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白い爪痕

 昼下がり。

 三人は森を抜ける細道の脇で小休止を取った。木漏れ日が地面にほつれ模様を織り、湿った土の匂いに遠い川音が混じる。


「……思った以上に道が悪いですね……」

 荷を下ろし、汗をぬぐったライネルが息を整える。


「歩き慣れてねぇガキが根を上げるのは仕方ねぇ。まあ、もうちょいで慣れるさ」

 葛葉は幹に背を預け、紫煙を細く吐いた。


「……言い方がいちいち引っかかりますね」

 ライネルがむくれると、ネリンがくすりと笑う。


「気を紛らわしましょう。――魔法は得意ではありませんが、簡単な火種くらいなら教えられます。

どうですか、ライネル」


「えっ、僕にですか?」


 ネリンは指先を軽くそろえ、掌を上向ける。

 ぱち、と小さな火花が生まれ、すぐに消えた。


「詠唱は要りません。やることは一つ――“魔力を動かす”。

 最初から火を作ろうとするのではありません。胸で温めた魔力を、指先へとそっと押し出す。そして火打石を叩く様に、一瞬魔力を弾けさせるのです」


 ライネルは真剣な顔で頷き、同じ姿勢を取る。

 ……何も起きない。もう一度。――指先がわずかに震えるだけだ。


「……やっぱり無理みたいで」

 肩を落としたその瞬間、葛葉が煙管を軽く弾いた。


「仕方ねぇ、初回サービスだ」


 風もないのに、ライネルの指先でぱちっと微かな赤がほどけた。米粒ほどの火点――消える前に確かに、熱がいた。


「……出た!」

 ライネルの瞳が弾ける。


 ネリンは目を見開いた。

「一度で“形”になるなんて……飲み込みが早いのですね」


 (――今のは、俺の幻で“最初の一歩”だけ背中を押しただけだ。感覚を掴めば次は自力でいける)

 葛葉は何食わぬ顔で空を見上げ、紫煙を伸ばした。


「もう一度。今度は私の声に合わせて」

 ネリンは低く静かに区切る。

「胸……肩を落とす……肘をほどく……手のひらをひらく……指先へ――置く」


 ライネルの指先にちりと赤が灯った。今度は自力だ。

 熱は弱い。だが確かに“いる”。


「……できた」

 小さな感嘆が、森の陰影に溶けた。


 その直後、葛葉が自慢するかのように掌で派手な炎を咲かせて見せる。

青、緑、紫、赤――そして黄金の炎。

 ネリンは眉を寄せ、しかし口元に笑みを忍ばせた。


「……熱も匂いもない。綺麗な幻ですね。ですが幻では鍋は沸きませんよ」


「ちっ、手厳しいな」

 葛葉が肩をすくめると、空気の緊張がわずか緩んだ。


 荷をまとめ、三人は再び歩き出した。



 斑の光を縫って進むうち、ライネルが足を止めて指さした。

 根元や岩肌に、霜のような白が点々と付着している。触れれば崩れそうな、細かい塩の鱗片。


 ネリンが杖を強く握る。

「……白塩化。範囲が広がっています」


「前はここまでは来ていなかったのに……」

 ライネルの喉が鳴る。


 葛葉は鼻で笑い、紫煙を細く吐いた。

「放置してりゃ広がるとは聞いてたが、こいつはな……」


 乾いた匂いが風に混じる。空気はざらつき、肌の内側に粉が忍び込むようだ。

 三人は進路を村へ向け、歩幅を早めた。



 森を抜けた先――白が地面を覆っていた。

 畑の作物は葉の縁から白く枯れ、立ったまま薄い結晶の鱗で覆われている。

 柵や屋根は色を保っているが、表には白い粉が積もり、枝は人の気配が絶えた鳥籠のように静かだ。

 生きていたものだけが、外側から塩に蝕まれている。


 ライネルは思わず駆けた。

「――そんな……」


 広場。

 そこに人の形が点々と立っていた。老人、子ども、桶を抱えた女、鍬を肩に掛けた男――。

 多くは途中で崩れ、膝を折り、地に倒れて白の層を重ねている。

 ――だが、いくつかは立ったままだった。

 肩、頬、まぶた、その表層から凍り付くように白が一気に走り、姿勢ごと止められた痕跡。足元には四肢で掻いたような深い爪痕が並ぶ。


 ネリンは目を閉じ、短く祈るように息を吐く。

「……避難できた者もいたはずです。けれど、ここに残った人たちは――」


 ライネルは膝をつき、拳を握った。

「僕が、もっと早く帰っていれば……」


 葛葉が淡々と紫煙を吐く。

「戻らねぇ話より、今はあれを見ろ」


 顎で示された地面には、白く焼けた土を抉る三本爪。

 壁には身を打ちつけたような裂け目、床には何かを引きずった白い筋。

 新しい。粉がまだ呼吸をしているみたいに、風にさわりと鳴った。


「……狼だ。きっとあの“白い”」

 ネリンの声が低くなる。

「歩くだけで侵食は広がります。接触でなら一瞬で外側から“固める”。――この場所は、その跡です」


 風が広場を素通りし、塩の鱗が小雨のようにきらめいた。

 葛葉は懐から徳利を抜き、喉にひと口、厄介事の前の決まり事みたいに流し込む。


「……先に酔っとく。悪いが、面倒の匂いが濃い」

 地瓊壺の口縁がかすかに鳴り、紫煙が深くなる。


「行こう」

 ライネルが立ち上がる。拳は震えていない。震えは、胸の奥に押し込んだ。

 三人は爪痕の向きに沿って、森の奥へ踏み入った。



 木の幹にこびりついた薄鱗、草の先で粉になる光、肺の奥で擦れるような息。

 やがて――低いうなりが、木々の切れ間から漏れた。


 茂みをかき分け、三人は覗く。

 倒木の傍らに、白塩に覆われた巨躯の狼。その体躯は、以前より二回り程大きい。

 結晶の毛並みは風を受けず、ただ光だけを反射していた。牙は石英の刃。声は地鳴り。


 ……だが、狼は牙を剥かない。

 その前に、黒衣の人影が片手をかざして立っていた。


「なんでしょう、襲われている? いいえ――」

 ネリンの囁きが細る。「まるで“主”に従っている」


 葛葉は煙管を外し、視線を細める。

(多分酒のおかげで見えてるが、龍脈の糸か)


 黒い糸のような流れが、人影の掌から狼の結晶へ絡み――何かが狼から吸い上げられている。

 奪われたそれは空気の中でねじれ、流れに沿うように筋を通って、どこか遠い核へと注がれていった。


 黒衣の口元が、低く動く。

「……これでまた、魔王様の御身に力が戻る……」


 ライネルの胸が冷たく縮む。

「……魔王……?」


 ネリンは唇を強く結んだ。

「やはり……」


「あれは獣が吸い込んだ力か」

 葛葉がにやりと笑い、しかし目は笑っていない。


 やがて吸い尽くされた狼は音もなく崩れ、塩の殻だけを残した。

 黒衣は満足げに背を向け、森の闇に溶けていく。

 追える距離だ。――だがこの白の帯の上で不用意に踏み込めば、無事では済まないだろう。


 張り詰めた空気の中、結晶がさらと鳴った。

 葛葉は煙管を弾き、静かに呟く。


「……さて。敵の顔が、ようやく見えてきた」


 ネリンが頷く。

「放置はできません。痕跡を……慎重に追いましょう」


 ライネルは白い残骸を見下ろし、剣を握り直した。

 風が、塩の粉を攫っていく。

 森は息を潜め、三人の影だけが、静かに長く伸びた。

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