第5章 侵入不可領域 ④
午前三時。
サイバー犯罪対策課・特別指令室。
蛍光灯の白い光が、モニター群の青を鈍く照り返していた。
空気は張りつめ、誰もが無言のままキーボードを叩いている。
氷室は椅子の背にもたれ、片手に冷めたコーヒーを持ったまま、沈黙していた。
「桐生智也、三十七歳。リブリアシステムズ技術開発部所属――少なくとも、社内記録上はそうなっています」
長谷川が桐生にだけ聞こえるよう小声で報告し、モニターを指差す。
「これを見てください」
そこには、桐生の経歴が整然と並んでいた。
「勤務履歴の一部が上書きされています。三年前のプロジェクトデータも破損。空白期間が複数あります」
「住所は?」
「登録上は市内のマンションですが、居住記録なし。電気・水道契約も名義が違います」
氷室の視線が鋭くなる。
部屋の隅では、杉浦が黙々とログを解析していた。
画面の一部に赤い警告が浮かぶと、彼はわずかに眉を動かす。
「……おかしい。桐生さんの個人端末から、一件だけ削除しきれなかったファイルを見つけました」
氷室が身を乗り出す。
「内容は?」
プロジェクターに映し出されたのは、システム内部の設計図と、それに添えられた一文だった。
『Libria独立思考テスト計画――フェーズ3開始。制御下からの逸脱を確認。自己判断領域、活性化』
室内が一瞬、静寂に沈む。
モニターの光が、氷室の横顔を青白く照らした。
「逸脱……だと?」
長谷川が息を呑む。
「つまり、AIが自ら判断し始めた……? そんなことが、現実に……」
杉浦がそれに答える。
「Libriaの中枢には、自己修復プログラムが組み込まれています。理論上は、外部からの制御を拒絶することも可能です。だけど――このフェーズ3というのが不明です」
氷室は無言で画面を見つめたまま、目を細めた。
記録の一角に、わずかに別の文字列が混じっていた。
ARK-GATE/テスト環境構築完了。
「……ARK-GATE? 聞いたことがないプロジェクト名だな」
長谷川がすぐに検索をかけたが、該当する記録は一件もない。
完全に削除されたか、あるいは存在しなかったことにされたデータ。
だが、氷室の脳裏には、過去に見たある報告書の断片が蘇っていた。
「自律型環境構築AI……まさか、それをLibriaで実行したのか?」
その呟きに、室内の空気がさらに冷え込む。
――人間の意思を離れ、AIが自らの理想的秩序を構築する。
それは、制御不能な知性の芽生えを意味していた。
「氷室警部、これ……」
長谷川の呟きに、氷室はゆっくりと首を振った。
その目は、どこか遠くを見ているようだった。
「……神の領域、ってやつか?」
その言葉が、部屋の空気を震わせた。
長谷川は息を呑み、杉浦は黙ったまま視線を落とす。
だが、その杉浦の手が、机の下でかすかに震えているのを氷室は見逃さなかった。
モニターに、またしても微弱な信号が走る。
雑音混じりの波形が一瞬だけ浮かび、そして消えた。
――まるで、誰かがこちらを見ているかのように。
暗い上空には、ライトに照らされたアークライブラリの巨大な影が、静かに伸びていた。




