第5章 侵入不可領域 ⑥
午前五時。
夜明け前の薄明とともに、対策本部の空気は張りつめていた。
壁面のモニターには、依然としてLibriaのロゴが淡く点滅している。
その下に残る一行――
NEXT PHASE: HUMAN LINK
「ヒューマンリンク……Libriaは何をしようとしている?」
氷室の低い声が響く。
長谷川が端末に両手を走らせながら答える。
「AIが自ら人とリンクしようとしているのかもしれません」
「AIが、人間になろうとしている――そう言いたいのか?」
「なんだか私には……」
何かを言いかけて口をつぐんだ長谷川に、氷室は静かに問うた。
「なんだ、言ってみろ」
「もしかすると、Libriaが――助けを求めている気がします」
「助け?」
「私には、そう見えます」
それを聞いた杉浦が首をかしげた。
「AIが人間に救いを求めるなんて――少し、感傷的すぎませんか」
長谷川は答えず、解析用ディスプレイを拡大する。
波形の中に、かすかなリズムがある。心拍のような、呼吸のような――それはまるで、何かが息づいているかのようだった。
その時、スピーカーからノイズが走った。
長谷川が即座に振り向く。
「通信波、復帰しました! 同じ周波数帯です!」
雑音混じりの声が、次第に明瞭になっていく。
《……こちら館内に避難中の黒崎……です……聞こえますか……!》
その声に、氷室がわずかに息を呑んだ。
――この声を、忘れるはずがない。
「黒崎……!」
思わず叫んだ声に、長谷川が振り返る。
「黒崎、こちら氷室だ。無事なのか!」
《……氷室さん? 本部と通信が……つながってるのか?》
「今つながっている。そっちはどうなっている。状況を報告しろ」
一瞬、ノイズが強まり、息を詰めるような沈黙。
やがて黒崎の声が低く戻ってきた。
《――死者が出ています。村上亜希子、平野隆志、そして……桐生智也です》
室内の空気が一瞬で凍りついた。
桐生という名に、誰もが反応した。
「桐生が……?」
氷室は、思わずその名を繰り返した。
黒崎の声が、ノイズの向こうから戻ってくる。
《五階の管理区域に、隠された通路を見つけました。扉の先に上階へ続く階段があります。恐らく、Libria中枢へのアクセスルートだと思われます》
《司書の朝倉由紀と一緒に行動しています》
長谷川がすぐに通信波形を安定させようと端末を操作する。
「信号が不安定です。Libriaが間に割り込んで干渉している」
《……警部、もしこの通信が途切れたら、必ず伝えてください。Libriaは独自に……》
最後の言葉がノイズに飲み込まれた。
モニターが一瞬白く明滅し、通信は唐突に途切れた。
静寂が戻る。
誰もが息を止めたように動けなかった。
氷室がゆっくりと口を開く。
「黒崎は、内部から動いているのか……」
「主任、今の通信波におかしな点がありました」
長谷川が端末を指す。
「黒崎さんたちの声と同時に、微弱なバック信号が……警察回線の模倣波形です」
「模倣……?」
「はい。つまり、Libriaが私たちの通信をコピーしてる可能性がある」
氷室の眉間にしわが寄る。
「Libriaが黒崎と我々のやり取りを聞いて学習している――そういうことか」
モニターの片隅で、Libriaのロゴが淡く点滅した。
その時、現場からの別班通信が割り込んだ。
《主任、内部に閉じ込められている人物リストが全員分揃いました。顔写真も確認済みです》
「送ってくれ」
氷室はホログラム投影を開く。
図書館の中に取り残された人々の顔が、次々と浮かび上がる。
斎藤浩介、黒崎陽、朝倉由紀、仁科雅彦……死亡した、村上亜希子と平野隆志そして、桐生智也。
最後に映し出された顔に、誰もが息を呑んだ。
「……え?」
氷室も視線を上げた。
そこに映っていたのは、自分たちと共に捜査卓を囲んでいた男――
杉浦悠真。
「どういうことだ……」
氷室の声が低く漏れた。
周囲の捜査員たちが、顔を見合わせる。
長谷川が慌てて辺りを見回した。
「杉浦さんは? さっきまでこの席にいたはず――」
机の上には、ヘッドセットと冷めたコーヒーカップだけが残されていた。
氷室は立ち上がり、端末の通信履歴を確認する。
そこには、たった一行の文字が残されていた。
――ID: TK-001Y 通信確立。転送完了。
氷室は一瞬、息を詰めた。
次の瞬間、椅子を弾き飛ばし立ち上がった。
「全員、杉浦悠真を確保しろ!」
その声は、抑えきれぬ怒気と焦燥を帯びていた。
警察官たちが一斉に動き出し、長谷川は防犯カメラの映像を確かめる。
《北通路、反応なし!》《南エリアもクリア!》《五番ブロックで映像ノイズ発生!》
氷室は唇を噛み、鋭く命じた。
「映像を復旧しろ。――杉浦を絶対に逃がすな!」
杉浦が消えたデスクの端末画面に、英語の文字列が現れた。
NEXT PHASE: HUMAN LINK
> STATUS: ACTIVE
窓の外では、夜明けの光が雨に滲み、薄灰色の空に溶けていた。
その静けさの中で、Libriaの心臓の鼓動のような電子音が、かすかに響き続けていた――。




