白い獣
森の奥で、音が消えた。
鳥の声も、枝葉を揺らすざわめきも。
ただ、砂を擦り合わせるような異様な音だけが近づいてくる。
ライネルの足が止まり、背筋に冷たいものが走った。
茂みが揺れ、白い影が姿を現す。
それは狼だった。
全身が白い粉を吹き、牙と爪は石のように硬化している。
息を吐くたびに粉が舞い、踏みしめた草がざらりと白く変わっていった。
「……白塩化……の……」
ライネルの声は震え、手にした棒がかすかに鳴った。
隣の葛葉も顔を引きつらせ、煙管を噛んだ。
「不味いな……酔いが完全に覚めちまった。酒で酔ってる時なら楽勝なのに……」
低く呟き、苦々しく笑う。
「面倒なのが出やがった……」
⸻
葛葉は煙管を強く吸い込み、紫煙を吐き出した。
煙は渦を巻き、やがて人影を象る。
鎧をまとい、大剣を構えた兵士が狼の前に立ちふさがった。
「へっ……どうだ、これなら怯むだろう」
だが狼は鼻を鳴らし、低く唸ると、迷いなく幻影に飛びかかった。
剣も甲冑も、一瞬で霧散する。
葛葉は顔をしかめ、舌打ちした。
「……ったく、獣相手に人間なんざ効かねえか。じゃあ何だ、虎でも出しゃ怖がるのかよ!」
⸻
森を駆ける
「走れ、ライネル!」
葛葉の叫びと同時に、二人は背を向けて駆け出した。
枝が顔を打ち、茨が衣を裂く。
足元は土が崩れ、何度もつまずきそうになる。
背後では狼が土を掻き、唸り声が追いすがる。
葛葉は振り返りざまに煙を吐き、木々の間に次々と幻影を立ち上げた。
燃えさかる火柱。
咆哮する虎。
影から這い出す怪物。
だが、どれも狼は怯まず、鼻を鳴らして突き抜けてくる。
幻影は次々と霧散し、そのたびに葛葉の顔が引きつった。
「うひょー……おっかねぇ!」
情けない声を張り上げながらも、必死に煙を吐き続ける。
⸻
ようやく森の開けた場所に飛び出すと、二人は土の上に転げ込んだ。
ライネルは荒い息を吐き、胸が破裂しそうに脈打っている。
「……俺、全然戦えなかった……」
悔しさに声が震えた。
隣の葛葉も腰を抜かしたまま尻をつき、震える指で煙管を探り出す。
ぷはりと煙を吐き、苦笑しながら呟いた。
「……いやあ、死ぬかと思った。……あちゃー、さっき呑まなきゃ良かったな」
ライネルは思わず葛葉を見た。
葛葉は肩をすくめ、空に煙を流す。
「白い獣といえば、俺の国じゃ神の使いなんだがな。ありがたみも何もねえ……」
彼は煙管を鳴らし、しわがれ声で笑った。
「戦うなんざごめんだ。俺は逃げて、酒飲んで、寝てたいよ」
その言葉は情けなく、頼りなく、それでも息を詰めていた胸を少しだけ緩ませた。
ライネルは悔しさと安堵を抱えたまま、黙ってその煙を見送った。