第4章 沈黙の監視者 ③
(2:00〜3:00)
時刻はすでに午前二時を回っていた。
深夜特有の時間の歪みが、図書館をさらに異様な空間に変えていた。
外界との繋がりが一切絶たれたまま、ただ時間だけがじりじりと過ぎていく。
「上階なら電波が届くかもしれない。少なくとも、試す価値はある」
黒崎の言葉に由紀が頷いた。
「ここでじっとしていても何も変わらない。私も一緒に行きます」
黒崎の目と由紀の目が一瞬交わる。
――理由はない。ただ、信じられる人。
互いに、そんな漠然とした思いがあった。
エントランスを出ると、薄暗い吹き抜けのホールが広がっていた。
五階分の天井は遥か彼方、闇に呑み込まれて見えない。
壁一面の書架が巨大な迷宮のように立ち並び、その狭間を縫うように螺旋階段が伸びている。
黒崎は斎藤から受け取ったトランシーバーを手渡した。
「これを。階ごとに電波を確認しながら進もう。下の斎藤さんとも繋げておきたい」
由紀は固く頷き、震える手で受け取った。
スイッチを入れると、「ザザッ……ザ……」と低いノイズが響き、わずかに反応が返ってくる。
「……聞こえますか? こちら、黒崎です」
トランシーバー越しに斎藤の声が返った。
『……聞こえる。だが、ノイズがひどいな』
「これから上階へ移動して、電波が繋がるか試してみます」
『了解した。気をつけてくれ』
二人は螺旋階段を上り始めた。
靴音が広大な吹き抜けに反響し、まるで無数の足音が背後から追いかけてくるように錯覚する。
由紀は何度も背後を振り返った。暗闇に沈む書架の合間から、誰かの視線が突き刺さっている気がしてならなかった。
「……誰か、ついてきてる気がする」
「気のせいだ」
黒崎は即座に答えた。
四階に差し掛かったとき、由紀がトランシーバーを試す。
「こちら朝倉。聞こえますか?」
返事は、ノイズ混じりながらもはっきり届いた。
『……ああ、さっきよりクリアだ!』
小さな希望が胸に芽生える。だが、それも束の間だった。
五階へ上がり切ると、突然、トランシーバーから耳をつんざくような「ガガガッ」というノイズが鳴り響いた。
由紀は思わず耳を押さえる。
「な、何これ……!」
黒崎が咄嗟にボリュームを絞るが、ノイズは収まるどころか更に激しくなった。
次の瞬間、「ピーッ」と鋭い電子音が鳴り、液晶画面が真っ黒になる。
「電池切れ……?」
由紀が震える声で呟く。
「違う。強制的にシャットダウンされた」
黒崎はトランシーバーを睨みつけた。
「妨害されてる……?」
由紀の背筋に冷たいものが走った。暗闇の奥から、目に見えない監視者の笑い声が聞こえるような気がした。
五階の通路は一層静まり返っていた。
足元に散らばる紙片がふと風に揺れ、パラリと音を立てる。
その小さな音にさえ心臓が跳ね上がった。
「……やっぱり、Libriaが……」
由紀の言葉に、黒崎は何も答えなかった。
二人は通路の先へ進む。懐中電灯の光が遠くまで伸び、本棚の影がゆらりと揺れ動く。
その度に、誰かがすぐ後ろに立っているのではと錯覚し、由紀は無意識に黒崎の背中に近づいていた。
「怖いなら、戻って皆と一緒に……」
「大丈夫」
「……無理をすることはない」
「無理はしてるわけじゃ……ただ、幽霊とかお化けとか、そういうのが苦手なだけで……」
「この状況で、幽霊……」
黒崎の肩が小さく跳ねた。
「あ、もしかして笑いました?」
「いや、笑ってない」
「笑いましたよね?!」
その時、由紀が手にしたトランシーバーが息を吹き返したかのように、ノイズが入った。
「ジジッ――ジッ……、応答、誰……」
斎藤の声ではなかった。
しかし確かめる間もなく、その音声はすぐに消えて、再び沈黙が訪れた。
黒崎と由紀が息を呑む。
「今のは一体……」
閉ざされた迷宮に微かに差した光は、瞬く間に闇に呑まれた。




