第1章 微細なノイズ ②
由紀は端末の画面を眺めながら、小さく息をついた。
「地下Fゾーンの古書整理……か」
Libriaからの指示は簡潔だった。普段は立ち入りが少ない地下の書架の整理と点検、資料の再配置を行うように、と。
「普段はあまり来られない場所だから、ちょっと楽しみかも」
階段を降りると、空気がひんやりと変わった。薄暗い照明が書架の通路を柔らかく照らす。壁や棚はすべて整然と配置され、温度と湿度はLibriaが計算しつくした最適な状態で保たれていた。埃の匂いは最小限に抑えられ、古書特有の紙の香りだけが静かに漂う。
由紀は背筋を伸ばし、ゆっくりと通路を進んだ。何百年も前の文字が刻まれた貴重な資料や本が放つ威厳に、思わず息をのむ。まるで財宝が眠る秘密の部屋に迷い込んだような心地だった。
「あぁ……やっぱり地下って、少しワクワクする」
書架を整理しながら歩いていると、運搬用の小型ロボットが一瞬止まり、手にした本をどこに置くか迷うように揺れた。
「あらら、また迷子ですか?」
由紀が微かに眉をひそめると、ドアの自動ロックが一瞬だけ作動し、出口への階段が閉ざされた。
端末を操作してもLibriaの検索画面は反応せず、静かな地下にわずかな緊張が漂う。
「すみません!誰かいませんか……?」
自分の声が通路の奥に吸い込まれ、反響も返らない。Libriaによって完全に管理されたこのフロアは、スタッフが立ち入ることは稀だ。
地下はまるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
手元の端末を再度操作してみるが、画面は一瞬だけ反応を示すものの、すぐにフリーズしてしまう。ロボットはまだ少し迷い気味に動き、棚の間をゆっくりと進むだけだ。
「ちょっとロボット君、こんな時はどうすればいいの?」
由紀は小さくため息をつき、棚の端に手を添えて観察を続ける。普段なら気にならない微かな機械音や、本の背表紙の揺れが、今はわずかに不自然に感じられる。
その頃、警備室で監視モニターを見ていた黒崎の目が止まった。
「……?」
いつも映し出されている古書室への通路の映像に違和感を感じたからだ。画面にほんの一瞬、砂嵐のようなノイズが横切る。数秒後に再び同じノイズ。その原因に気がついた時、黒崎は地下フロアに向かって走っていた。
由紀は棚の影に潜む薄暗さを見つめながらも、まだ落ち着きを保っていた。心の片隅のわずかな不安を振り払うように、わざと明るく声を出す。
「こういう時って……映画とか小説だと、ヒーローが助けに来たりするんじゃない?」
ちょうどその時、分厚い扉の向こうから足音が近づいてきた。
「誰かいますか?大丈夫ですか?」
その声に、由紀は胸の奥が一気に軽くなるのを感じた。
「黒崎さん!私です、朝倉です!扉にロックが掛かってしまって」
「待っていて下さい。すぐに解除します」
しばらくしてドアが開き、光が差し込む。
「ありがとうございます」
「何があったんですか?」
「急にドアが閉まって、Libriaも反応しなくて……」
黒崎は眉をひそめ、端末を操作しながら首を傾げる。
「後で桐生さんに報告しておきます。まずはここを出ましょう」
黒崎が促すが、由紀は首を振った。
「いえ、私はまだ古書整理が残っていますので」
それを聞いて一瞬驚いたような顔をした黒崎が、腰ベルトから何かを取り出した。
「これを使って下さい」
彼が差し出したのは、片手に収まる黒い無骨な機械だった。
「……これは?」
「トランシーバーです。これなら何かあった時、直接俺に連絡できます」
「聞いたことはありますけど……本当に使えるんですね」
「便利ですよ。やってみますか?」
短い使い方の説明を受け、由紀はそれをそっとポケットに入れた。冷たい質感が残るだけで、不思議と大きな安心感に包まれる。
地下の静けさの中、再び作業を続けながらも、由紀の胸にはさっきの違和感が小さな棘のように残っていた。




