酒場の夜
ギルドを出ると、町の通りはすでに灯火に照らされていた。
石畳を踏みしめるたび、軒先からは香ばしい肉の匂いが漂い、
どこかで樽を転がす音が響く。
夜の酒場へ近づくにつれ、笑い声と歌声が混ざり合い、
まるで祭りの夜のような熱気が通りを包んでいた。
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扉を押し開けた瞬間、濃い酒精と煙草の匂いが押し寄せた。
酔客たちの笑い声、給仕の忙しない掛け声、
奥の方では笛の音が鳴り、床板が靴音に鳴った。
ハリスたちは慣れた様子で席を見つける。
「ほら、座れ座れ!」
ハリスが大きく手を振り、奥の丸卓を陣取った。
ジャンは無言で大盾を壁に立てかけ、
フランは長杖を椅子に預け、静かに腰を下ろした。
ハリスが給仕を呼び止め、大声で注文する。
「酒を樽で持ってきてくれ! 肉も山ほどだ!」
「……樽?」
ライネルは思わず目を丸くする。
「細けぇことは気にすんな! 今夜は新人のお前の祝いだ!」
ハリスは豪快に笑い、ライネルの背をばんばん叩いた。
葛葉はすでに盃を手にしており、
上機嫌で紫煙をくゆらせながら酒をあおる。
「……ふう、生き返るぜ。やっぱりこれが無きゃ始まらん」
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卓を囲み、酒が回り始めると、
自然と笑いと会話が混じり合っていった。
「ライネル、お前はどうして冒険者になろうと思った?」
ハリスが真っ直ぐな眼で問いかける。
ライネルはしばし言葉を探し、やがて静かに答えた。
「……村を失って、行く宛てもなかったんです。
せめて人の役に立てればと思って」
ジャンが無言で頷き、フランも微笑んで言葉を添える。
「立派な志ですね。危険な仕事ですが、あなたならやっていけるでしょう」
その優しい言葉に、ライネルは少し照れくさそうに笑った。
ハリスは杯を置き、今度は葛葉を見やる。
「じゃあ、お前はどうなんだ? 葛葉」
紫煙を吐き出しながら、葛葉は肩をすくめた。
「……大層なもんじゃねぇよ。ただ――家に帰りたいんだ」
ハリスが眉を上げる。
「家に?」
「そうさ。けど帰り方が分からなくてな。
旅をすりゃ、いろんな噂や古い書物に出会えるだろ?
それを頼りに、帰り道を探してるのさ」
ライネルは黙ってその横顔を見つめた。
“家”という言葉の響きには、懐かしさと、どこか遠い異郷の匂いがあった。
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その時、フランが杯を置き、静かに口を開いた。
「……前から気になっていました。あなたの術――どうして幻が、あれほどまでに“触れられた”のですか?」
葛葉は紫煙を吐き、にやりと笑う。
「理屈か。……嬢ちゃんは真面目だな」
少し身を乗り出し、問い返す。
「じゃあ一つ聞こう。嬢ちゃん、狐は好きか?」
フランは一瞬きょとんとし、そして思わず口元をほころばせた。
「ええ、可愛いと思います。尻尾がふわふわしていて」
「そりゃあ光栄だ」
葛葉は煙管を軽く叩き、唇の端を上げた。
「じゃあ、サービスだ」
紫煙が吐き出される。
それはたちまち小さな狐の形を取り、
尻尾をふわふわと揺らしながら卓の上を駆け回った。
「わ……!」
フランの瞳がきらりと光り、思わず手を伸ばす。
その指先が触れようとした瞬間、
狐はぱちりと弾け、霧のように散った。
一瞬の静寂。
フランは息を呑み、やがて柔らかな笑みを浮かべる。
「……今の、少し可愛いですね」
葛葉は盃を傾け、紫煙の向こうで笑った。
「へぇ……理屈より先に感想が出るとはな。
俺は、騙されるやつが好きだ。純粋に術を楽しんでくれるやつが、一番いい」
その声音は軽く、笑っているようで、どこか遠かった。
フランは言葉を探しかけたが、
葛葉が視線を外して酒を注ぐのを見て、
それ以上は何も聞かなかった。
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「おいおい、煙使いの兄ちゃん。酒が足りねぇぞ!」
ハリスの笑い声が響く。
ジャンが盃を掲げ、給仕が慌ただしく新しい樽を運んできた。
酒場の喧騒が再び戻り、
葛葉は肩をすくめて煙管を鳴らした。
「……騙す方も、疲れるもんだな」
小さくぼやき、紫煙を吐き出す。
それは天井に揺らめき、やがて夜のざわめきに溶けていった。
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熱気と笑いが渦巻く酒場の片隅で、
誰にも聞かれない小さな独り言だけが、
微かに残っていた。




