宿場町のざわめき
ようやく森を抜けた二人は、夕暮れの宿場町へと辿り着いた。
通りには旅人や商人が行き交い、焼き魚や団子の香りが漂っている。
その中で、葛葉の姿はやはり浮いて見えた。
和装には薄く葛の葉の模様が散らされ、使い古されているのに不思議と清潔。
足元は雪下駄、頭には小さな帽子。
髪は少し跳ねていて、どう見ても手入れはしていない。
顔立ちは整っており、普通にしていれば好青年に見えるはずだ。
だが口には火のついていない煙管を咥え、胡散臭い笑みを浮かべながら歩くその姿は、町の喧噪にそぐわなかった。
だからこそ、子供が駆け寄り、指をさして叫んだのも当然だった。
「変なおじさん!」
葛葉の眉がぴくりと動く。
だが怒鳴る代わりに、煙管をふっと吸い込み、白い煙を吐き出した。
その煙は渦を巻き、やがて薄紫の蝶へと姿を変える。
「わあっ!」
子供たちは歓声を上げて追いかけ、手を伸ばす。
だが触れた途端、蝶は煙に戻り、指先から溶けるように消えていった。
子供たちはきゃあきゃあと笑いながら駆け去っていく。
「……あのな、普通あそこで怒るか無視するだろ」
ライネルが呆れた声を出す。
葛葉は肩をすくめ、紫煙を吐いた。
「無粋だな。笑わせた方が、酒代が安くなるかもしれんだろ」
⸻
通りを抜けた先、葛葉は鼻をひくつかせた。
「……ふん、こっちだな」
雪下駄をぱたりぱたりと鳴らし、路地の奥へと歩き出す。
「おい、なんで分かるんだ」
ライネルが追いかける。
「匂いだよ、匂い。酒場の空気は遠くからでも分かる」
路地の先には赤い提灯が下がり、板戸の上に大きな字が書かれていた。
ライネルは立ち止まり、字を確かめる。
「……確かに“酒”って書いてある」
葛葉は目を細め、にやりと笑った。
「へぇ、これ“酒”って読むのか。……この世界の字は知らんからよ、助かるぜ」
「……本当に読めないのか?」
「だから匂いで十分だって言ってんだろ」
そう言って引き戸に手をかけ、迷わず中へ踏み込んでいった。
ライネルは深くため息をつき、その背に続いた。
⸻
戸を開けると、ざわめきが一気に押し寄せてきた。
木の卓が並び、旅人や商人が肩を寄せ合い、湯気の立つ鍋を囲んでいる。
酒の匂いがむせるほど濃く漂い、笑い声と怒鳴り声と杯のぶつかる音が入り混じっていた。
葛葉は真ん中の卓へずかずかと進み、どっかり腰を下ろした。
「おい、酒! つまみはなんでもいい!」
ライネルは慌てて向かいに座り、声を潜める。
「……おい、本当に金はあるのか?」
葛葉はにやりと笑い、袖からひらりと木の葉を取り出して差し出した。
「ほれ。十分足りるだろ」
「……それで払えるわけないだろうが」
ライネルは呆れ果てて顔を覆った。
葛葉は肩をすくめ、煙管を鳴らす。
「冗談だよ。ま、どうにかなるさ」
⸻
やがて杯は空になり、卓の上には骨だけになった焼き魚が残った。
女将が近づき、勘定を告げる。
葛葉は袖の内から木の葉を取り出し、卓にぱらりと置いた。
次の瞬間、それは銅貨のように見える。
「ほらよ、釣りはいらねえ」
にやりと笑う葛葉。
女将は一瞬目を丸くし、手を伸ばしかけた。
だがその前に、ライネルが立ち上がり、鋭い声を張った。
「やめろ! そんなもの――犯罪だぞ!」
酒場のざわめきが止まり、周囲の視線が一斉に二人へ集まる。
葛葉は紫煙を吐き、木の葉を揺らがせる。
銅貨はふっと揺れ、ただの木の葉に戻った。
「ちぇっ、せっかく上手くいきそうだったのによ」
「せこい真似をするな! 人を騙すなんて絶対に許されない!」
ライネルの声は怒りで震えていた。
葛葉は両手をひらひらと上げ、へらへら笑った。
「はいはい。分かった分かった。真面目だねえ」
女将は怪訝そうに二人を見ていたが、ライネルが財布から硬貨を出し、机に置いた。
「これで払います。すみませんでした」
女将は軽く頷き、盆を抱えて去っていった。
葛葉は悪びれずに笑い、煙管をくわえ直す。
「……いやあ、いい飲みだった。金は払えりゃなんだっていいだろうに」
ライネルは机を睨みつけ、低く呟いた。
「……俺は、そういうのが一番許せないんだ」
葛葉は片目をつむり、からかうように言った。
「正義漢ってのも厄介だな。……だが、まあ嫌いじゃねえよ」