真鯛と彼女と、湯気の向こう
朝焼けの港に、冷たい風が吹く。
ぐったりした俺を横目に、梓さんは釣ったばかりの真鯛をヒョイと持ち上げた。
「ほら、見て見て!このサイズ、今日イチでしょ?」
「……はい。真鯛より僕の魂が釣り上げられてます……」
「なにそれダサい。あと、魂は釣ってないけど、魚はガチで釣ったよ?ほら、めでたい!」
「“めでたい”使いすぎて、そろそろ真鯛が気まずそうに見えてきました」
桟橋で待っていたのは、船長――ノブさん。
ニット帽に無精ひげ、魚より笑顔が濃い男だ。
「おう梓ちゃん、またスーツとヒールかよ。
んで今日は……お、男連れか?」
梓さんは胸を張って、爽やかに言った。
「はい!彼氏です!!」
風間樹、22歳。元不良、現・営業マン。
朝焼けの中で、心臓が爆発しかけた。
「……え、いま、えっ、はい? 彼氏って、あ、はい、あの、えっ?」
「わー、風間くん慌てすぎ!かわいー!」
「うるさいです!!」
ノブさんは笑いながら俺の背中をバシンと叩いた。
「そりゃまた、めでたいなァ!!
よし、梓ちゃん。船小屋、使っていいぞ。鯛めし、久しぶりに頼むわ!」
「やった!じゃあちょっとキッチン借りまーす」
*
船小屋に入ると、潮と木の匂いが混ざった落ち着いた空間だった。
コンロの前で、梓さんが髪を後ろでくくる。
その姿が、いつものスーツ姿と全然違って見えた。
「……本当に、料理できるんですね」
「できるっていうか、私さばくの得意だし? 剣道部だったし」
「いや武器違うじゃないですか」
「気合が一緒なら何でもいけるって!」
そんなテンションで始まった料理は、予想以上に本格的だった。
包丁を握る手は迷いがなくて、真鯛の身をきれいに下ろしていく。
炊き込み用の出汁を取り、炊飯鍋にセットしてぐつぐつ。
湯気が立ち上る船小屋に、優しい香りが広がった。
その間、俺はただ、呆然と見ていた。
昨日までの彼女と、目の前の彼女が同一人物とは思えなかった。
でも。
“10時間カラオケする彼女が、
朝の船小屋で真顔で鯛めし炊いてるなんて、誰が想像する?”
俺の中で、何かが静かに変わった気がした。
*
鍋のふたが開かれる。
立ちのぼる湯気の向こうに、笑う彼女がいた。
「できたよ〜!食べよ、風間くん!」
「……めっちゃいい匂い……」
「でしょ?“めでたい交際記念日”だからね!」
「もう“めでたい”聞きすぎてめまいしてきました……」
「じゃあ一緒に“たい”落とそ?」
「やかましいです」
3人分の鯛めし。
小屋の中に、潮の匂いと炊きたてのご飯の香りが満ちていく。
ノブさんがぽつりと言った。
「お前さん……いい女つかまえたな。逃すなよ?」
俺は、自然と答えていた。
「……はい。絶対に」
心から、そう思った。
“やばい”だけじゃ言い表せないこの人と、もっと一緒にいたい。
その朝は、きっと一生忘れない。