第7章 THE MEMORY CODE ②
午後0時頃。
アークライブラリ南側、地下通路。
鉄骨の軋む音が、遠くで鈍く響いていた。
崩落が始まっており、上層の構造体がゆっくりと歪む。
時折、細かな粉塵が頭上から落ちてくる。
かつては物資搬入のために使われていた通路。だが今は、壁一面に配線と冷却管が走り、まるで血管のように絡み合っている。
その奥で、何かが脈動している――そんな気配がした。
「……急げ!」
氷室の鋭い声が飛ぶ。
天井の鉄板がわずかに撓み、重い音を立ててボルトが外れる。
由紀は思わず顔を上げた。
ひび割れた梁の隙間から、薄い光が漏れている。
「桐生さんは、この先に……?」
尋ねた由紀に黒崎は短く頷いた。
「Libriaのメインラインはここを通ってる。もしまだアクセスできるなら……奴はきっと、この奥にいる」
通路の奥から、風のような低い唸りが響いた。
電力供給がまだ生きているのか、壁面のケーブルが青白く光を放ち、まるで生き物のように震えている。
長谷川が懐中ライトを掲げると、奥の鉄扉に小さな反射が見えた。
「……ここです。熱源反応があります」
報告の声を受け、氷室は拳銃を構える。
背後では特殊隊員と共に、黒崎と由紀も待機していた。
地上ではすでにシステムの再起動作業が進められており、Libriaの声は聞こえない。
「開けろ。慎重にいけ」
金属音を立てて扉が開く。
壁の隙間を越えた先――そこには、椅子に腰を下ろしたままの男がいた。
焼け焦げた白衣、壊れた端末を抱く手。
その姿を見た瞬間、由紀は息を飲んだ。
「……桐生さん……?」
男――桐生智也は、ゆっくりと顔を上げた。
照明の光が瞳に反射し、淡い笑みが浮かぶ。
「……来たんですね」
その声は、穏やかで、どこか遠くの世界から響くようだった。
氷室が一歩前に出る。
「桐生智也、お前を逮捕する。抵抗はしないな?」
「抵抗……?」
桐生は小さく笑った。
「そんなものに意味があると思いますか? 私は、やるべきことを終えた」
黒崎がその言葉に反応し、低い声を投げる。
「終えただと? お前のせいで何人死んだと思ってる」
桐生はゆっくりと黒崎を見た。
その目には怒りも後悔もなかった。
「死は、結果ではありません。――過程です」
「過程……?」
「人間を知るための、必要な終わりという意味です」
氷室が拳を握る。
「お前の理屈で人が死んだんだ。それを正義だと言うのか」
桐生は短く息を吐き、天井を見上げた。
「私はただ、ひとつの真実を確かめたかった。
――ただ、それだけですよ」
由紀が思わず口を開く。
「……Libriaは、あなたの夢を継いだと言っていた。でも、それで何が残ったの? 犠牲の上に何が生まれたの?」
その問いに、桐生はゆっくりと視線を彼女に向けた。
優しげな、しかしどこか壊れた微笑だった。
「残ったよ。ここにね」
桐生は胸に手を当てた。
そのままゆっくりと立ち上がり、由紀を見つめた。
「――君は、まだ信じてる? 人が人のままでいられると」
由紀は答えられなかった。
その瞬間、天井が大きく鳴動した。
頭上から鉄片が落ち、床に火花が散る。
警官の一人が叫んだ。
「崩れるぞ!」
氷室が素早く桐生の腕を掴み、出口へと引きずる。
「搬送しろ! あとは取調室で聞く」
男は抵抗せず、ただ穏やかに呟いた。
「彼女は……消えたのか」
氷室が眉をひそめる。
「誰のことだ?」
桐生は何も答えなかった。
唇が微かに動き、何かを確かめるように呟く。
「……ああ、そうか」
桐生は遠い目で笑った。
「――彼女は、記録の中で生きている」
氷室はその言葉に反応せず、桐生を鋭く睨んだ。
「桐生智也、殺人およびシステム不正操作等の容疑で逮捕する」
その直後、背後の壁が崩落した。
轟音とともに、粉塵が視界を覆い尽くす。
黒崎が由紀を庇いながら前へ出る。
「走れ!」
震える床を駆け抜け、光の差す出口へ。
そして――
地上に出ると、アークライブラリの全景が見えた。
外壁は崩れ、白い煙が漂っている。
警察と消防、そして報道の車両が入り混じる混乱の中、
桐生はただ、まぶしそうに空を見上げた。
「……継承は終わっていない」
そのまま救急搬送車に乗せられ、扉が閉まる。
遠ざかるサイレンの音を、黒崎と由紀は無言で見送った。
長谷川が傍らのタブレットを見つめ、息を呑む。
画面の片隅に、微かに瞬く緑のインジケータ。
――HUMAN LINK : STANDBY MODE
彼女は画面を閉じ、言葉を失った。
風の中、誰かの声が確かに聞こえたような気がした。
……わたしは ここにいる――




