第2章 閉ざされた迷宮 ⑦
(22:00〜24:00)
エントランスから続く廊下の暗がりで、平野の亡骸は動かぬ影となって横たわっていた。
黒崎がその体に掛けた毛布の膨らみが、この現実味のない出来事が紛れもない事実である事を、否応なく突きつけていた。
誰も近寄ろうとせず、誰も声を発さなかった。ただ重苦しい沈黙だけが、人々を縛りつけていた。
「俺が探した時、あそこには何もなかった筈です」
黒崎が仁科に詰め寄る。
「では、急にあの場所に死体が現れたと?」
「そうとしか思えません」
そのやり取りを聞いて、斎藤が低く呟いた。
「あるいは、誰かが置いたのかもしれませんね」
仁科、斎藤、黒崎の3人が小声で言葉を交わすのを、由紀は不安な気持ちで見つめていた。
現実味のないことが、いま目の前で起きている。突然、ぶるりと体が震えた。
それは冷気のせいではなかった。足元から這い上がってくる恐怖に、鳥肌が立つ。
隣に立つ瑠奈の手も小さく震えているのを感じ、思わずその指を握った。
瑠奈は振り返り、かすかに笑おうとしたが、頬が引きつっていた。
張り詰めた空気を断ち切るように、仁科が前へ出た。
「……皆さん、落ち着いてください」
抑揚の少ない、しかしよく通る声だった。
「まずは冷静になることが第一です。今は状況を整理しなければなりません」
その口調はあまりに整然としていて、かえって人々の心にひやりとしたものを残した。
「冷静にって……こんな状況で……」
小さく呟いたのは村上亜希子だ。彼女は顔を蒼白にし、視線を逸らしたまま唇を噛み締めている。
やがて、川村達也がたまらず声を上げた。
「これ……ただの事故じゃないですよね?誰かが、意図的に仕組んでるとしか思えない」
言葉が落ちるや否や、空気がざわりと波立った。
互いの顔を見やり、疑念の影が一斉に走る。
「や、やめてください!」
村上が悲鳴のように叫んだ。
「そんなこと言ったら……誰も信じられなくなるじゃないですか!」
彼女の声は震え、涙が溢れ出した。
その隣で、中年の男性が小さく呟く。
「だが……実際に人が死んでいるんだ……」
誰も否定できなかった。
瑠奈は由紀にしがみつくように寄り添い、必死に気丈に振る舞おうとしていた。
「……大丈夫? 顔、真っ青だよ」
「……うん、平気。でも……」
瑠奈は亡骸から視線を逸らせずにいた。
黒崎が静かに一歩前に出る。
「……偶然ではないでしょう。停電も、制御室のロックも、そしてこの死も」
その声音は低いが、鋭く場を切り裂く。
「何者かが、この図書館を操っている。――俺たちは誰かに監視されている」
人々の背筋に冷気が走った。
「監視……?」
「どういうことだ……?」
誰かが呟き、誰かが首を振る。得体の知れない恐怖の影が背中を這い上がる。
ふと、空気が震えた次の瞬間――これまで頼りにしていた赤い非常灯が、パッと消えた。
一瞬の沈黙の後、館内は闇に覆われ、ざわめきが一気に広がる。
人々は声も立てられず、手探りで互いの存在を確かめ合った。
「……非常灯が……消えた……」
由紀の震える声に、周囲のざわめきが重なり、混乱の波が館内を駆け巡った。
黒崎が素早く懐中電灯を取り出す。
「皆、落ち着いて下さい!」
斎藤も手元のライトを点け、周囲を照らした。かすかな光が、凍りついたような空気の中で道を描く。
「懐中電灯だけじゃ不十分ね……」
由紀が呟くと、瑠奈がすぐさま応じた。
「何かで見たんだけど、水の入ったペットボトルを使って、光を拡散させられないかな?」
瑠奈は小さなペットボトルにライトを押し当てる。透明な水が光を屈折させ、周囲をぼんやりと照らす即席のランプが生まれた。
斎藤も真似し、複数のペットボトルを並べることで、館内にわずかな光の帯ができる。
「よし、これで最低限、足元は確認できる」
黒崎が深く息を吐く。手探りで移動する人々の混乱が少しだけ和らいだ。
由紀は懐中電灯の光に照らされた平野の亡骸を目にし、恐怖に震えながらも冷静に灯りの位置を指示する。
「皆さん、こっちを見て。ここに光を置いて、通路を確保しましょう」
小さな工夫が、閉ざされた館内で唯一の拠り所となった。人々は互いに協力しながら、かすかな光を頼りに座る場所や通路を確保していく。
赤い非常灯が再び戻ることはなかった。
闇の中、黒崎と斎藤、そして由紀と瑠奈の懐中電灯の光だけが、夜を乗り越えるための唯一の拠り所だった。
ほのかな光が、皆の張り詰めた心をわずかに緩めていく。
状況は何一つ変わらないが、胸の奥にかすかな安堵が芽生え始めていた。
「みんなでこの夜を乗り越えましょう」
由紀が自らを奮い立たせるかのように、明るい声で言った。
その時――
「村上さんっ!」
鋭い叫び声が、エントランスの空気を切り裂いた。




