白塩の獣
地鳴りのような音が、白い結晶の塊の奥から響いた。
地面が微かに脈を打ち、白く濁った光が鼓動のように明滅する。
まるで何かが“中で息をしている”ようだった。
「……動いてる……?」
ライネルが息を呑む。
結晶の塊に、ひびが走った。
ぱきん、と乾いた音。
次の瞬間、そこから白い粉が吹き上がり、周囲の空気が歪む。
ひびは瞬く間に広がり、塊の表面が花のように割れていく。
その中心から、粘つく光を帯びた影がゆっくりと姿を現した。
――それは、鹿の形をしていた。
だが皮膚も毛もない。
全身が白塩の結晶で構成され、内側では淡い光が脈動している。
体を動かすたび、無数の結晶片がこぼれ落ち、粉雪のように舞った。
「……生まれた、のか?」
葛葉が紫煙を吐きながら呟く。
その声音には、興味と警戒が混じっていた。
白い鹿はゆっくりと首をもたげた。
濁った瞳の奥で光がちらつき、まるで記憶のない目で世界を見ているようだった。
その瞬間、周囲の空気が震えた。
低く、地を割るような咆哮。
葉が一斉に散り、冷たい風が渦を巻く。
白い粉が雪のように降り注ぎ、地面の色がみるみるうちに褪せていく。
「下がれ!」
葛葉が声を張った。
だが、獣はすでに動いていた。
四肢を鳴らし、崩れた結晶を蹴り飛ばして迫る。
その足跡ごとに地面が白く染まり、草が塩の結晶に変わっていく。
「……来るぞ!」
葛葉が叫んだ瞬間、白い鹿が突進した。
⸻
ライネルは剣を構える間もなく、衝撃に呑まれた。
角と刃がぶつかり、火花が散る。
体が弾かれ、息が詰まる。
避けることもできず、ただ反射的に剣を突き出した。
刃が結晶の脚を裂いた瞬間、白い光がはじけ、腕に鋭い痛みが走る。
「っ――!」
思わず剣を取り落とし、右腕を押さえた。
袖の上からでも分かる。
皮膚の下で、冷たくざらついた何かが広がっている。
白塩――。
それが触れただけで、まるで生き物のように腕を這い上がってくる。
「離れて!」
エルフの声が鋭く飛んだ。
杖の先から風が巻き起こり、白い粉を払い落とす。
腕を包む冷気がわずかに薄れ、塩の結晶が地に散った。
それでも皮膚には白い痕が残り、じくじくと痛む。
「……触れれば、一瞬で蝕まれます」
エルフは低く言った。
声は冷静だったが、その瞳の奥に動揺が宿っていた。
葛葉は短く舌打ちし、煙管をくわえ直す。
「なるほどな。見りゃ分かる。こいつぁ毒なんてもんじゃねぇ」
白い鹿が再び咆哮を上げ、崩れた地を蹴り飛ばした。
角が鈍く光り、空気そのものが凍りつく。
⸻
「……風の精霊よ、その脚を縛って!」
背後でエルフが祈るように囁いた。
淡い風が巻き起こり、鹿の脚を絡め取る。
突進の勢いが鈍り、ライネルの剣にかかる重さがわずかに軽くなった。
だが、それも一瞬だった。
結晶の脚が風を蹴散らし、拘束は砕け散る。
再び鹿が咆哮を上げ、白い粉が空気に混じった。
ざらついた冷気が肺に入り込み、喉が痛む。
「……この辺りは精霊が少ない。力が思うように出ません!」
エルフの声が苦渋を帯びる。
葛葉は鼻で笑い、懐から徳利を取り出した。
「なら、景気づけだ。――少し派手に行こうか」
喉を焼く酒を一口あおり、紫煙を吐き出す。
煙は風と絡み合い、巨大な蛇の幻影を形作った。
幻蛇は唸りを上げて鹿に巻き付き、軋む音を立てて締め上げる。
「……おもしれぇな」
葛葉が口の端を吊り上げる。
「今だ!」
ライネルが叫び、鹿の脚へ斬り込んだ。
結晶が砕け散り、白い粉が火花のように舞う。
鹿が体勢を崩し、苦悶の咆哮を上げた。
エルフの周囲に光が集まり、空気が震える。
彼女は深く息を吸い、静かに囁いた。
「……風の精霊よ、槍となり、この穢れを穿ってください」
疾風が槍の形を取り、結晶の光を纏う。
その姿に葛葉が目を細め、唇の端を吊り上げた。
「ほう……いい絵だ。――少し飾ってやるか」
煙管を軽く弾き、紫煙を吐き出す。
煙は槍の周囲に絡みつき、淡い色を帯びて揺らめいた。
風と幻が溶け合い、槍はまるで夢の武具のように煌めく。
葛葉は低く笑い、短く呟いた。
「……想像以上だな」
エルフが目を細め、低く叫んだ。
「――穿て!」
轟音と共に槍が放たれ、結晶の鹿の胸を貫いた。
幻と風が混ざり合い、白い光が爆ぜる。
塩の欠片が雨のように降り注ぎ、森全体が震えた。
巨体が地に倒れ、濁った瞳から曇りが消えていく。
その瞬間、森の空気がわずかに澄んだ。
白く濁っていた草の一部が緑を取り戻し、葉の先に柔らかな色が差す。
微かな鳥の声が響き、森が少しだけ息を吹き返した。
「……森が……」
ライネルは剣を下ろし、息を詰まらせる。
エルフは杖を下ろし、深く息を吐いた。
「この辺りはゆっくりとですが、元の姿に戻るでしょう」
葛葉は紫煙を吐き、低く笑う。
「へぇ……面倒でも、やりゃ少しは報われるもんだな」
しかし安堵の空気は長く続かなかった。
エルフの瞳が険しく細められる。
「……白塩の獣は歩くだけで周囲を侵し、広げていきます。生きている限り、源となるのです」
ライネルの胸が冷たく締め付けられた。
「……じゃあ、森で僕たちを襲った狼も……」
エルフが驚いたように振り返る。
「狼……? あなた方は、すでに遭遇していたのですか」
葛葉は肩を竦め、紫煙を吐いた。
「まあな。言ってなかったか。――あの時も厄介だったぜ」
エルフは眉をひそめ、杖を握り直す。
「それが本当なら、すぐに退治しなければなりません。その獣を見たのはどこですか」
ライネルは視線を伏せ、言いにくそうに答えた。
「……宿場町から西の森あたりです。でも、もう前のことです。今はきっと、どこかへ移動している……。すまない」
沈黙が落ちた。
エルフは唇を結び、冷たい声で言う。
「……いずれにせよ、放置はできません。必ず見つけ出さなければ」
葛葉は紫煙を吐き、視線を逸らさず言った。
「……お前の村を滅ぼしたのって、あの狼かもな」
ライネルははっと顔を上げた。
胸の奥を締め付けられるような感覚に、言葉を失う。
「ま、面倒は増える一方ってわけだ」
葛葉の吐いた煙が、白く濁った森に溶けていった。




