第1章 微細なノイズ ①
朝の巡回を終えた由紀は、貸出カウンターへ向かった。
まだ館内は穏やかな空気で、光が大きな窓から差し込み、書架の間に柔らかく揺れる。
午前中は、近所の常連たちとの挨拶や軽い世間話に追われる。
「あら、由紀ちゃん、昨日は寒かったね」
「はい、お元気そうで何よりです」
お爺さん、おばさん、子ども連れのお母さん、来館者の殆どが顔馴染みで、自然に笑顔が返ってくる。
小さな子どもが絵本を手にとってはしゃぐと、母親に注意されて頬を膨らます。それを見た由紀は思わず笑みを浮かべた。
「その本、面白いわよ。帰ったらお母さんに読んでもらってね」
昼過ぎになると館内は一旦静かになり、やがて学校帰りの小学生たちがやってくる。
自習スペースに案内し、質問があれば資料を探し、時にはLibriaの端末で検索方法を教える。
「この本なら参考になると思うわ。探すときはこうやって入力してみて」
一日中、由紀は来館者たちと自然な会話を交わしつつ、司書としての仕事をこなす。
時折、書架を整理したり、棚の位置や本の向きを確認したりしながら、図書館の静かな時間を守っている。
夕方、外の光が少し柔らかさを増すころ、館内には自習や調べものに来る中高生のざわめきが戻る。
由紀は本を戻しながら、今日も一日、館の仕事を無事に進められたことに小さな満足を感じた。
幼い頃から本を読むことが何よりも好きだった由紀は、食事をするのも忘れて没頭するものだから、しばしば親を心配させた。
――大きくなったら図書館で働きたい。そして、図書館の本を全部読みたい。
それが、彼女の夢だった。
夢を叶えるために、司書の養成課程がある大学へ進学し、卒業と同時に念願の資格を手にした。
しかし、正規職員の募集はほとんどなく、しばらくは実家の近くの本屋で働いていた。
数年が過ぎた頃、由紀は、世界でも類を見ない近代的な図書館が建設中であることをニュースで知った。
胸の高鳴りを抑えきれず、建設現場を見るためだけに列車を乗り継いだ。
――さすがに全部は読めないけれど……
由紀はその頃のことを思い出して、思わず微笑んだ。
本に囲まれて過ごす時間は何より幸せだと感じていた。
「……なにニヤニヤしてるんだ?」
由紀が顔を上げると、警備員姿の黒崎が不審そうに眉を寄せていた。
「いえ、なんでもありません……」
慌てて顔を伏せた由紀は、目の前の端末画面に集中した――。
夕方近く、書架を整理して歩いていると、運搬用の小型ロボットが一瞬止まり、手にした本をどこに置くか迷うように揺れた。
「ん……?」
由紀は微かに眉をひそめつつも、慌てずにロボットの進路を誘導する。
「こっちよ、落ち着いて」
ロボットはしばらく躊躇した後、正しい棚の前で止まり、由紀が手を添えて本を戻すと、また滑らかに動き出した。
由紀は肩越しに通路を見渡し、他の書架が静かに整列しているのを確認する。
「ロボットも迷子になるのかしら?」
微妙な違和感は、閉館作業を終える頃には跡形もなく消えていた。




