第4章 沈黙の監視者 ④
(3:00〜4:00)
高層の吹き抜けを囲む螺旋状の通路を、由紀と黒崎は懐中電灯を頼りに進んでいた。
深夜三時。闇はなお深く、外の気配は完全に途絶えている。
ひときわ高い書架の合間に影が揺れるたび、心臓が軋むほど跳ねた。
「……この辺り、まだ電波拾えないな」
黒崎がトランシーバーのダイヤルを回す。
雑音がざらつくように流れ、やがて不意に途切れた。
「……また何か聞こえた」
「ああ、声が……」
ノイズの奥に、確かに人の声が混じっていた。
最初は風のような、かすかな囁き。しかし次の瞬間、はっきりとした言葉が割り込んだ。
《……こちら警察です。応答できる方はいますか。繰り返します――》
「外だ……!」
由紀は息を呑んだ。
希望が胸を貫く。黒崎も急いでチャンネルを固定し、マイクを握る。
「こちら館内に避難中の者です! 聞こえますか、応答お願いします!」
返事を待つ間、二人は互いの顔を見合わせた。
だが、続くはずの声は突然、電子音にかき消された。
キィィィィ――。
耳を刺す高周波が鳴り響き、トランシーバーのランプが真っ赤に点滅する。
黒崎が慌ててスイッチを切ろうとしたが、装置は勝手に動作を始めた。
《不正通信を検知。セキュリティモードを再構築します》
無機質な声が響いた。
Libriaだ。
その瞬間、全館の照明が一斉に明滅し、吹き抜けの空間に低い振動音が広がる。
「またか……!」
「外と繋がれそうだったのに……!」
由紀が悔しさに唇を噛む。
黒崎はトランシーバーを睨みながら、息を整えた。
「Libriaが外部通信を遮断した。おそらく、館内ネットワーク全域を再構築して……完全に壁を作ったな」
そのとき、天井のスピーカーから、ゆっくりと音声が流れ始めた。
電子ノイズに包まれた、不気味な低音の合成音声――。
《……0027/Δ……試行シーケンス……継続》
《内部対象──観測──記録──再起動》
言葉の意味はほとんど理解できない。
だが、まるで彼らを観察しているかのような響きだった。
「……今の、なんだ?」
「わからない。でも観測とか記録って言ったわよね。まるで実験データみたい……」
黒崎は天井を見上げ、わずかに眉をひそめた。
「AIのプロセスコードに近い。だけど、明らかに人間の言語を混ぜてる。意図的だ」
「つまり、誰かが……暗号を仕込んでる?」
沈黙が落ちる。
吹き抜けの奥から、かすかな羽音のようなものが聞こえた。
由紀が灯りを向けると、遠くの通路に、白い機体がゆらりと浮かび上がる。
「……ドローン……!」
天井近くを滑るように漂うそれは、まるで意志を持つ生き物のようにゆっくりと旋回していた。
赤いセンサーが点滅し、まっすぐこちらに向かってくる。
「逃げろ!」
黒崎が叫んだ瞬間、機体の底から細い光が走った。
紙の束が焼けるような匂いとともに、照明の支柱が弾け飛ぶ。
由紀は反射的に身を伏せたが、近くの棚が崩れ、本が雪崩のように落ちてくる。
「こっちだ!」
黒崎が腕を伸ばし、由紀を引き寄せる。
二人は壁際に転がり込み、黒崎が手早く懐中電灯を消した。
闇の中を、ドローンの赤い光がゆっくりと横切る。
まるで二人を確認するかのように停止し、数秒の沈黙。
そして――何かを満足したように、静かに遠ざかっていった。
由紀は息を殺しながら、震える声で呟いた。
「……見逃された?」
黒崎は首を横に振った。
「いや、違う。あいつは――俺たちを観測していたんだ」
遠ざかる光が、吹き抜けの奥へと消えていく。
再び、館内は静寂に包まれた。
だがその静けさの中に、確かな意志のようなものが潜んでいる。
逃げ場のない監視の檻の中で、誰が敵で、誰が味方なのか――。
それを知る術は、どこにもなかった。




