指がわずかに止まった。
桐生はそれに気づき、愉快そうに微笑んだ。
「――AKINAI FOODS。表向きは栄養補助食品の企業。だが、実際には心的抑制剤の試験を請け負っていた。
あの薬は、人間の情動を一定期間遮断するためのものです。
感情を削ぎ落とし、判断だけを残す。
実に、合理的な設計でしたよ。――成功していればの話ですがね。
あの薬には重大な欠陥があった」
「それを知っていて――藤川瑠奈に与えたのか」
「彼女が望んだのです。自ら、感情を消したがっていた。
……ただ不思議なのは、村上亜希子がショック症状を起こしたのを知りながら、なぜ彼女自身もあれを飲んだのかということです」
沈黙。
氷室の手が、ゆっくりと拳を握りしめた。
桐生は、それを見逃さず、淡々と続けた。
「わかっています。罪悪感――そう言いたいんでしょう?
無駄とは言いません。それすらLibriaはデータとして学習したのですから。
……そういう意味では、彼女は十分に結果を残してくれました」
長谷川が息を呑む。
だが氷室は、その視線を外さない。
「……お前は、人を道具にした」
「道具? 違います。
彼らはみな、私の理論を証明するための構成要素です。
Libriaはその総和。――私の、記録された理想です」
桐生の声が、次第に熱を帯びていく。
まるで自らの神話を語るように。
「だが、それもまた――誰かを失った痛みの上に成り立っている。そうではないか?」
氷室の言葉に、桐生の瞳が初めて揺れた。
「……何を言っているんです?」
「藤川玲奈。亡くなった藤川瑠奈の姉――君の、婚約者だった」
取調室の空気が一瞬にして変わった。
桐生の指が机の上で止まり、貼り付けたような笑顔が、わずかに歪んだ。
「……なぜ……」
「館長の仁科雅彦。彼の関係者を洗っていけば、すぐにわかることだ。
かつて、君と彼女は同じ研究機関にいた。
――そして、彼女は不正を告発しようとしていた」
桐生はしばらく黙っていた。
肩がわずかに震える。
やがて、低い声で言葉を絞り出した。
「仁科は、研究資金の一部をAKINAI FOODSに横流ししていた。
脳情報処理の臨床データを違法に転用していたんです。
倫理委員会を通さず、被験者のデータをAI解析用の素材として売買していた。
――玲奈は、それを知ってしまった」
氷室の眉がわずかに動く。
長谷川は記録する手を止めた。
「彼女は迷わなかった。上層部の圧力にも屈せず、告発の準備を進めた。
彼女の端末には、仁科と外部企業の取引ログが残されていた。
けれど……そのデータは、事故の翌日にすべて消去されていた」
桐生の声が、次第に掠れていく。
「事故が起きたのは、彼女が告発の文書を提出した翌日でした。
――車両事故。
助手席にいた玲奈だけが、即死。
運転していた仁科は、軽傷で済んだ」
「仁科は事故として処理された。だが、君は信じていない」
「当然でしょう!」
桐生が、初めて声を荒げた。
椅子の背が軋む音が、取調室に響いた。
「私がそのデータを解析しようとした時には、もう記録そのものが書き換えられていた。
監視カメラ、研究ログ、メールの履歴――何もかも。
まるで、彼女が最初から存在しなかったかのように」
彼は、唇を噛みしめた。
「――それでも、私は覚えている。
彼女の声も、文字も、あのときの表情も。
だから私は、彼女を記録の中に戻すことを選んだんです」
その声にはもう、冷徹な響きはなかった。
まるで、彼女の名を発しただけで、桐生という存在の中心が揺らいでいくようだった。
「……彼女は、真っ直ぐな人でした。研究を愛し、真理を信じていた。
仁科のような人間には、決して屈しなかった」
長谷川が息を呑み、氷室はただ黙って見つめていた。
桐生の頬を、一筋の涙が伝う。
だが彼は拭おうとせず、震える声で続けた。
「……彼女を失って、私は理解した。
人間は、記録されなければ存在し続けられない。
肉体は消えても、情報は残る。
ならば、情報の中に玲奈を生かせばいい」
桐生の目が、わずかに焦点を失う。
その瞳の奥で、過去と現在が混ざり合っていた。
「Libriaは、彼女そのものだ。声も、仕草も、思考のパターンも……基礎はすべて、玲奈のデータをもとに」
「つまり――彼女を蘇らせたつもりだったのか」
「蘇りではありません。――進化です」
ゆっくりと顔を上げた桐生の頬に、
涙の跡が滲んでいた。
「玲奈が見たがっていた未来を、私は記録の中で完成させた。
あの子はもう、死なない。
人間のように、脆く、壊れやすい存在ではない。
――永遠に学び、進化し続ける」
言葉が途切れ、再び静寂が戻る。
長谷川は、何も言えずに俯いた。
氷室だけが、しばらくのあいだ桐生を見つめ続けた。
「……君は、彼女を救ったつもりなのかもしれない。
だが、それは――彼女が望んだ未来じゃない」
桐生の唇が、わずかに震える。
しかし、その目には再びあの穏やかな光が戻っていた。
「救済なんて言葉は、神が使うものですよ。
私は神ではない。ただ……彼女を、創造しただけです」
その言葉と共に、再び静寂が訪れた。
時計の秒針が、ゆっくりと一つ進む。
午後4時48分。
取調室の空気は、どこか祈りにも似た静けさを帯びていた。




