馬車の移動
森の奥から風が止み、乾いた匂いが流れていた。
ネリンが顔を上げ、淡々と告げる。
「……白塩化は自然現象ではありません。魔族が意図的に力を奪い、魔王へ注いでいる。その証を確かに見ました。
――私はこれを本部へ報告しなければなりません」
ライネルは拳を握り、視線を落とした。
「……僕の村は魔族に滅ぼされたってことですか」
葛葉は紫煙を細く流し、短く応じた。
「まあ、見たところそうだろう」
ネリンは小さく息を整え、二人に向き直る。
「あなたたちも、一緒に来てくれますか?」
短い沈黙ののち、ライネルは頷いた。
「……行きます。もう、同じことを繰り返させたくない」
葛葉は鼻で笑い、煙管を指で鳴らす。
「野良犬みてぇに彷徨うよりはマシか」
三人は歩き出した。行く先は、水上都市パルディアン――ギルド本部のある街だった。
⸻
宿場町の門を抜ける頃には、空が茜に沈みかけていた。
人の声、商人の呼び込み、焚き火の煙――白塩に呑まれた村の静けさとは別世界だ。
ライネルの胸に、重たいものが沈む。
「徒歩なら数日かかります。明日の朝一番の馬車を待ちましょう」
ネリンの提案に、葛葉が門前に腰を下ろして紫煙を吐いた。
「足を動かさずに済むなら文句はねぇ」
夜は安宿で過ごした。
ライネルは窓辺に立ち、沈んだ顔のまま夜空を見ていた。
ネリンは静かに言う。
「忘れる必要はありません。――彼らが眠れるよう、祈りましょう」
葛葉は布団に横たわり、煙を吐いた。
「死人の顔ばかり数えても腹は膨れねぇぞ。明日動けるよう寝とけ」
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翌朝。
馬車乗り場の喧騒の中、聞き覚えのある声がした。
「おや、奇遇だな」
ハリスが笑い、背後には盾を担いだジャンと、杖を抱いたフランが立っていた。
ライネルが思わず声を上げる。
「ハリスさん! ジャンさん、フランさんも……!」
「俺たちは本部の呼び出しでパルディアン行きだ」
ハリスが笑い、ライネルは驚いてネリンと目を合わせた。
「奇遇ですね。……私たちも向かうところです」
「へぇ、そいつは心強い」
やがて御者の合図で馬車が軋み、出発した。
葛葉は屋根に登り、日向に横たわる。紫煙がゆっくり空へ溶けていった。
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車輪が揺れる音。
ハリスが依頼の失敗談を大げさに語り、ジャンが無言で頷くたびに笑いが起こる。
フランは隣のネリンへ小声で尋ねた。
「調査員……白塩化の件も関係が?」
「ええ。詳細はまだ言えませんが、その調査の続きです」
和やかな空気の中で、葛葉だけが屋根の上で伸びをした。
「……んん、暖けぇ……」
そのまま再び、寝息を立てた。
――次の瞬間、森が咆哮で震えた。
御者の悲鳴とともに馬車が急停止する。
木立を割って飛び出したのは、三匹の熊――いや、背に岩のような甲殻を負い、四肢の爪が金属の音を立てる魔物だった。
口の奥には淡く白い光。泡のような唾液をしたらせる。
「魔物だ!」
御者の叫び。全員が即座に構えた。
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先頭の一匹にハリスが飛び込む。
剣が横薙ぎに閃き、爪を受け流す。
甲高い音とともに火花が散り、ジャンがその脇から大盾を叩きつけた。
重い衝撃音。獣が仰け反った瞬間、ハリスが喉元へ渾身の突きを放つ。
血と埃が舞い、巨体が崩れた。
二人の呼吸は噛み合い、まるで鍛え抜かれた歯車のようだった。
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「ライネル、右だ!」
ネリンが叫ぶ。
別の獣が馬車の側面へ突っ込もうとしていた。
ライネルは剣を抜き、地を蹴る。
鋭い爪が空を裂き、顔の横を掠めた。
頬に血の温かさが走る。
踏み込みざま、剣を振り上げたが、厚い毛皮に弾かれ、手首が痺れた。
「下がって!」
フランの声。彼女の詠唱が走り、光の矢が放たれる。
白い閃光が獣の右目を撃ち抜き、巨体が怒りにのたうつ。
その隙を逃さず、ネリンが風の刃を飛ばした。
切り裂かれた脚が崩れ、倒れ込む獣。
ライネルは歯を食いしばり、喉元へ剣を突き立てた。
手応えは重く、腕が軋んだ。
血と土が混じり合い、熱が指先まで伝わる。
倒れた獣の体から、かすかに湯気が立った。
ライネルは膝をつき、息を吐く。
「……俺、なんとか……」
「あなたが動きを止めたから、仕留められました」
ネリンの声には確かな評価があった。
フランも杖を下ろし、微笑む。
「焦らないで。今のが普通の初陣です」
⸻
残る一匹。
それは他の二匹よりも一回り大きく、棘の先が黒く焦げていた。
低い唸りが地を震わせ、空気が重く沈む。
馬車の前に立つ葛葉が、ゆっくりと煙管を外した。
龍脈酒を喉に流し込み、紫煙を吐く。
その瞬間、風が止み、森のざわめきが遠ざかった。
「……殺しは好かねぇ。できりゃ引き返してくれ」
獣が牙を剥く。
次の瞬間、紫煙が鎖となって伸び、四肢を絡め取った。
鎖が軋み、地面がえぐれる。
葛葉の目が、わずかに光った。
――その一瞬、空気の流れが反転した。
龍脈酒に宿る異界の気が漏れ出し、世界の枠が歪む。
獣はそれを本能で察した。
目の前の男は“捕食する側”の匂いをしている。
咆哮が悲鳴に変わり、拘束を解かれた途端、灰棘熊は森の闇へと影のように消えた。
葛葉は煙管を戻し、火皿を軽く弾く。
「へっ、最初からそうしてりゃ楽だったろ」
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戦いのあと、静けさが戻る。
ハリスが剣を拭い、笑った。
「若ぇの、なかなかやるじゃねぇか。初戦で逃げねぇ根性は大したもんだ」
ジャンが黙って頷き、フランがライネルの肩を軽く叩いた。
「手は震えてるけど、ちゃんと前を見てた。それで十分です」
ライネルは照れくさそうに笑い、剣を収めた。
その横で、葛葉がぼそりと呟く。
「……で、こいつら。金になるのか?」
一瞬、場の空気が凍り、ハリスが苦笑する。
ネリンが静かに首を振った。
「素材は高いけれど、運べません。討伐証明だけで十分です」
「へっ、骨折り損ってやつか。世知辛ぇな」
御者が恐る恐る声をかけた。
「……も、もう出発しても?」
「頼む」ハリスが頷く。
車輪が再び動き出す。
背後に残ったのは、土に沈む血と、紫煙の匂いだけだった。




